新約聖書で主ご自身が、か弱い被造物に対する御父の顧みについて、驚くべき洞察を私たちに与えてくださっている。ある時、すずめは人々の間であまり値打ちがなく、二羽一アサリオンで買えることを主が聴衆に思い起こさせた後、主はさらに言われた、「あなたたちの父なしに、その一羽も地に落ちることはありません」(マタイ十・二九)――すなわち、傷ついたり、凍えたり、嵐に打たれたり、あるいは、他の何らかの形で障害を負うことはないのである。「あなたたちの父なしに(without your Father)」という表現は、大いに注目に値する。どのギリシャ語原典を読んでも、これに変わりはない。アンシャル体でも草書体でもそうである。いくつかのラテン語の新約聖書と、クリスチャンの初期の書き物の一つか二つでは、「あなたたちの父の御旨でないかぎり」となっている。しかし、これは曲解にすぎない。それゆえ、私たちはこの言葉を省き、テキストを完全にありのまま受け入れなければならない――「あなたたちの天の父の御旨、臨在、助けなしに、その一羽も地に落ちることはありません」。
第三福音書の同様の節で、私たちの主はすずめの無価値さという周知の事実を、さらに強い光の中に置いておられる。二組のすずめを買うなら、ただで五羽目をもらえるのである。これは驚くにはあたらない。なぜなら、今でもパレスチナでは、この小さな被造物たちが屋根の上でさえずりながら列をなして座っている様子や、トウモロコシ畑の上をまるで小さな雲のように群がっている様子を目にすることができ、小さな子供たちでも簡単につかまえて市場で売ることができるからである。五羽のすずめは二アサリオンで売られていたのではないだろうか?しかし、その一羽たりとも神の目に忘れられることはない(ルカ十二・六)。しかし、偉大な造物主がこれらのさして重要でない生き物をこのように優しく気遣っておられるとするなら、造物主の素晴らしい作品に対して人が常に行っている無思慮で野蛮な取り扱いを造物主はどう感じておられるだろう?
奇妙に思われるかもしれないが、動物たちには神の愛と顧みに対して、少なくともある程度、感謝する力があることを聖書は明らかにしているように見える。なぜなら、聖書のいくつかの箇所を見ると、動物たちが神を見上げている様子が描かれているからである。これは、動物たちには神に食物を与えてくださるよう神に願う手段があることを示唆する。詩篇作者は言う、「若いライオンは獲物を求めて吠え、自分たちのための食肉を神に求める」(詩篇一〇四・二一)。また、「神は獣に食物を与え、また鳴く小ガラスに与えられる」(詩篇一四七・九)。ヨエルもまた、祖国の荒廃を描写して、叫んで言う、「野の獣たちもあなたに叫びます。川の水は涸れ果て、火が荒野の牧草を焼き尽くしたからです」(ヨエル一・二〇)。また、全能者ご自身、族長の魂が必要な訓練に対して反抗していた時、ヨブに対する素晴らしい呼びかけの中で尋ねて言われた、「小ガラスが神に叫ぶ時、カラスに食物を与えるのは誰か?」(ヨブ三八・四一)。
動物たちの現状と将来の運命に関して聖書が啓示していること、また暗示していることは以上のとおりである。しかし、これらの事柄はなんと少ししか顧みられていないことか。否、これらの事柄を少しでも知っている人はなんとわずかなことか!私たちの知識階級の大部分は、この主題を一顧だにしていないように思われる。たとえ彼らの注意が何かの拍子でこの主題に向いたとしても、「聖書によると、『獣は滅び失せる』運命にある」というような結論で、この問題をすべて片付けてしまいがちである。あるいは、おそらく彼らはこう答えるのである、「これらの被造物たちはあまり考慮する価値がありません。彼らの霊は、人の霊のように上に昇って行く代わりに、死ぬと『地に下』って塵に分解するのですから」。私たちが引用してきた聖書の節の上に異なる光を投じる別の聖書の箇所があるなら、もちろん、私たちは進んで私たちの推論を修正しなければならない。しかし、少なくともこの二つの節について検証することにしよう。この二つの節は丁度引用したばかりであり、私たちの反対者はいつでもこの武器を使う用意ができているからである。
この二つの節のうち、一つは詩篇四九篇に現れる。この詩篇では、わずかな違いはあるものの、十二節と二〇節で同じ句が二回繰り返されている。二〇節はこうなっている――
「それにもかかわらず、人は栄華の中にとどまれない。 人は滅び失せる獣のようだ。」
さて、この節について最初の論評を述べると、「滅び失せる」というヘブル語は字義どおりには「沈黙させられること」を意味する。したがって、フュルストの「口の利けない動物たち」という翻訳と同程度の根拠しかない。それゆえ、この御言葉は議論の根拠としてやや心もとない。
しかし、たとえこの最初の論評を放棄して、この節を現行の聖書翻訳どおりに受け入れたとしても、この「滅び失せる」という言葉のヘブル語は獣だけでなく人にも使われている事実に私たちはまたもや出くわす(ホセア十・七、十五、イザヤ六・五を見よ)。それゆえ、ここで獣の運命がどうであれ、人もそれと同じ運命なのである。
最後に、この節の最上の訳はおそらくデリチェの訳である。彼は「人」と「獣」を両方ともこの動詞の主語にしている――
「人は栄華の中にとどまれない。 人は獣のようである。人も獣も滅び失せるのである。」
一つ目の引用については以上である。二番目の節は伝道の書三章二一節に見つかる。この節は古代のすべての翻訳者と現代の多くの注解者――その中にはデリチェとゼックラーもいる――によると、私たちの英語聖書では間違って訳されており、疑問文でなければならない。この節はソロモン王の懐疑的な瞑想の一つの中に現れる。それらの瞑想からわかるように、ソロモン王は幸福な時代の後に経験した実りなき労苦の数々を思い巡らしていた。伝道の書はそれらの労苦の例をいくつか示した後、崇高な論を述べる。この結論の段落は十八節から始まる。その箇所で、王は過ぎ去った出来事を思い返しつつ、神は決定的裁きの時を先延ばしにしておられることを述べている。その理由は、神が人の子らをふるいにかけるためであり、また、人は神を離れたら獣に優る者ではないことを人の子らに気づかせる機会を与えるためだった。なぜなら、人も獣も両方とも同じ運命が待ち構えているからである。すべての生き物にとって死は避けられないものである。みな同じ場所に向かって急いでおり、やがて塵になって混ざり合い、一大共同墓地である母なる大地に帰る。死後、人と獣は同じ運命を共有しない可能性があるものの、それは不確かなことであり、決して答えられたことのない疑問である。なぜなら――
「誰が知るだろう? 人の子らの霊について、 それらが上に昇って行くと。 また、獣の霊について、 それが地に下って行くと。」
これがヘブル語原文が伝えるこの節の意味だと思われる。しかし、英語聖書の意味を認めて、この節を肯定文と見なしたとしても、それでも動物の霊が消滅する証拠にはならない。ヘブル人の考えによると、「地に下って行く」という表現は「ハデスに下って行く」ことを意味する――ハデスは肉体から分離した霊のいる所であり、しばしば地下の低い部分、地球の中心にあるものとして述べられている。コラとダタンとアビラムは、地が口を開いた時、生きたままハデスに下って行った。また、そこからサムエルの霊が上って来て地上に現れた。それゆえ、この場合でも、詩篇九篇十七節で人々について述べられているくらいのことしか、動物たちについても言えないのである。
「邪悪な者はハデスに戻って行く。 神を忘れるすべての国々もそうである。」
この二つの節のどちらも、被造物たる動物を軽んじてよい証拠にならないことは、このように明らかである。「動物の諸部族が存在するようになった唯一の目的は私たちに娯楽を与えるためであり、いずれ永遠の虚無に消え去る運命にある」などと軽んじてはならないのである。私たちが導いた結論には何の問題もないし、被造物に対する私たちの取り扱いに強い影響を及ぼしてしかるべきである。被造物には私たちと同じような未来があるように思われるし、また、被造物は地上における私たちの訓練のために決して取るに足りないものではない役割を果たすよう定められているように思われる。
動物たちに対する私たちの権力はほぼ無制限である。また、動物たちはあらゆる面で私たちより劣っていることに議論の余地はない。この二つの事実を抗しがたい証拠として挙げて、「私たち自身や私たちの種族が何らかの益を受けられるなら、動物たちを残忍に扱ってもかまわない」という主張がしばしばなされる。仮にこの論理が正しかったとしても、いささか不穏当であろう。なぜなら、理性的に考えて、正義は宇宙のどこでも同じであり、私たちより強い生き物もいるからである。しかし、偉大な造物主の知恵と力は私たちより遙かに高くそびえ立っており、それと比べたら、私たちと動物の違いは無きに等しい。この造物主が世の命のために愛するひとり子を賜った時、彼は劣った者たちを見下す利己的な手本を私たちに示すようなことはなさらなかったのである。