キリストの血とそれが尊い理由

チャールズ・プライス

イエス・キリストの血の途方もない霊的価値を人々に見せるには聖霊の力が必要である、というのは真実である。救われていない人々はそれを理解できない。「救われていない」という言葉で私が言わんとしているのは、公然と罪を犯している世の人々のことだけでなく、自分自身の不信仰という大路や脇道の中で迷子になっている人々のことでもある。その人はことによると奉仕者かもしれない。もしイエス・キリストの血を信じていないなら、その人は救われた人ではない。イエス・キリストの血がなぜとても素晴らしくて尊いのか、私は幾つかの理由をあなたに与えよう。

キリストの血は贖う

レビ記一七・一一「肉の命は血にあるからである。あなたたちの魂のために祭壇の上で贖いをするために、私はこれをあなたたちに与えた。なぜなら、魂のために贖いをなすのは血だからである」。上なる天においても――下なる水の中でも――われわれが住むこの世界においても――血による以外、罪のための贖いは無い。われわれの祖先がエデンの園で「自分自身を覆う皮衣を造れ」と言われた時から今日に至るまで、血を流さずに罪の贖いがなされた例は一つもない。カインのいけにえは拒否されたが、アベルのいけにえは主に受け入れられた。旧約聖書の中に見い出される祭司職のどの型においても、血を流すこと以外に、人々に与えられた贖いの体系や方法は決して無かった。型と本体は対応していなければならない。体の命は血の中にある――そしてイエスはその尊い血をカルバリで流された――これにより、われわれのすべての罪を贖うためにその命を与えられたのである。

キリストの血を通してわれわれは平和を持つ

コロサイ一・二〇「その十字架の血を通して平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自身と和解させて下さったのです」。罪の世は神と戦争状態にある。われわれは神と敵対してきた、と聖書はわれわれにはっきりと告げる。われわれは異邦人、よそ者――主とその真理の敵だった。しかし、イエスがその素晴らしい和解の働きを成就・完了された時、われわれはアブラハムのように神の友となった。人々の魂と神の憤りとの間に停戦がなされた。行軍する天の軍勢は、ようやくわれわれは神との平和を得た、という輝かしい真理を宣言した。それはあまりにも麗しい平和なので、人のあらゆる理解を超えている。われわれは神と和解させられた。キリストがわれわれの宥めとなり、カルバリの小羊の血を通して、戦闘服はわれわれから取り去られ、われわれの素晴らしい救い主はご自身の義と平和の衣をわれわれにまとわせて下さった。これをなしうるイエスの血以外の方法を私に告げられる神学者は、この世に一人もいない。覚えよ、われわれが神と和解させられて平和を得るのは、ただその血を通してのみなのである。

キリストの血によりわれわれは買い取られた

使徒二〇・二八「ですから、あなたたち自身に気をつけ、また、すべての群れに気を配って下さい。聖霊は、神がご自身の血で買い取られた神の教会を養うために、あなたたちをその群れの監督者とされたのです」。これは長老たちに対するパウロの警告である。これは福音の奉仕者たちに対する命令であり、聖霊のすべての権威と力をもって与えられた。奉仕者の顧みに委ねられたこの群れは、決してその人の群れではなかった。私はかつて、「私の群れ」「私の人々」について大いに話し始めた人を遮った。「しかし、彼らはあなたの民ではありません」と私は宣言した。「あなたの群れでもありません」。彼らは神の民であること、そして、良き羊飼いの群れであることを、私は彼に告げた。このような思想により、われわれは自分の責任を感じてしかるべきである。私が今しがたあなたたちに与えたこの聖書の節では、神の摂理により、聖霊は彼らをイエス・キリストに属する群れの監督とされたことを、パウロは奉仕者たちに思い出させている。奉仕者が彼らを買い取ったのか?もしそうなら、彼らのためにどんな代価を払ったのか?このような思想は理性の領域外である。私の兄弟である奉仕者よ、次にあなたの講壇に立つ時は、あなたの教会の人々の顔を見つめて、「この人々はイエスがご自身の尊い血をもって買い取られた人々である」と自分に言い聞かせよ。これにより、あなたは自分の地位の途方もない責任を感じてしかるべきである。

キリストの血はわれわれを贖った

黙示録五・九「そして彼らは新しい歌を歌って言った。『あなたはその書を受け取って、封印を解くのにふさわしい御方です。なぜなら、あなたは屠られて、あなたの血によって、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、私たちを贖って神にもたらして下さったからです』」。贖いは買い戻すこと――再び買うことを意味する。この御言葉は輝かしい驚くべき幻をわれわれに見せる。四つの生き物と、天の小羊の前で顔を伏せている二十四人の長老の幻である。この天の小羊はカルバリの小羊にほかならない。彼らは金の竪琴をかき鳴らして、聖徒たちの祈りで満たされた金の鉢を主の前に差し出した。これらの祈りは主の御前で甘い香りの香料のようだった、と御言葉は述べている。それから、贖われた感激のゆえに、彼らは歌いだした。輝かしい賛歌で、「主こそふさわしい御方です。屠られたのは主だったからです」と彼らは宣言した。自分たちを贖ったのは、主が犠牲になって死なれた時に流されただったことを、彼らは断言した。この血は彼らを贖っただけでなく、あらゆる時代、あらゆる国の神の聖徒たちをも贖った。今日、この節を読んだ後で、どうして多くの人々が「自分たちには血による贖いは必要ない」とあえて言えるのか、私には理解できない。イエス・キリストの血による贖いの真理を見落とす、哀れなさまよえる魂は、何と盲目なことか。ハレルヤ!キリストはその血によってわれわれを贖って下さったのである!

われわれはキリストの血によって義とされる

ローマ五・九「私たちは、キリストの血によって義とされているのですから、なおさら、彼によって御怒りから救われます」。義とされない限り、人々は義とされえない。自分自身の行い、徳行、正しい行いによって、神の目から見て義なる者になることは誰にもできない。宣教者たちは信仰による義認について話す――しかし、血の力を尊重することを見落とす。われわれが信仰による義認について話す時、われわれは何を言わんとしているのか?何を信じる信仰か?誰を信じる信仰か?可能と思われる唯一の答えは、キリストを信じる信仰である。しかし、聖書はそれよりもさらに深い結論にわれわれを導く。十字架に付けられたキリストを信じる信仰でなければならないのである。イエスがカルバリの十字架上で死なれて初めて、われわれは神の目から見て義とされたのである。これは、われわれの祝された主の務めに関する大事な教理である。大抵の会衆は、自分たちの耳に鳴り響く「われわれは信仰によって義とされる」という宣言と共に現代の教会から離れ去る。しかし、信仰を行使した結果を経験したことのある人は比較的少数である。もしキリストが生き続けて、あの犠牲の死を遂げておられなければ、われわれは神の目から見て決して義とされることはできなかった。われわれが義とされたので、キリストは死から甦られたのである。もしわれわれが義とされていなければ、神が彼を世に遣わして行わせようとした働きをすることにキリストは失敗していただろう。しかしハレルヤ、その尊い血は神の目から見て受け入れられるものだった――罪のための贖いだった――そして、御子イエス・キリストが流された血のゆえに、人々は御父の御前で義とされたのである。

キリストの血はわれわれが栄光の世界に入るための許可証である

出エジプト記一二・一三「そして、その血はあなたたちがいる家々で、あなたたちに対してしるしとなる。そして、私はその血を見て、あなたたちのところを過ぎ越す。私がエジプトの地を打つ時、災いが臨んで、あなたたちを滅ぼすことはない」。しばしの間、遠く離れたエジプトの、あの重大な夜の光景を思い返せ。奴隷が住んでいた小屋の入口の正面に、屠られた小羊が死んで横たわっているのを思い描けるだろうか?そう遠くない所に、流された血があった。小羊はなせることをすべてなした。その働きは終わった。その血は入口の二つの柱とかもいに振りかけられた。ただちに、復讐の御使いが死の剣を携えて、エジプトのすべての通りと路地を通ることになっていた。御使いはパロの宮殿を訪れただけでなく、すべての奴隷の戸口をも覗き込んだ。復讐の御使いが通りかかった時、この奴隷たちを見て、「ここでは止まらないことにしよう。私が見るところ、あなたたちはイスラエル人だから」と言ったとは、聖書はわれわれに告げていない。御使いが求めたのは決して彼らではなく、血だったのである。旅路の日々が終わって、あなたが栄光の世界の門を叩く時、門で立って警護している御使いが求めるのはあなたではない。血を求めるのである。罪がそこに入ることはない――われわれの罪を洗い流せる唯一のものは、カルバリの十字架の尊い血だけである。

キリストの血を通してわれわれは聖められる

ヘブル一三・一二「だから、イエスもまた、ご自身の血で民を聖めるために、門の外で苦難を受けられました」。再び、型が本体に融合して、これにより神の偉大な贖いの計画の麗しい驚くべき光景をわれわれに示すことがわかる。古の時代、いけにえがささげられた後――屠られた小羊の体は門の外に持って行かれて焼かれた。その体は肉だった。これは、肉は焼き尽くされなければならないことを示す型だった――肉は滅ぼされなければならないことを示す型だった。聖化は罪と肉の欲望に対する死を意味する。世と世に属するものからの完全な分離を意味する。しかし、人はどうすれば聖められるのか?全体的堕落から聖化と純粋さの高みへとわれわれを導く階段を、われわれはどうすれば登れるのか?海の真ん中で溺れている人のように、戦いの中にあるわれわれを助けてくれるものは何も見つからない。探すことはできるが無駄である。なぜなら、この大いに切望すべき経験を可能にする方法は、世の基が据えられる前から屠られていた小羊をわれわれが見ない限り、決してわれわれのものにならないからである。われわれの主は門の外で苦しまれた。血の門を通り抜けない限り、いかなる人も決して聖化の大路を歩けない。これが、イエスの血が驚くほど尊いもう一つの理由である。

キリストの血はわれわれをすべての罪から清める

一ヨハネ一・七「しかし、神が光の中にいますように、私たちも光の中を歩くなら、私たちは互いに交わりを持ち、そして、御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めます」。私にとって、これはとても尊い真理である。二つの時制でこの御言葉を読むべきである。つまり、過去形と現在形である。もしわれわれが明日も生きるなら、明日はわれわれの現在となる。だから、この御言葉を未来系で読むこともできる、とは言わなかったのである。今日清める血は、われわれがその清めの下に生きない限り、明日は有効ではない。イエスの血は何年も昔にあなたを清めて、その後も清めてきたのだから、あなたは永遠に清い、というのは間違った考えであり、恐るべき考えである。実は、あなたが自分自身をキリストにささげて、キリストを自分の救い主として受け入れる時、イエスの血はあなたの心を罪から清める。しかし、血は絶えず清め続ける――今日あなたを清め――今あなたを清める。あなたはこの節の言葉に注意したことがあるだろうか?血が清めるのは「私たちが光の中を歩く」時だけなのである。しかし、いかなる光の中をわれわれは歩くべきか?どんな光でも良いのだろうか?心霊主義の光、新思想の光、現代主義の光が、願う結果を生じさせるだろうか?主の御言葉を注意深く読め。そうすれば、神が光の中にいますようにわれわれが光の中を歩く時だけ、二つの素晴らしいことが起きるのが分かるだろう。第一に、われわれは互いに交わりを持ち、第二に、イエス・キリストの血がわれわれを罪から清める。つまり――血の働きは継続的なのである。キリストがカルバリの十字架で私のために流された血は、彼が救い主であることを私が見い出した日に適用されたが、この血は私を今日も清めるのである。

キリストの血はわれわれを神に近づける

エペソ二・一三「しかし今やキリスト・イエスにあって、かつては遠く離れていたあなたたちは、キリストの血によって近い者とされました」。この御言葉は異邦人のために書かれたことを私は知っている。パウロはエペソの教会に宛てて書いていた。そして、エペソ教会の人々のことを、かつて神からとても遠く離れて生きてきた人々として述べた。しかし今や、イエスがカルバリで彼らのために死んで下さったおかげで、彼らは神に近い者とされた。われわれはかつてとても遠く離れていなかっただろうか?良い羊飼いがわれわれを再び群れに連れ戻して下さる日が来るまで、われわれはかつて罪の谷間の中に失われていなかっただろうか?ある小さな少女が父親の膝によじ登り、ぽっちゃりした小さな両腕でその首を抱きしめて、「お父さん、神様のことを『私たちのお父さん』と呼ぶように神様がして下さって、私とても嬉しいわ。だって、神様にとても近づいたように感じるんだもの」と言った。ああ、素晴らしいイエスの血、カルバリの小羊が流された尊い血!この血は神の力の紐でわれわれを引き寄せてきた。そして遂に、神の恵みによって、甘く麗しい関係が確立されたのである。もはやわれわれは、暗闇と絶望の中で迷子になって、遠く離れた山々の中をさまよってはいない。イエスの血を通して、われわれは近い者とされた。聖霊がわれわれの案内者である。イエスがわれわれの長兄であり、神がわれわれの天の父である。以上が、イエス・キリストの血がこんなにも尊い幾つかの理由である。