この奥義の啓示

チャールズ・プライス

最後の時代まで保留されてきたある事柄がある。「時代の満了の経綸」のその最後の時代、主は最後の覆いを取り去られる。そして、われわれは完全に完成される寸前にある主の御計画の栄光を見る。「そこでイエスは彼らに言われた、『あなたたちは、神の王国の奥義を知ることを賜っているが、外の人たちには、これらすべてのことがたとえで語られる』」(マコ四・一一)。

主がこの御言葉で述べられた二種類の人々がいる。「あなたたち」と「外の人たち」である。知ることを賜っているのは一部なのである!それは人間的理解力の所産ではない。キリストの正体についての啓示がペテロの幸いな心の水平線上に臨んだのと同じように、この真理は開示され、明らかにされ、啓示される。「父よ、あなたに感謝します。あなたはこれらの事柄を知者や賢い者から隠して、赤子たちに啓示して下さいました」というイエスの御言葉を思い出せ。

ここでもう一度、「啓示」というこの強烈な言葉が登場する。ここでもう一度、真理の啓示・開示はわれわれが愛し仕えている御方からの賜物である、という真理が直接的に述べられている。祝福された慰め主は、キリストに属する事柄、秘密の事柄を受け取って、それをわれわれに啓示する力を与えられた。そして、われわれは自分が知られているように知るようになる。それは習い覚えた知識ではなく、分与された理解力であり、御霊の力によって分与される。

エペソの教会への手紙の一章九節でパウロはこう述べている、「神は御旨の奥義を私たちに知らせて下さいました。これは、神がご自身の中で計画された彼の大いなる喜びによるもので、時代の満了の経綸の時に、天にあるものも地にあるものも、すべてのものをキリストにあって一つに集めるためです」。

アダムに属する人は失敗を犯してきたし、諸国民は混乱の中にある。酷い暗闇が地を覆っており、夜陰が水の面にある。それでも、小羊が行くところにはどこへでもついて行くレムナントが常にいる。花嫁と天の花婿との間には依然として合一が存在する。神の計画は依然として完成されるのである!何もそれを止められないし、何もそれを妨げられない!

天然の人は地の天然的事柄の秘密の中へと進み入っている。原子をもてあそび、母なる自然が代々にわたって施錠してきた諸々の秘密のいくつかをこじ開けようとしている。しかし、結局のところ、それは神の計画の一部である。そうであることを神はわれわれに告げられた、「多くの人はあちこち駆け巡り、知識が増すでしょう」(ダニ一二・四)。

天上で、われわれも御旨の奥義の啓示を見いだす。諸々の霊的発見がなされつつある!それは人の理性の力によるものではない。それは御霊の啓示によって臨む発見にほかならない!われわれは黙示録を見つめている!啓示を見ている!御旨の奥義の啓示を見ている。

同様に、時代の満了の経綸においても、天と地の事柄が開かれつつあり、啓示されつつある。聖書はわれわれに告げる、「時代の満了の経綸の時に、天にあるものも地にあるものも、すべてのものをキリストにあって一つに集めるためです」と。われわれは地を天の中に、天を地の中に見ることになるのである!

被造物は連れ戻される!御父が御子に賜ったすべてのものを御子は所有するようになり、花婿にあってすべては花嫁のために確保される。これを知るのは何と栄光なことか。花婿のものはすべて花嫁のものになる。「あなたが私に与えて下さった栄光を、私は彼らに与えました。それは私たちが一つであるように、彼らも一つとなるためです。私は彼らの中におり、あなたは私の中におられます。それは彼らが完成されて一つになるためであり、あなたが私を遣わされたこと、そして、あなたが私を愛されたように彼らを愛されたことを世が知るためです」。

聖なる合一

いにしえの時代、イサクのものはレベカの持ち物になった。なぜなら、イサクは彼女のものだったからである。だから主は贖った子供たちに、キリストに属するものを花嫁はすべて利用できることを明らかにしておられる。「パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとくあなたたちのものです。すべてはあなたたちのものであり、あなたたちはキリストのものであり、キリストは神のものです」(一コリ三・二一~二三)。

永遠にわたって、主はご自身が授けた栄光と美しさの中にある花嫁を披露されるだろう。しかし、そのような美しさはご自身の美しさの反映にほかならないのである!

霊の領域の主権者たちや権力者たちは、イエスがカルバリで成し遂げて獲得された神の計画が完全かつ徹底的に完成されるのを見るだろう!奥義中の奥義は、われわれがキリストに似た者になることである。なぜなら、われわれはありのままのキリストを見るからである!

レベカがイサクの一部になった時、イサクに属するものはすべてレベカのものになった。これは型による証しである。しかし今日、われわれは御霊の証しを耳にしている!輝かしい真理を見ている。御霊はキリストについて語られる。キリストの栄光と美しさ、キリストの豊かさ、キリストの恵みについて告げられる。キリストの測り知れない富の途方もない巨大さを明らかにされる!そして、「私のものはすべてあなたたちのものです!」とイエスは言われる。「勝利する者はすべてを受け継ぐ。私は彼の神となり、彼は私の子となる」(黙二一・七)。

福音書自身はもっぱら主として啓示であって、教理、信条、生活体系ではない。ひとりの御方の啓示である!「御子を私の内に啓示することを神がよしとされた時」という言葉を、パウロはガラテヤ人への手紙の中で述べている。

キリストを高く上げよ!

イエスを高く上げることが常に福音の物語の核心であり、福音のメッセージの力である。それは人々に宛てた宣べ伝えではなく、キリストの宣べ伝えである。「私が地上から上げられるなら、私はすべての人を私に引き寄せます」。

われわれが救われるのは自分の功績によってではなく、キリストの功績によってである。キリストをおいてどこにわれわれは救いを見いだせるのか?そもそもわれわれは救いを求めるべきではなく、むしろ救い主を求めて受け入れるべきである!「主は私の光、私の救い。誰を私は恐れよう!」。

エペソ一・一七にこう記されている、「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示の霊をあなたたちに賜って神を認めさせて下さいますように」。この節のウェイマス訳では「啓示」の代わりに「透視」という言葉が使われており、「神を知る親密な知識による透視」となっている。

カリフォルニアでは、パロマ山上に建設中の新しい天体望遠鏡について多くの話をした。評論家たちは、この天体望遠鏡は「天に昇ってその神秘を探り(中略)宇宙を透視してその秘密を探る」だろうと述べた。

このような透視は、未知のものの中に進み入る霊的レーダーに似ている。われわれの主イエスキリストの神から、知恵と透視の霊を賜物として受けて、神を認めさせてもらえるとは、主の子供にとって何と素晴らしい特権であることか!この「透視の霊」を求めて、ある人は昔、「ああ、それは私がキリストとその復活の力を知るためです!」と叫んだ。この叫びには、すでに目で見て受け取っているものを遥かに超えたものがある、という思いがこめられていた。それを求めて心は叫び、霊は焦がれていたのである!

このような神聖な分与は天の花婿からの贈り物である!それは天の花婿が花嫁に授ける宝であり、確かに人の奮闘の結果ではないし、人の働きに対する報いでもない。それは神へと分離されて、その生活が神の御旨に対して従順になり、神の目的に素直に従うようになった人々に与えられる。

だから、われわれは目を上げなければならない。なぜなら、われわれの贖いの時が近づいているからである!「他の人々のように眠っていないで、目を覚まして慎んでいようではありませんか(中略)なぜなら神は私たちを御怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定めて下さったからです。キリストが私たちのために死なれたのは、私たちが起きていても眠っていても、私たちがキリストと共に生きるためです」(一テサ五・六、八~一〇)。

御霊は私たちの眼差しを、地と時と感覚に属するものから離れさせる。それは、われわれが天を見上げて、とても素晴らしい御方を見ることができるようになるためである!聖霊は神の磁石として遣わされている。それはわれわれを地から天に引き寄せるためであり、自分自身について語るのではなく、むしろ「私のものを受けて、それをあなたたちに啓示する」のである。

われわれを恐ろしい地獄から引き上げてくれる祝された慰め主のこの磁力がなければ、われわれには地上に何の希望もなかっただろう。「それゆえに、天よ(霊の者たち)、そして天に住む者たちよ、喜べ。地と海に住む者たちはわざわいである。なぜなら悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下って来たからである」(黙一二・一二)。

キリストの愛を知ること

キリストが天から地に来られた目的は人々を解放すること、しみやしわのない彼らをささげることだった。花嫁が時間と感覚の領域の中から獲得され勝ち取られて、喜んで進むようになるのは聖霊によってである。花嫁が自分の意志に逆らって娶られることは決してない。花嫁の意志が明け渡されて天のかしらと一つになる時、この旅はますます快調になり、この空の旅はますます速やかになる。

神はご自身の御旨の中にこの聖なる婚宴のための計画を保ってこられた。これらの隠された事柄が明らかにされるのは、御霊の啓示を通してである。花嫁は心からこの成就された栄光を望んでいる!アブラハムの僕が主人の持ち物を取り出してレベカに見せ、彼女の以前の所有地から彼女を誘い出したように、祝された御霊はキリストと御父のものを取り出して示される。それは、それらによって影響を及ぼして、キリストの花嫁を上に向かってまた外に向かって引き寄せ、キリストの傍らの彼女の場所に迎え入れるためである!

婚宴は奥義である!聖霊によるこの奥義の開示により、「その広さ、長さ、深さ、高さ」が光の子らに示され、彼らは「人知を超えたキリストの愛を知る」ようになる。地の低い谷間を歩んで、キリストの贖いの血の清めの力によって、その御霊の命の中に入った人々の前途には、携挙という最高の結末が待っている。この最高の結末はとても間近に迫っている。そのため、待ち侘びている花婿の永遠の家でなされている準備活動の物音を、霊は耳で聞き取れるほどである!