十分な方である神

チャールズ・プライス

御言葉は啓示を必要とする!御霊の解き明かしを必要とする!御言葉の著者である方がその意味を心に説明して下さらない限り、何人も御言葉を正しく読むことはできない。確かに、御言葉は知性では理解できない。また、たとえわれわれが理性の力を尽くし、人間的判断力を尽くしたとしても、有限の心で御言葉を理解することはできない。人の精神は神に属する事柄を吸収・理解できない。われわれの内におられる神こそ、解き明かして啓示して下さる御方であり、われわれの明け渡しと喜んで受け入れるその程度に応じて啓示して下さる御方である。聖書が述べる真理の幾ばくかを頭に入れても、われわれを自由にしてくれる真理は得られない!

われわれのどれだけ多くの者が、主を見いだせない道で主のもとに行こうとしてきたことか。われわれは主と駆け引きをしようとしている。主と交渉しようとして、「あなたがあのことをして下さったら、自分はこれを行います」と言っている。机に向かって学ぶことは可能である。学校で机に向かって代数に取り組んだり、歴史の年号を覚えるのと同じ心構えで、御言葉を読むことに専念することは可能である。しかし、キリストのものを受けてそれをわれわれに啓示するのは聖霊の務めである!「御霊ご自身、私たちの霊と共に証しして下さいます」。これなしでは、われわれに霊的に価値あるものは何もない。

われわれは神の「」の中を歩むべきである!今日の行いをそれによって形造るための模範を求めて、昨日を振り返る必要はない。昨日われわれはキリストにある赤子だったのではないだろうか。そして、過去の経験を自分の生活の模範にしようとする限り、われわれは赤子のままで居続けるのではないだろうか!成熟に達するには、昨日の玩具を脇にやって、神の子らとなるための力を得られるあの聖なる関係の中に入らなければならない。

神の性質

神の性質がわれわれの内にある時だけ、主はご自身を表わされる。無意識のうちに、われわれはわれわれの理性という道を通してわれわれに近づくよう神に強いようとしている。この道ですべてはわれわれに臨んだのではなかったか!それなら、なぜ、これが霊の事柄の中に入るための方法であってはならないのか?とわれわれは考えてしまう。われわれがしょっちゅう失敗するのも無理はない!

われわれは理解できないのだろうか?肉の汚れと堕落した人の思いで散らかっている経路を通して、天の父に属するものを取り込もうとする時、われわれ自身が道をふさいでいるのである。霊の光と理解力はこの道を通って来ることはない!降伏して明け渡された霊という道に沿って、自分自身の理解力に頼るのではなくすべての道で主を認める生活という高速道路により、主の臨在が現わされ、主の恵みの素晴らしさが心を喜ばせるのである!

二つの領域がある。天然の領域と霊の領域、人の領域と神の領域、理性の領域と神の王国である。これをわれわれ自身にあてはめると、一方は肉であり他方は霊であると言える。ローマ八章の一部をウェイマス訳から読むことにしよう。

「私たちの生活は私たちの地的性質によってではなく、霊的性質によって管理されなければなりません。人が自分の地的性質によって支配されるなら、その人は自分の思いを地的事柄に渡します。人が自分の霊的性質によって支配されるなら、その人は自分の思いを霊的事柄に渡します。地的事柄に渡された思いは死を意味しますが、霊的事柄に渡された思いは命と平安を意味するからです。地的事柄への明け渡しは神への敵対の状態です。そのような思いは神の律法に服することはできず、否、従いえないのです。心が地的事柄に夢中になっている人々は神を喜ばせることができません。(中略)だから兄弟たちよ、私たちは自分たちの最も低い性質に拘束されていませんし、それに支配されて生きるべきでもありません。もしあなたたちがそのように生きるなら、死は近いです。しかし、もし御霊の支配下にあるなら、あなたたちは自分の古い肉体的習慣を死に渡しつつあるのであり、あなたたちは生きることになります!」「なぜなら神の御霊によって導かれている人々は、みな、神の子たちだからです。あなたたちは奴隷としての意識や、あなたたちを恐れで満たす意識を再び受けたのではありません。そうではなく、子として受け入れられているという深い、内なる確信を得たのです。この確信は『アバ!私たちの父よ!』と大声で叫ぶよう私たちを促します。」(ロマ八・四~一六、ウェイマス訳)

われわれは十字架を見て、自分たちに対する神の愛に感謝しているかもしれない。しかし、われわれの内にある神の愛の力を知っている人はあまりにも少ない!われわれに対する神の愛を黙想することは、確かに素晴らしいことである。しかし、われわれの内側に啓示される神の愛の力を知ることは比類ない喜びである。それを知ることと、それを持つこととは別の問題である!神学の分野で多作だったある著者のことを私はどれほどよく覚えていることか。彼は認知された学徒であり、その本は遠くでも近くでも受け入れられていた。ある日、彼は私の前に立った。その頬には涙が流れ落ちていた。そして、内側の最も深いところから、「ああ、キリストとその復活の力を知ることができたら!」と叫んだのである。

われわれの内に住むため

イエスが来られたのは、われわれがそれによって生きることができるある組織を与えるためではない。われわれの組織の中に生きるために来られたのである!われわれのとなるために来られたのである!彼が来られたのは、われわれの思いに触れて、神の真理を「理解できるようにする」ためではない。真理の化身としてわれわれの中にご自身を受肉させるために来られたのである!彼はわれわれの内に生きて、日がたつにつれて、ご自身をますます示して下さる。そして、天の父の臨在と力がとても現実的なものになるので、真理はあまりにも巨大すぎてそれに冗漫な言葉をまとわせることや自分たちの定義で制限することはできないことをわれわれは知るようになる。

定義不能な真理をわれわれは知ることができる!われわれに対してご自身を啓示するには、性質(霊)の一つが存在しなければならず、そこで相互の会話が可能になる!彼は「この世の言語」で会話されない。十字架は始まりにすぎなかった!われわれの再生は開始にすぎなかった!われわれは救いにおいて「成長」するのではないし、救いがわれわれにおいて成長するのでもない!われわれが彼に明け渡すときはじめて、彼がわれわれの内を歩んで、救いが現わされるのである!これがなされる時、彼は十分であることをわれわれは見い出す!どの試練に対しても十分である!どの問題やどの疑問に対しても十分である!これ以上遠くに行く必要はない。彼は十分なのである!

この啓示

朝の早い時間、コンコーダンスを調べるよう導かれた時、何と素晴らしくイエスが私の心に啓示されたことか。ギリシャ語のコンコーダンスの中に「十分な」「十分さ」という言葉を見つけた時、突然これらの言葉が私の霊の中で聖なる炎のように燃え上がった。それから私は再び読んだ。「何かが自分から出ていると考えるには、私たちは十分ではありません。私たちの十分さは神から出ています!」。これで十分である。神は十分である。自分の貧弱な人間的知恵で神の「十分さ」に反対し、それに取り組むことを試みて、自分には理解不能だからという理由で神にご自身の命を私の内で生きてもらうのを拒むことを、私はあえてするだろうか?神はご自身の解き明かし手ではないだろうか?神が多くの住まいからなる家に向かう道をわれわれの内で歩まれる時、神は様々な方法でご自身を示されないだろうか!このために神はわれわれを贖われたのである。われわれをクリスチャンにすることが主目的ではなく、われわれをキリストのための住まいとするためである!そのようにわれわれの内に住むために、われわれは生ける神の宮となるのである!

結局のところ、世界に手を差し伸べるには、神のためのわれわれの務めではなく、われわれにおける神の務めが必要である!この間違いをわれわれは犯してきた。われわれはこれを行おうとしてきた!われわれは熱心になって、「主よ、私たちの努力を祝福して下さい!」と心から祈ってきた。自分の計画を立てて、「それを祝福して下さい!」と主に求めてきた。自分で決定を下して、「御霊をその上にとどまらせて下さい」と主に求めてきた。神に決定を下してもらう(神にわれわれの考えの創始者になってもらう)方が素晴らしいのではないだろうか。そうするなら、跪いて、「この決定を祝福して、それを強めて下さい」と神に「夜通し祈る」必要はなくなる。その代わりに、神の祝福がわれわれの降伏して明け渡された霊を通して、制約や妨げを受けずに流れるようになる。そして、「荒野」は喜び、薔薇のように花咲き、荒れた所は喜びで歌うのである!

主よ、あなたは共にいて下さいます

私の人生から昔の喜びが消え去っても、
かつて私のものだった諸々の宝を私はもはや求めることができません。
この真理は私の飢えた空腹の心を養います:
主よ、あなたは共にいて下さいます!あなたはなおも同じ方です!

力は尽き、足は今や疲れ果てても、
もはや他の用事に喜んで赴くことはしません。
なぜため息をついて、陰鬱な日々を送っているのか?
主よ、あなたは共にいて下さいます!これ以上の賜物があるでしょうか?

こうして、人生の日々の中で、いかなる人や物が私に降りかかったとしても、
友人たち、交友、大小の喜びが降りかかったとしても、
私は歌うことができます。悲しみに打ちひしがれる必要はありません。
主よ、あなたは共にいて下さいます!なおも私の心にはあなたがおられます!

ペンテコステの日、弟子たちは力を求めなかった。彼らがそこに行ったのは、神から諸々の賜物を受けるためではなかった。彼らが主の御前で待ったのは、権威を授かるためではなかった。彼らが待っていたのは、権力や力の証書のためではなかった!ペンテコステの日に起きたのは、神がご自身を弟子たちにまとわせることだった!弟子たちは明け渡し、神が王座につかれた!弟子たちは明け渡し、神が権威を握られた!神はご自身を弟子たちにまとわせたのである!

その瞬間から、それは神の務めであって弟子たちの務めではなかった。ペテロとヨハネが祈るために宮に行った時、美しの門で足のなえた人に話しかけたのは、彼らの内におられるキリストだった。良い働きをたくさんしている、知識欲旺盛な神学者たちが、否定しえないこの奇跡を見た時、彼らは直ちにこの力をペテロやヨハネに帰し始めた。しかし何と速やかにこの御霊に満たされた人々はこれを否定したことか!「なぜあなたたちは、私たちが自分の力でこれを行ったかのように、私たちを見ているのですか?」。彼らは秘訣を知っていた!世を根本的に揺るがす真理を知っていたのである!

イエスは十字架に付けられ、死んで葬られた、と世人は思った。弟子たちは、彼は自分たちの内に宿っておられることを知っていた!彼らは神の御旨を行っていただけではない。彼らは神の御旨だったのである!彼らは彼から何かを受けただけではなかった。彼の内にある力を経験していたのである!ああ、甘美で、崇高な、輝かしい真理!奇跡中の奇跡!恵みの驚異と贖いの愛の無限の深さ!彼らは美しの門のところで困っている人に出くわして、神は十分であることを見い出した!彼らの力ではなく、神の十分さが、門のところにいたこの人を解放したのである。

神の安息

彼らは上の部屋で奮闘をやめて、手放し始めた!「私はどうすればこれをやりとげられますか?」と人々は時々尋ねる。あなたにはできない!これがその麗しい点であり、輝かしい点である。大事なのは達成することではない。これは明け渡しの問題である。大事なのはあなたが神のために行うことではない。神があなたにあって行われることである!われわれが「自分にはできません」と言い、神が「私にはできます!」と仰せられるのを聞く地点に達することは、何と素晴らしいことだろう。

苦闘の末に、失敗や幻滅しか見当たらず、「自分には信仰がありません」と言える地点に達することは、何という解放だろう。その時、神は「私にはあります」とわれわれに語って下さり、ご自身がその答えとなって下さる。神がわれわれにあって現わされるのは神の信仰ではないだろうか?山々を移すのは神を信じる信仰ではなく、神の信仰である!前者は苦闘と努力であり、後者は平安である!

十分である!確かに、われわれ自身は十分ではないし、たとえ一千万年生きたとしても、永遠にそうなることはない!何と惨めな窮地に、われわれの知性偏重主義はわれわれを導いたことか。世人がこれを知っていようが知っていまいが、これが人の統治の結末である!人は六千年支配してきた。しかし、もう十分である。われわれの天の父が支配される。今は、それが完全に現れる前の準備の時である!

もはやわれわれの誰も「ああ、主よ、私に力を与えて下さい!」と祈るべきではない。その代わりに「ああ、主よ、ここに私がおります!」と祈るべきである。自分の心の中から悪しき道を取り除いたり、自分の思いの中から悪い思いを取り除こうとしてもがくべきではない。われわれにはできない!われわれは十分ではない。しかし主は十分である!主は宮の中から両替商――それはわれわれである――を追い払われる。そして、われわれが自分たちのためにしようとしてきたことを、主はわれわれの内で完成して下さる!

はわれわれの知恵である!から生まれた知恵に匹敵する知恵は地上にはない。主の知恵は決してしくじらない知恵である。われわれは本末転倒なことをしてきたのではないだろうか。物事のために祈るとき、われわれは自分の生活をに明け渡すべきだったのである!何百もの人々が、「なぜ主が答えて下さらないのか私にはわかりません。私の生活に何か問題があるのでしょうか?」と言ってきた。しかし、最も深いとまどいを人は決して口にしないし、われわれは途方に暮れることを自分の心に決して許さない。もしわれわれがもう少し自分の心を開いて主を認めていれば、われわれは答えを見い出していただろう!

多くの人はすすんで「力」を求めるが、すすんで主を受け入れる人はごくわずかなように思われる!私が言わんとしているのは名目上のことではなく、内なる王国のとして、自分たちの生活のとして受け入れることである。導き手また統治者、現在と未来のわれわれの全存在のとして受け入れることである!

「ああ、門よ、あなたの頭を上げよ。永遠の扉よ、上がれ。栄光の王が入って来られる。この栄光の王とは誰か?強くて力ある主、戦いに力ある主である。ああ、門よ、あなたの頭を上げよ。永遠の扉よ、上がれ。栄光の王が入って来られる!」。