社会が自らの前に横たわる諸々の責務に目覚めてから、すでに二、三世代が経過した。社会は不平の軽減や人の生活条件を改善するための無数の計画の推進に取り組み始め、ますます多くの力をそれにつぎ込んでいる。そして、それに続く歳月の中で、多くの見事な結果が生じた。しいたげは取り締まられ、虐待は取り除かれ、労働時間は短縮された。教育は万人の手の届くものになり、矯正院や刑務所は改善され、公衆衛生や貧しい人のための住まいに大きな注目が集まるようになった。そして、慈善のために無数の計画が用意され、遂行されている。
これほど活動的な時代なのだから、人々の優しい感情は人類という自分たちの種族に属する者たちだけにもっぱら向かっているわけではなく、少なくとも、四つ足や羽を持つ友人たちにも少しは思いやりの気持ちが向けられているはずだ、と期待する向きもあるかもしれない。もし本当にそうだったなら、獣や鳥は大きな恩恵を受けていただろう。しかし、これまでのところ、彼らを世話する運動は部分的なものにすぎない。動物の処遇に対する無関心や冷淡さが私たちの周りに大いにはびこっているのを、私たちは依然として目にしている。こうした無関心や冷淡さは時として、計画的に生き物を苦しめる熱心さに姿を変えることがある。それは、その過程から人類がわずかでも利益を引き出せると認められさえすればの話である。
以下の頁を書き記すのは、このような無関心に反対する願いをもってである。しかし、私たちの所見をこの問題の一つの面だけに限定することにする。私たちは多くの議論や嘆願について調べることはしない。そうした議論や嘆願は、人とその意志に服している無力な被造物たちとの間に存在する数々の関係にまつわるものかもしれないが、私たちは私たちの探求を次の一点に絞ることにする――すなわち、はたして聖書の中には動物に対する私たちの論調や振る舞いに影響を及ぼすべき簡明な文章や暗示があるのかという点である。
確かに、動物たちに関する情報を望むなら、私たちは啓示に向かわなければならない。なぜなら、啓示がなければ、私たちはほんの少ししかわからないからである。私たちが目で見て容易にわかるように、動物たちは喜びや悲しみ、満足感や嫌悪感といった感情の影響を受けている。注意深く観察するならさらにわかるが、動物たちは多かれ少なかれ理性によって導かれており、愛、羨望、妬み、自尊心、他の諸々の感情の影響を受けている。私たちとかなり似ているのである。しかし、ここで私たちの探求は阻まれてしまう。これらの被造物は実際のところ何なのか私たちには探り出す術がないし、彼らがどこから来てどこへ行くのか私たちは告げることができない。しかし、霊感を受けた頁を調べるとき、私たちは彼らの過去の歴史と将来の運命の両方に関して何事かを学べるようになるのである。
動物たちの過去の歴史については、少なくとも次のことを確信することができる。すなわち、動物たちは人類と同じように高い状態から堕落して、今は追放の身なのである。これは蛇に下された判決から推測することができる。「おまえはすべての家畜、野のすべての獣のうち、最も呪われる」――この御言葉は明らかに、動物の王国全体を巻き込む呪いについて暗示している。しかし、この真理を簡明な言葉で啓示したのは使徒パウロである。彼は私たちに「被造物は虚無に服した」と述べている。すべての生き物は自分たちの意に反して腐敗の奴隷となり、それゆえ今、老い、痛み、死を経験するよう定められているのである(ローマ八・二〇)。
この大変化から多くの結果が生じたのを、私たちは追うことができよう。例えば今、世界に肉食性の動物がたくさんいる事実について考えよう。一つの被造物が他の被造物の肉を食らって生きており、この絶え間ない殺戮が自然の外見を悲しいものにしている。最初はそうではなかったのである。当初、青草が獣や鳥の唯一の食物であり(創世記一・三〇)――聖書が私たちに告げるところによると――将来、呪いが取り除かれた後もそうであろう(イザヤ十一・六~九)。
また、蛇がエバに明確な言葉を語った時、彼女は何の驚きや疑いも示さなかった。「当時、動物たちは会話する何らかの力を持っていた」と推測してもよいのではないだろうか?このような仮定はあらゆる面で可能である。もし動物たちがアダムに臣下として与えられたのだとすると、「アダムが罪の無い状態にとどまって主権を保っているかぎり、彼自身と彼に服することを願う臣下たちとの間に知的交信の手段が存在していたであろう」と結論するのは合理的以外の何ものでもない。
そしてこの推測は、おそらく、バラムの歴史の記載によって強められる。「主はロバの口を開かれた」(民数記二二・二八)――この奇跡の記述の仕方は、少なくとも、「被造物には元々会話する能力があったが、今は口が利けない異常な状態にある」という考えに有利である。
さらに、ヨブ記三九章を見ると、だちょうについて記されている。「神はだちょうが知恵を忘れるようにされた」(十七節)――これが本文の字義どおりの訳である――この御言葉は不自然で強引な解釈をするまでもなく、「だちょうは今は愚かな鳥だが、常に愚かだったわけではない」ことを意味する。
動物の世界に悪しき変化が降りかかった事実を指し示す、他のいくつかの暗示も挙げることができる。しかし、聖書にはまだそれ以上のことが記されている。聖書は不明瞭ではない言葉で、破滅した被造物の将来に対する神の輝かしい目的を明らかにしている。それと同時に、神が現在被造物に賜っておられる優しい顧みについても明らかにしている。この所見に関して今、証拠をいくつか与えることにしよう。