御言葉・御霊・実体

チャールズ・プライス

私は疑問に思うのだが、あなたは飢えているだろうか。少しばかりの肉を欲しているだろうか。私のクリスチャン生活で最も輝かしくて美しい霊的経験の一つの中に私は入りつつあるように感じる。もしかするとあなたは、私の説教を記した書き物や聖壇から語られた言葉の動向に気づいているかもしれない。私はこれまで漸進的啓示の福音を強調してきた!いかなるクリスチャンも伝統的信条や標準的神学の壁内の霊的生活に自分を閉じ込めてはならないと、私は強調してきた。これはイエスに従う男女に起きかねない最も危険なことの一つである。なぜなら、これによって、われわれは御霊の働きを制限してしまうからである。

われわれは神と、人間生活における神の働きとを、われわれ自身の思想が造り上げた境界に制限してしまう。そうすることで自分の救いを失うことはないが、このような救いが日々刻々われわれにもたらすはずの祝福と命と力を失ってしまう。かりに神がわれわれに完全であることを要求されたとしても、それはその日の時点における完全であり、相対的完全である。

小さな赤子は完全である。手足に傷はまったくなく、その小さな青い目は健やかな輝きを発する。新しく生まれたピンク色のかわいい子を見て、われわれは「この子は完全な子だ」と宣言する!しかし、その完全は相対的なものにすぎない。それは理解力や運動能力に成長の可能性がないことを意味しない。その小さな子供は食物を摂って肉体的に成長し、完全な人になって、自分の両親の身の丈に達しなければならない。だから、恵みと知識において成長するよう、クリスチャンは勧められている。彼らは御言葉の肉にあずかるべきである。主が分け与えて下さるものを同化吸収するよう指導を受けて、最終的に霊的成熟に達した民の立場に達しなければならない。

われわれの家の近くに遊び場がある。一度ならず、私は自分の車を止めて、遊んでいる子供たちを観察した。私は彼らの生き生きとした表情を見、休み時間に幸福な心と喉から発せられた喜びに満ちた叫びを聞いた。満足しきった様子の活気に満ちた幼年期を見て、私は心の中でこう言った。「あの子供たちには全く何の心配もない。完全に満足しきっており、このうえなく幸福なのだ」。もし私が年月の回廊の先を見ることができたなら、その小さなそばかすの少年が成長して成年に達し、工場の中で、人生の諸々の責務に直面しているのが見えただろう。もしかすると、別の子供は多忙な店舗経営者になるかもしれない。また別の子供はどこかの聖壇で永遠の御言葉を説いているかもしれない。私が述べたい要点はこうである。すなわち、この子供たちがこのうえなく幸せである事実は、人生の諸々の責務を負う義務や、成長して成年に達する義務を彼らに免除するものではないのである。

われわれのクリスチャンとしての歩みも同じである。われわれははちきれんほど幸せになって、今の自分の状態に満足しきってしまうあまり、自分は神の救いの恵みの小道の終点に達したと誤解してしまう。そして、既定の神学や教会の伝統の枠内で、幸福な満ち足りた生活に落ち着いてしまう。

目覚めよ、目覚めよ!

自己満足というこの危険な麻痺状態から、われわれは目覚めなければならない!何度も何度も聖書は、「まどろんでいる時は過ぎ去った。今は警戒し、目を覚まして、見張るべき時である」ことを悟るよう、われわれを戒める。処女たちのたとえ話を忘れてはならない!彼女たちはみなまどろんで眠ってしまったのである!金敷をハンマーで打ち鳴らして、この永遠の真理をあなたの心に鳴り響かせよ。賢い処女も愚かな処女も同じように眠ってしまったのである!彼女たち全員が眠ってしまったのである!これが今日の危険性であり、現今の悲劇である。われわれは独り善がりな自己満足と、自分の過去の霊的達成に対する自己満足とによって、眠ってしまったのである。神は祝福して下さっており、これ以上自分たちのために何があるのか?というわけである。

われわれは遊び場にいたあの子供たちのようである。幸せで今の自分に満足している。われわれの天の父との豊かな関係に向かって成熟に至ろうとしていないし、主イエス・キリストの交流と交わりを享受すべきなのに享受していない。

神は常に、次第に明らかになる上向きの行程の道に沿って働いてこられた!ほんの一時の間、あなたの注意を御言葉に向けさせたい。古の時代、御言葉は羊皮紙の上に消えないよう記された。それは啓示された神の御旨だった!時には、御言葉は神の御手によって石板に刻印されることもあった。時には、御言葉は天から響き渡ることもあった。時には、自然の様々な顕現を通して御言葉が聞こえることもあった。例えば、風や海や雷の音によって。それだけでなく、細い声によって、主ご自身が語られることもあった。

今日、「それが神の完全な計画だった」と言える人がわれわれの中に誰かいるだろうか?神は失われた人類に、それによって究極的に救いをもたらせる方法や体系を与えられただろうか?神はある行動規範――それは人間生活を治める合法的標準となるべきものであり、ゆくゆくは、神の素晴らしい臨在の中で過ごす永遠の門を開くことになる――の概要を示されただろうか?

古の族長たちと聖人たちは、神の顕現と啓示の輝かしい諸々の方法で神と接触したが、私がどれほど言葉を費やしても描写できないほど興奮したにちがいない。それでも、それは神の最善ではない、と私は断言する。それは完全な計画ではなかった。受肉の奇跡が起きた事実はまさに、これを証明する。昔の律法主義は上に昇るはしごの横木の一つにすぎなかった。このはしごを人類は昇って、ますます神の御心に近づき、ますます神のパースンと御旨の理解に近づかなければならなかったのである。

ヤコブが夢で見たはしご

昔、受肉の啓示を受けた地上の少数の人々は、自分の内で「これこそ神の偉大な計画の最高峰です。憐み深い神が心に抱かれた永遠の計画の成就です!」と言ったにちがいないと思う。しかしわれわれは今日、受肉の奇跡と同じように輝かしい驚くべき奇跡を知っている。受肉は神が人類を導く上に向かうはしごの最後の横木ではなかった。来るべき時代の光により、永遠の都の通りへと導く門に立てかけられているこのはしごの最後は、人の手によって作られたものではないことがわかるだろう。ヤコブが夢で見たはしごは霊的なはしごの型にほかならず、地上や地獄のいかなる勢力も決してこのはしごを壊せない。神の御計画の道もそうであり、初めに存在していた言葉は肉体となられた!この言葉は無効にされなかった。最初からわれわれの天の父の御心の中にあった御旨の次第に明らかになる啓示の中に、それは溶け込んだ。神と共にあったこの言葉が、実際に人々の間に住まわれた!神である言葉が現わされて、恵みと真理に満ちていた!われわれはその栄光を見た。御父のひとり子の栄光である!受肉の教理に言及する時はいつも、われわれの心は感謝のうちにキリストに向かうし、そうしてしかるべきである。

放棄がなければ受肉はありえなかったことを思い出さなければならない。ピリピ二章五節から八節にはこうある。「キリスト・イエスのうちにあったこの思いを、あなたたちのうちでも思いとしなさい。キリストは神のかたちの中に存在されますが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれを空しくして僕の形を取り、人間の姿になられました。そして、人としての有様で見い出され、ご自身を低くして、死にまでも、実に十字架の死に至るまでも従順になられました」。

彼が下られたのは、われわれを引き上げるためである。彼がわれわれの水準にまで下られたのは、われわれが彼の水準にまで引き上げられるためであり、キリスト・イエスのうちにあったこの思いがわれわれのうちにも宿るためである。ご自身の神聖な神たる身分を確立するために彼はこれを行われたのではない。われわれが神の子になるのを可能ならしめるために、彼は放棄して受肉されたのである。このはしごを下った後、彼は空手で戻ろうとはされない。かえって、贖った人類を携えて、彼らを永遠の贈り物として天の父の御座の前にささげるのである。ヘブル人への手紙の一章で、使徒はキリストが神の子である七つの証拠を示した直後、引き続き次の章で、キリストの人との一体化の七つの要点を示す。キリストは人の水準にまで下り、人の性質を取り、人の誘惑を耐え忍び、人の代わりに死に、人の敵を征服し、人の勝利を達成し、人の救いを獲得されたのである!

終点はない

しかし、われわれはそこで止まってしまったのではないだろうか!!なぜわれわれは聖霊の導きに従ってこなかったのか。聖霊の務めは超自然的な事柄を明らかにすることであり、人の理解力では決して理解できないこと、人の目だけでは決して見ることのできないものを啓示することである。

受肉を教理として受け入れることと、それを生活と心の中に活力として適用することとは、別の問題である。イエスの人性という永遠の事実を決して忘れないようにしようではないか。「彼に罪はなかった」と言うことは、彼が人類と一つである現実を損なわない。かえって、彼を完全な人として確立する。彼は、御父の御旨に完全に従い、御父の永遠の御旨に完全に服することにより、人間生活の中で何が可能になるのかを示す、生ける見本なのである。

再び次のことを強調する必要がある。贖われたすべての子らは、人なるキリスト・イエスが地上で生活して務めを果たすのを可能にしたのと同じ神の資源を利用できる。彼が誘惑に打ち勝った力が、われわれ全員にも無代価で差し出されている。この力は何もイエスだけの特別な遺産ではない。一度ならず彼が保証されたように、彼が行われたことは彼自身の力によって行われたのではなく、彼の内に住んでおられる御父によってなされたのである。

思い出そうではないか。この同じ力を、クリスチャンとして成長する小道をイエスと共に旅する人はみな、利用できるのである。キリストの満ち満ちた身の丈にまで進んだ人々の務めによって、神の臨在のこの顕現が、それに伴う栄光全体と共に、すべてを一掃する日が来る。この日は遠くないことは明らかではないだろうか?これは空しい夢ではない。福音書はこれで脈打っている。書簡はこれを宣言している。使徒一〇・三八がこう述べているのを決して忘れるな。「神は聖霊と御力とをもってナザレのイエスを油塗られました。この御方は行き巡って善を行い、悪魔に虐げられているすべての人を癒されました。なぜなら、神が彼と共におられたからです」。

思い出そうではないか。御父が御子に与えられたものを、御子は同じように人に差し出してこられたのである。しかし、その現実を完全に受け入れる代わりに、われわれはそれから教理を作ってきた。従順にそれを受け入れる代わりに、われわれはひどく恐れてきた。そのため、われわれの不信仰や批判から生じた疑い、恐れ、誤解のうちに、その可能性は失われてしまったのである。

外に向かって、また、上に向かって

主に贖われた神の子よ!あなたは、制限された人生の境界線の中にあなたを束縛してきた垣根を倒すことを、心の中で願ってきたのではないだろうか?信者の人生の中に御霊がやって来られたことですら始まりにすぎないことを、あなたは理解してこなかった!われわれが聖霊でバプテスマされた時、われわれはすべてを受けたわけではなかった。これは極めて確実なことである!「自分はやり抜いた」という句をわれわれは用いてきたが、これは何という悲劇だろう!もし求めるものが顕現だけで、それ以上のものを求めないなら、どれほど多くのものを失ってしまうことか。もし興奮に基づいて生活し、感情の心地よい感触を求めるなら、どれほど多くのものを失ってしまうことか。われわれは主イエス・キリストを求めるべきである。キリストは聖霊でバプテスマされた御方である――そしてこの御方を通してわれわれは外に向かって、また、上に向かって進み、永遠の無限の栄光の領域に至るべきである。この栄光を与えることを神は待っておられる。

人なるキリスト・イエスのうちにおられたのとまさに同じ御霊が、キリストにあるすべての人に与えられる。聖霊は、イエスに対してそうだったすべてのものに、あなたや私に対してもなることができる!この輝かしい真理で永遠の御言葉は脈打っている。言い換えると、われわれ全員が利用できるようにされていない資源は主にはない。しかし、それらの資源に向かって身を伸ばして、われわれの永遠の神の恵みによってそれらを所有する代わりに、われわれは無頓着なことに「幼稚園」的人生経験で満足してきたのである。われわれはまた、事物の上辺に基づいて生きてきたのだが、それらの事物は与えられた日に所期の目的を果たしたにすぎなかったのである。

さて、誤解しないでほしい。これらの事物は、その日、その時は、神の御旨の中にあった。しかし御霊が与えられたのは、われわれをあらゆる真理の中へと導いて案内するためである。しかもわれわれは、「それゆえキリストに関する初歩的な教えを後にして、前進して成熟した成人になろうではありませんか」(ウェイマス訳、ヘブ六・一)と勧められている。われわれはこれらの「第一原理」を軽視しないし、それらがもたらす祝福や、当時与えられた光や理解力をけなしもしない。つまりは、それらははしごの横木にすぎなかったのである。このはしごはわれわれを外に向かって、また、上に向かって導いて、さらに偉大な啓示と、主と主が啓示して下さる御旨とに関するさらに深くて豊かな理解力へと至らせるものだったのである。

この受肉の経綸における神の意図を、われわれは垣間見ているのではないだろうか?われわれが、われわれの主のように、自己の命を捨てることを実行しようとしさえしていれば!神性がわれわれの人性と一体化したのは、人性が神性と一体化されるためである。

イエスが人と一体化された時、それは人がイエスと一体化することを可能にするためだった。これは確かに驚くべき発言だが、それからの逃げ道はない!彼はあらゆることで彼の兄弟たちのようになられた。それは、あらゆることで彼の兄弟たちが彼に似た者となるためにほかならなかった。これは二重の一体化であり、一方は他方と同じく完全である。神にあってキリストがそうだったものに、人はキリスト・イエスにあってなることができる。

思い出そうではないか。誰でもキリストの中にあるなら、その人は新創造である!古い性質は脱ぎ捨てられて、神の性質がその座に着いた。問題は、われわれがこれを神学以外の方法で受け取ることに失敗してきたことである。われわれはこれを信じてきたが、これを受け取ってこなかったし、これを適用してこなかった。これを聖書の中に見てきただけで、それに関して何もしてこなかった。われわれは新しい故郷と新しい御名について多くの歌を歌ってきたが、新しい性質を着ることについては少ししか実行してこなかったか、あるいはまったく実行してこなかった。しかし、新しい性質を得ない限り、新しい御名や新しい故郷をあまり享受することはできない。

さらに豊かな道

この神聖な路線――律法の言葉、御霊、そして今や実体――が絶えず前進するのをわれわれは見てきた。律法の言葉は確かに弱かった。実に、一度ならず、イエスは律法を脇にやって、「モーセはあなたたちにこう言ったが、私はあなたたちに言う……」云々と言われた。これが、彼が生きていた時代の宗教家たちに対して、彼が抱えていた問題だった。彼らは過去の伝統にしがみついていた。来ては過ぎ去って行くものを維持していた。

バプテスマのヨハネがやって来た時、彼は新しい日の出の到来を告げた!新しい朝の夜明けを告げていた!新しい光が世界の上に昇ろうとしていた!それは先立つものをすべて無効にするものではなかったが、それを上回ることは確かだった。ヨハネは荒野で叫ぶ声であり、われわれの受肉した主の来臨を告げていた。この御方は御父の明確なかたちであり、恵みと真理に満ちていた!しかし、彼らはこの新しいものを恐れた。これを欲しなかった。そして、これを欲しないがゆえに、主を拒絶した。もし主の来臨の目的が過去の出来事を承認することだけだったなら、もし主が彼らの伝統や正説という偶像を粉砕する聖像破壊者になることを拒んでいたなら、彼はどれほど違った仕方で受け入れられたことだろう。もし主が剣を持って来ていたなら、彼らは腕を広げて主を受け入れていたかもしれない。

彼らが「私たちは私たちの父祖アブラハムから出ている」と言った時、主は彼らを見つめて、「あなたたちはあなたたちの父である悪魔から出ている」と言われた。さて、主はアブラハムのことを悪魔と呼んでいるのではない。アブラハムを信じる彼らの空しい信仰は、決して、彼らのあいだにいかなる変革ももたらさない、という事実を主は確認されたのである。イエスは言われた、「もしあなたたちがアブラハムの子孫なら、アブラハムの業をするはずである。しかし、あなたたちはあなたたちの父の業を行っている。あなたたちはあなたたちの父である悪魔から出ており、あなたたちの父の願望を行おうとしている」。罪なき命の全き麗しさの中にあるイエスがあなたには見えないだろうか?人なる伝達者としての彼があなたには見えないだろうか?この御方を通して、神の恵みと栄光の抗し難い力が流れる。そして、その前進する流れを妨げる疑いという邪魔物や、恐れや心配という妨害はそこには無いのである。

霊的成熟

神に満たされた人の人生の何と輝かしい絵図だろう!神の命の流れしかない人生の永遠の可能性を示す何という啓示だろう!肉に従って歩む男女が依然として肉の働きをしていることが思いだされる。御霊の中に生きている人々、御霊に導かれている人々は、御霊の働きを現わす。イエスご自身、「私がしている働きをあなたたちもするようになります」と言われた。ピリポに向かって彼はかつて言われた、「私が父の中におり、父が私の中におられることを、あなたたちは信じないのですか?私があなたたちに話す言葉は、私から出たものではなく、私の中に住んでいる父がご自身の働きをなさっているのです」。

われわれが実際にキリストの性質を受ける時、成長して霊的成熟に至る時、経験上また生活上、三つのことが現わされる。第一に、イエスと性質的に一つとなることは、彼の同情と苦難の交わりにおいて現れる。第二に、奉仕や神の力の顕現において神が協力して下さるようになる。第三に、性格的に彼に似た者となり、子供が赤ん坊から成年に達するのと同じ確かさで成熟に向かって成長するようになる。これがわれわれの神の永遠の御旨である。これが現在の召しであり、今日の計画である。主に贖われた者たちよ、あなたたちを縛っている紐を断て!あなたたちを拘束している鎖や足かせを打ち砕け。われわれの神の永遠の無限に手を伸ばして、神の御座から流れる命を与える小川から飲め。

天然の食物が天然の体に不可欠なように、人はパンだけでは生きられない。あなたの霊的性質は神との交わりを切望している。御父が人なるキリスト・イエスに与えられた性質以外の何ものも、あなたという霊的存在の必要を満たせない。世界中の他のいかなるものも満足を与えられない。それゆえ、絶対的従順から生じる明確な分離を目指して走り、われわれの人生を彼の恵みと栄光の川の永遠の流れに対して開くべきである!

この説教の初めに、受肉する前に彼は御父と共に持っていた栄光を捨てられたことを、われわれは見た。彼はご自分の栄光を放棄されたのである!放棄する務めが御子の働きだったように、受肉の奇跡は神の働きだった。

キリストに用いてもらうこと

終えるにあたって、一つのとても大事なことをあなたに思い出させたい。私が話したこの命に、あなたは決して到達できない。自分でこの命に達してそれを得ることはできない。しかし、キリストに用いてもらえるようにすることはできる。キリストは命だからである!あなたに出来ること、行う特権を与えられていることがある。完全・完璧な従順の道を歩くよう、あなたは彼にあって決意することができる。自分の心の扉を主の御言葉に対して開くことができる。神の召しに従順に歩んで、あなたの天の父にあなたの澄んだ耳に語る機会を与えることができる。

あなたが自分の権利を神に完全に明け渡して、その神聖な臨在の中で静かに待つ時、自分の心と人生の中に川が流れて、神の御霊が湧き上がるのを、あなたは間もなく感じるようになる。この神聖な食物をあなたが消化して、神の性質にあずかる者となる時、この世のものに対する嗜好をあなたは失う。神が純粋であるように、あなたも純粋になる。神が聖であるように、あなたも聖になる。そして、愛の中にとどまるようになる。なぜなら、神ご自身が愛だからである。あなたは貫通できない装甲で囲まれている。悪魔の火矢、批判の石、冷酷な憎しみは、決してこの装甲を貫けない。あなたは自分の環境に順応できるが、環境や状況の奴隷になることは決してない!その時、自分の市民権は天にあることを、あなたは確かに知る。これがわれわれの特権である!

これはわれわれにとって良い機会であり、われわれの義務でもある!彼がわれわれのために行ってくださったことを受け入れる以外のことができるだろうか?十字架のキリストに失望の痛みと恥辱を与えることを誰があえてするだろうか?キリストはご自分の栄光を捨てて、われわれのような者となられた。それはわれわれが彼に似た者となるためである。これらのことは難しくて理解できない、と私に言ってはならない!あまりにも素晴らしすぎて本当のはずがない、と私に言ってはならない。これらは素晴らしいことに、永遠に現実なのである。そして無限の驚きをもって、われわれはその力と栄光を見る。それだけでなく、神の未来にわれわれを待ち受けている、その豊かさをも見るのである!