啓示と叙述

チャールズ・プライス

神の子供たちは至る所でわれわれの主が解き放たれる啓示を喜んでいる。われわれが神から受けるものは啓示であり、人から受けるものは叙述である。さて、この叙述は良い正しいものかもしれないが、それは決して神の御旨の開示に取って代われないし、一人一人の心にとってもそうである。イエスはご自身の正体とご自身の来臨の目的という学課をシモン・ペテロに教えたかったのだが、啓示の光の下でこの真理が開示されるのを待たれた。「幸いなるかな、バルヨナ・シモン。あなたにそれを啓示したのは肉や血ではなく、天におられる私の父です」(マタ一六・一七)。神は霊であり、神を礼拝する者は霊と真理の中で礼拝しなければならない。啓示は肉や血の領域には臨まない。われわれの理屈という道筋で降りてきてわれわれに近づくのではない。パトモス島の聖ヨハネの啓示は、もし彼が「私は主の日に霊の中にいた」という言葉と共にこの輝かしい物語を述べることができていなければ、決して見ることはできなかっただろう。おそらく、御霊が自分の内に生きておられると告白していても、「御霊を生きる」すべを学んだことのない人々がいる。

飛行機による旅行は、ある霊的真理の輝かしい絵図である。飛行と機体の安全のために何と重要な役割を「高度」は果たしていることか。地の上にはいくつかの階層がある。低い階層では雨が降っているかもしれない。その上では霧がかかっているかもしれない。このようなエア・ポケットや気象状態では旅は難儀なものになる。しかしそれでも、その上には、陽光の中を旅できる、下のガタガタ道を超越した階層がある。このようにして人は霊の中で昇ることを学ぶ。霊の中でのみわれわれは神を礼拝することができる!口先だけの奉仕は受け入れてもらえない。われわれは主の高く上げる力を主に求めることができる。われわれは昇って主とまみえることができる。霊の中に生きることを学ぶことができる。

主の子供たちには、啓示により、今や王国の諸々の奥義が開かれている!科学者たちが宇宙の秘密を探求して、命と死を含む事実や実験を示しているように、主の子供たちにも王国の諸々の奥義が開かれている。人が地に向かっている時、この絵の真の景色は決して見えない。人類の輪郭が形を取り始めるのは、もっと高い高度からである。「肉の水準」の地上には、独善的な自己満足や、人類の業績に対する強烈な自己満足がたくさんあるように思われる。しかしわれわれが霊の中で昇る時、われわれは人々をとらえている捕囚や束縛、偉大な解放者を求める叫びを目にする!社会学や政治経済学を学んでも、これらのことを見ることはできない。何という暗闇の中を人々は歩いていることか、そして何という盲目さで道を手探りしていることか!彼らには見えないのである。なぜなら、この幻が臨むのはただ啓示のみによるからである!「神の正しい裁きが啓示される怒りの日のために……」(ロマ二・五)。

パウロはこの知識と理解力に至る開かれた大路について、エペソ一・一七と一八でこう述べている。「私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたたちに知恵と啓示の霊を与えて彼を知らせ、あなたたちの理解力の目が照らされて、彼の召しの望みの何たるかをあなたたちが知ることができますように。また、聖徒たちの中にある彼の嗣業の栄光の富の何たるかを知ることができますように……」。この御言葉の中には、たんなる聖書研究では得られない霊的力がある。主が人々に知恵と啓示の霊を与えて下さいますように!とパウロは祈っている。理解力の目が照らされることを彼は求めている。「聖徒たちの内にある彼の嗣業の栄光の富」が実際にいかなるものなのかをわれわれが知ることができるのは、ただこのような啓示による。ただ啓示によってのみ、われわれは「信じる私たちに対する彼の力の卓越した偉大さ」を知ることができる。

神の事柄に対するこのような取り組み方をペテロは知っていた。「ですから、あなたたちの心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの啓示の時にあなたたちに与えられる恵みを最後まで望んでいなさい」(一ペテ一・一三)。この荒っぽい粗野なガリラヤの漁師は、啓示以外の方法では、主の深遠な宝を受け取れなかっただろう。イエスが彼に「肉や血がそれをあなたに啓示したのではなく、天におられる父です」と言われた日から、彼の手紙の最後の章の最後の言葉に至るまで、ペテロは天に属する知恵の開示の麗しさを知っていた。神とまみえて交わることがいかなることかを知っていた。彼の兄弟であるヨハネのように、王国の諸々の奥義はただ啓示によってのみ知りうることを彼は知っていた。

人が天然の感覚を通して語る時、それは叙述である。しかし今や御霊は、啓示により、この世と王国の隠された事柄を明らかにして下さる。この啓示が言葉となって他の人に告げられるやいなや、それは叙述となり、それゆえ、伝達の困難が生じる。律法の下では、祭司と預言者と王は、神の御旨と目的を人々に告げるよう指導を受けた。ただ大祭司だけが神の臨在の中に入って、そこでシェキナの栄光を見、永遠なる御方と顔と顔を合わせることを許された。しかしイエスがカルバリで死なれた時、宮の幕は二つに裂かれた。だから、われわれは仲介者を必要としない。大祭司を必要としない。ただキリスト・イエスだけが必要である。御父はご自分の子供たちに喜んでご自身を啓示して下さる。ただ一つの扉があるのみである。神に近づく一つの大路があるのみである。それは主イエス・キリストである!