唯一の自由

チャールズ・プライス

この世は四つの自由について語る。しかし実際には、一つの自由しかない。それは自分自身から自由にされることである。自分の自己からの普遍的自由である!キリストが内側で支配される時、われわれは自己から自由にされる!そして、キリストが外側の諸国民を支配される時、彼らは互いに自由になる!これ以外に自由はない。

これらの事柄を理解する、われわれは目を上げて、われわれの自己から解放する御方が来てくださった事実を理解する。「シオンから解放者が出る!」(ローマ十一・二六)。キリストの統治が始まるとき、自己の統治退出しなければならない。なぜなら、「父なる唯一の神」がおられるだけだからである。「万物はこの御方から出て、私たちもこの御方の中にあります。また、唯一の主イエス・キリストがおられるだけです。万物はこの御方により、私たちもこの御方によっています」(一コリント八・六)。「からだは一つ――御霊も一つです。あなたたちがあなたたちの召しの一つ望みの中で召されたのと同じです。主は一つ信仰は一つバプテスマは一つ万物の神また父は一つ。この御方はすべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、あなたたちすべての中におられます」(エペソ四・四~六)。そして敵も一つである――すなわち自己である!

「この世の友となることは神に敵対することであることを、あなたたちは知らないのですか?」(ヤコブ四・四)。「世と世にあるものを愛してはなりません。だれでもこの世を愛するなら、御父の愛はその人の内にありません。なぜなら世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父からではなく世から出ているからです。そして、世とその欲は過ぎ去ります。しかし、神の御旨を行う者は永遠に永らえます」(一ヨハネ二・十五~十七)。自己がその中で肥え太ってきたこの世の体系は、「御父」が植えられたものではなく、「われわれの父である悪魔」の呪いの下にあるアダム族の呪いが成長したものであり、またその結果である。われわれは自己の背後から羊毛を着せられてきた。自己の産物である羊毛である。われわれは自己を撫でて、自己を高く上げてきた。そしてとうとう、自己はグリーンベイの木のように成長して広がったのである!自分が「惨めで哀れな者であり、貧しく、盲目で、裸である」ことをわれわれは知らない。

この世の体系の展望を見る時、「なぜなら何の違いもないからです。というのは、すべての人は罪を犯して、神の栄光に欠けているからです」という神の最後通牒が真理であることにわれわれは気づく。その光景がまさにわれわれの目の前に描き出される。これらのページを書いている時、私はある国際法廷の話を聞いた。その国際法廷は、その戦争捕虜たちが有罪であることを見いだしたのだが、報告によると、今や自らの潔白性が危機に瀕しているとのことだった。他の人々を裁く座についていながら、自分が犯した罪のために裁かれなければならないというのである!誰がこれに石を投げられよう?罪の無い者が誰かいるか?「裁いてはなりません。それは、あなたたちが裁かれないためです。なぜなら、あなたたちが裁く裁きで、あなたたちも裁かれるからです。また、あなたたちが量る量りで、あなたたちもまた量られるからです。なぜあなたの兄弟の目の中にある塵を見ながら、自分の目にある梁に気づかないのですか?」。全地を裁く御方は公義を行うべきではないだろうか?自分自身の義を剥ぎ取られるこの時、各々はこの御方に向かって、「私が他の人々を赦したように、私をお赦しください!」と叫ぶことができるように思われる。「なぜなら、もしあなたたちが人々の罪過を赦すなら、あなたたちの天の父もあなたたちを赦してくださるからです。しかし、もしあなたたちが人々の罪過を赦さないなら、あなたたちの天の父もあなたたちの罪過を赦してくださいません!」(マタイ六・十四、十五)。なぜなら、実際のところ、われわれが釈放されるかどうかは、われわれが他の人々を釈放するかどうかにかかっているからである!われわれの主が来られたのは世を罪に定めるためではなく世を救うためであるのと同じように、主は「私たちに和解の務めを与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自身に和解させ、その罪過の責任を彼らに負わせないで、私たちに和解の言葉を委ねてくださったのです」(二コリント五・十八、十九)。

王国

「あなたたち、富んでいる人たちよ、よく聞きなさい。あなたたちは、自分の身に降りかかろうとしている禍のために泣き叫びなさい」(ヤコブ五・一)。われわれの多くは、自己に富んでいることに気づいて、ユダのように自殺を試みようとするだろう。しかし、神は逃れる道を示してくださっている。なぜなら、神を見るとき、われわれは死ぬからである――そして、そのような死によって、われわれは生き返る。なぜなら、キリストがわれわれの命になってくださるからである。自分の胸を打って、「神よ、罪人である私をあわれんでください!」と叫んだ、あの哀れな男と同じである。なぜなら、われわれが義とされるのは(外面的見せかけによる)順守によってではないし、神の王国が到来するのも順守によってではないからである。外見は神を知っているように見えなくても、神とのきわめて深い交わりが存在するかもしれない。われわれは杯の外側をきれいに保つことに気をつけてきたが、他方内側では、われわれは貪り食らう狼であり、互いに敵対して計画や計略を練ってきたかもしれない。「わざわいなるかな、私は滅びるばかりだ。私は汚れた唇の者で、汚れた唇の民の中に住む者であるのに、私の目が万軍の主なる王を見たのだから!」(イザヤ六・五)。

しかし、ひとりの御方がおられ、その御方にあってわれわれは隈なく清いのである!われわれの解放者に染みや傷はない。「われわれを完全に」してくださる。この御方が内側で王位につく時、器を造り直してくださる。そして、われわれの命であるキリストが現れる時、われわれも彼と共に栄光のうちに現れる!自己から解放するわれわれの解放者の輝かしい現われ!主は一つ――神は一つ――信仰は一つ――自由は一つである!

人類はアダムの呪いという蛇によって咬まれてきた。われわれの内には良いものが何もない。しかし、ああ、なんという治療法を、贖いの愛は無代価で提供してくれることか。見て生きよ!「地の果てなる諸々の人よ、わたしを仰ぎ見て、救われよ。わたしは神であって、他に神はないからだ」(イザヤ四五・二二)。「しかし、私たちの国籍は天にあります。(御霊の中で)そこから、救い主、主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じかたちに変えてくださいます」(ピリピ三・二〇、二一)。「しかし私たちはみな、覆いのない顔で鏡のように主の栄光を見つめつつ、栄光から栄光へとその同じかたちに変えられていきます。これは主の御霊によります」(二コリント三・十八)。

われわれの持ち物はわれわれを救えない。もし屋根の上にいるなら、われわれは降りて行って物を持ち出そうとする必要はない!少し前のこと、火星からの侵略を告げるラジオ放送が流れていた時、それを聞いている人の中には、朝までにそのような侵略が起きるのではないかと真剣に恐れている人もいた。ある女性は家の中にあるすべてのものについて考えた――たいへん価値があるものについて考えた――彼女は何を避難所に持って行こうとしたのか?最終的に、このような緊急事態に応じられるものは、イエスの血以外にないことに彼女は気づいた。どれほど価値があっても、何物もこのような緊急事態には応じられない!尊い血しかない。突然の滅びに直面する時、小羊の血以外に、裸と罪深さを覆ってくれるものは何もない!資産の管理人ではあったが、彼女が実際に持っているのはキリストの血だけだったのである!キリストに栄光あれ!家の中に戻る必要はない!裸でわれわれはこの世界に来て、裸で去って行く――ただしキリストの覆いは別である!キリストのゆえに神に感謝せよ!ほふられた小羊のゆえに神に感謝せよ!罪を担ってくださる御方のゆえに神に感謝せよ!

キリストはわれわれの必要を満たしてくださる

この世の体系の潮流に囚われて、キリストのパースンの現実が失われるほどになってしまうおそれがある。礼拝ですら、そうなるおそれがある!宮の中でキリストを失うおそれがある!今日の宗教的礼拝の一般的潮流に囚われるあまり、人生の諸々の真実とそれらに対するキリストによる答えが、宗教の装飾品とその計画の中に失われてしまうおそれがある。福音のまさに本質である主イエスのパースンに従ってこなかったせいで、危機が臨む時、われわれには自分の必要に応じるものが何もないかもしれない。自分に何かが必要なことがわかると、多くの時、われわれは助けてくれそうな人のところに出向く。神と共に歩んで会話することを、われわれは学んでこなかった。困惑していて、自分の問いへの答えが欲しい時、われわれは「静まって、わたしこそ神であることを知る」代わりに、電話のところに行って、神の子らのだれかと連絡を取る!イスラエルは神のもとに行く代わりに人々のところに行くことができた!岩に語りかける代わりに、われわれは岩を打つ。神を第二位に置く時はいつでも、われわれは神を打っているのである!イスラエルはモーセに嘆願できたが、ただ神だけがマナを送ることができた。人々は救いを説けるが、ただキリストだけが救うことができる。しかし、われわれの御父は依然として応対可能である。新しい生ける道によってわれわれは近づくことができる。この道により、恵みの御座に大胆に行くことができる。大祭司を通して行く必要はないし、自分たちのもとに行くのと同じようなものを通す必要もない!生ける神の御霊を通して、御父のもとに行けるのである!「わたしのもとに来なさい。あなたたち、すべて労苦して重荷を負っている者たちよ。わたしはあなたたちに安息を与えます。わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。わたしは柔和で心のへりくだった者だからです。そうすれば、あなたたちは自分の魂に安息を見いだします。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ十一・二八~三〇)。

「わたしの羊はわたしの声を聞きます。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従います!」(ヨハネ十・二七)。人を高く上げることで、われわれは主イエス・キリストのパースンを侮辱し、恵みの御霊を侮ってきた。人を神とし神を人としてきた!しかし、清算の日がわれわれの上に臨んでいる。自己から救い、互いから救ってくださる解放者がここにおられる!全能の神の大いなる日が迫っている。主イエス・キリスト以外の何かに頼っているなら、誰がこの悪しき時に立ちえよう?われわれは倒れるだろう!自分の正しさを主張する時、われわれはみな道を外している。正しい御方はただひとりだからである!この御方は、「どうしてわたしを良いと言うのですか?良い御方はただひとりしかいません。それは神です!」(マタイ十九・十七)と仰せられた。この主の宣言を前にして、自分は正しいと誰があえて言えよう?主は真理である!どうしてこの地位を他の権力者にあえて与えられよう?

単一の目で神を見よ。いかなる人も肉に従って知ってはならない。われわれがキリストしか見ないなら、われわれはそのような人を解放するし、自分自身をも解放するのである!自分は他の人よりも優れている、と思わないよう注意しようではないか。そのような思いは心痛という結果になるだけである!医者なる御方を必要とするのは病人である。われわれが自己、自分の道、自分の義の中にあることに気づくとき、われわれにはこの医者なる御方が必要である。なぜなら、もしわれわれが肉から出た何かに頼るなら、われわれはすべての人の中で最も惨めな者だからである。われわれがキリストにあって真に義となるのは、自分で自制したり自分で義となることによってではなく、キリストの命が現れる時である。キリストはわれわれの義である。だれかの肉による生活を罪に定める権利は私にはない。なぜなら、それはすでに罪に定められているからである。キリストの命が現れる時、われわれはキリストと共に栄光のうちに現れる。

あらゆる問題に対する答えが一つある。その答えは一言で要約できる。それは、神への扉である「イエス」である!他に道はない。他に扉はない。ただイエスだけである。イエスだけをわれわれは必要とする。この開かれた扉の中に、私は私の知恵、私の義、私の力、私の癒しを見る。しかし、何ものにもまして素晴らしいことに、その中に私の復活の命を見る。この命は神聖であり、無限であり、永遠である。そして贖われた私の心に向かって、「わたしが生きるので、あなたたちも生きます」と彼は語りかけてくださる。四つの自由だって?御子が自由にされる者は確かに自由なのである!