かの大いなる日

チャールズ・プライス

世界の基が据えられる前に神によって定められた神の御旨と御計画を見る時、われわれは今この計画の啓示の中にいることに気付く。このような啓示がこの究極的完成の時代に神の子供たちに臨んでいる!神はわれわれにかの全能の神の大いなる日について語られたことを思い出す!全知なる神であり父である御方の辛抱強さと忍耐をわれわれは常に覚えている。それはわれわれが特に今日人の活動の中に見る、せっかちさや性急さや慌ただしさとは対照的である。神とその御業を見る時、「神は約束されたことを成し遂げられることを完全に納得」する(ロマ四・二一)。「今より後も私は主である。私の手から救い出せる者は誰もいない。私が行えば、誰がこれをとどめられよう」(イザ四三・一三)。「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は地の尊い実りを、前の雨と後の雨があるまで耐え忍んで待っています。あなたたちも耐え忍びなさい。あなたたちの心を確立しなさい。主の来臨が近いからです」(ヤコ五・七、八)。

人が不従順の道を選んだ直後に、われわれは来るべき時代に究極的に完成される神の御旨について耳にする。然り、女の裔が蛇の頭を砕くのである。神は人をご自身のかたちに、ご自身の姿に似せて造られた。神はご自身に似た者との交わりを望んでおられた。しかし人は自分の好む方を選んだ――全知全能の神によって統治されることを選ぶ代わりに自分が統治できるものを選んだのである!下り坂の長く暗い諸世紀の間、人は統治されることよりも統治することを選んできたのである!そして今、人が存在するに至ってから最も暗いこの時、われわれは自己統治を選んだ結果を目の当たりにしている。

それでも永遠なる神の輝かしい計画は決して破棄されなかった!神の統治が地に確立される日が到来することになっていた!人の貪欲さと野心が全能なる神の知恵に屈服する日である!神がご自身の王国をまさに地上に確立される日である!われわれが長い間渇望してきた日である!まさに神の子たちの現われの日である!

そして例のごとく、偽りの統治が神を出し抜いて神とは無関係な一つの統治勢力を設立しようと空しく試みることがわかる。この勢力はあまりにも神と異なっているので、それは全地の住人の心と思いを奴隷にする!この奴隷制は、もし可能なら、神ご自身の愛する子供たちをも、今や世界を飲み込もうとしている野蛮な勢力の圧政下にもたらそうとする。何という狡猾さで彼らは暗闇の中で働いてきたことか。彼らは全生活必需品を与えようとする者たちから援助を受けてきた。そして、これらの援助を受け取るかたわら、彼らは戦争の武器を製造するために多くの国民の技能を脅しによって得てきたのである。

成就した

同様の光景をわれわれは見る。この光景では、キリストが死に至るまで仕えられた人たちをわれわれは今や目撃する。彼らは全能の神から赦しと無代価の健康をキリストの死により――この死を彼らは探し求めていたのである――受け取るべき者たちだった。彼らは一度限り永遠にキリストを排除しようとした。最終的にキリストの尊い口から発せられた「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」という叫び、そしてまた「成就した!」という叫びをわれわれは耳にする。その時、キリストは人の姿を明け渡し、その霊は去った。誰かがそれを彼から取り去ったのではなく、彼がそれを御父に渡されたのである。残忍な歓声と共に、彼らはキリストを排除する目的を遂げたと思った!今や、自分たちの只中にいる神の御子というこの邪魔者抜きで、支配・統治できるのである!

この光景はその後の長い諸世紀の間に変わった。われわれは、「憐み深くあれ。貧しい者、病人、苦しんでいる者を覚えよ」という神の呼びかけを感じている。そしてこの呼びかけに応じて、神の子供たちは至る所で自分たちの地上の宝を注ぎだして、自分たちの物資を海を越えて送り出し、欠乏の中にある者たちのために金を提供している。それにもかかわらず、彼らがわれわれの大陸に送り込む破壊的要素をわれわれは知っている。彼らを助けようとする際、このキリスト教国家を排除しようという彼らの熱望にわれわれは気づく。確かに、われわれは「城壁のない村々」の日を目の当たりにしている――この大敵の手の中で自分たちが全く無力なのを目の当たりにしている。この敵はこの国の敵であるだけでなく、全能の神の敵でもある!

この光景は暗い!しかし
「私の救い主イエスは墓の下に横たわりつつ
 来るべき日を待っておられた。イエスは私の主である!
 墓から彼は復活された
 敵に対する力強い勝利と共に
 暗闇の領域に対する勝利者として彼は復活された
 そして彼は永遠に生きて聖徒たちにあって統治される。
 ハレルヤ キリストは復活された。」

「聖徒たちにあって統治される!」。御子による支配、そして子たちによる支配の日が、間もなく全世界に現わされる!この光は暗闇の中から輝いて、地の住人たちは見る。昔のようなへりくだったナザレ人ではなく、まさに神が勝利のうちにやって来られるのを――栄光に包まれて聖徒たちにあって統治するためにやって来られるのを見る!そして、彼は御父によって与えられた地位に着き、すべての敵を屈服させる。山々を低くし、谷々を高くする。そして、ご自身に敵対しようとするすべての者に勝利しつつ歩まれる。然り、愛する者よ、この王のために道を備えよ!王が勝利のうちに、そして力と栄光のうちに統治するために来られるからである!「そして主に贖われた者は戻って来て、その頭にとこしえの喜びをいただき、歌うたいつつシオンに来る。彼らは楽しみと喜びを得、悲しみと嘆きは逃げ去る」(イザ三五・一〇)。

夜回りの静けさの中で、足音が聞こえる。その足音はキリストが弟子たちの間を歩まれた時の足音に似ており、その時彼は「私が行ってあなたたちのために場所を備えたら、再び戻って来て、あなたたちを私に迎えます。それは私のいるところにあなたたちもいるようになるためです」(ヨハ一四・三〇)と言われた。ああ、父よ、私は祈ります。「それは彼らがみな一つになるためです。父が私の内におられ、私が父の内にいるように、彼らもまた私たちにあって一つとなるためです。私は彼らの内におり、彼らは私の内にあります。それは、あなたが私を遣わされたことを世が知るためです。あなたが私に与えて下さった栄光を私は彼らに与えました。それは私たちが一つであるように、彼らが一つとなるためです。私はあなたの内におり、あなたは私の内におられます。それは彼らが完成されて一つにされるためです。そして、あなたが私を遣わされたこと、そして、私を愛されたように彼らを愛されたことを、世が知るためです」(ヨハ一七・二一~二三)。

すべてのすべて

われわれ自身の精神力、政治的・道徳的・霊的力で、建造におけるこのような一つを実現できる見込みは全くない。しかしキリストを追い求めるとき、キリストはすべて――われわれの霊・魂・体すべて――を祭壇の上に喜んで置く力をわれわれに与えて下さることがわかる。それはキリストがわれわれの内でわれわれのすべてのすべてとなるためである。キリストは暗闇の中から輝きだして道を照らす光になって下さる。この道はますます輝きを増して真昼になる、と彼は約束して下さった!然り、愛する人よ、これらのことが起き始めるのを見たら、われわれは上を見上げることができるのである!喜べ、われわれの贖いは近いがゆえに!体・魂・霊の贖いである!われわれの内で御業を開始された方が、それを成就しないなどということがあるだろうか?世の基が据えられる前からそれを目論まれた方は、御父と共に持っていた栄光を捨て去って、「人の姿」を取り、身を低くして一人の処女からお生まれになったのである!彼は十字架に付けられ、死んで葬られた。そして三日目に復活し、今や神の右手にあって、あの地への号令を待っておられる!この号令は彼が勝利のうちに来臨される時のものである!あなたは理解しているだろうか?イエスはご自身の魂の苦しみからまだ満足のゆく結果を見ておられないのだが、将来ご覧になるだろう!われわれの愛する救い主であるイエスは満足され、キリストのからだの肢体であるわれわれも満足するのである!しかり、キリストに似た者となって復活する時、われわれは満足するのである!

ああ、栄光の日よ!ああ、勝利の日よ!再びわれわれの贖い主は勝利のうちにこの地にやって来られる!贖った被造物に対する明確な支配権を握るためにやって来られる。そして、永遠にわたって統治して、その永遠の王国は終わることはない。この約束は、われわれも彼と共に統治する、ということである。何と素晴らしい恵み――何という愛の物語。しかし私の心の中に彼はささやいておられる、「あなたは私と共に統治することはできません――もし私があなたの内で統治していないなら」。ああ、キリストよ、ここにわれわれの心があります――来て統治して下さい。