「さて、私たちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊です。それは、神から無代価で私たちに与えられるものを知るためです。」(一コリント二・十二)
聖書がまぎれもなくはっきりと教えていることが一つあるとするなら、それは、われわれは神と直接交わることができる、という輝かしい真理である。おそらく、こう言うと、不明確なこともある、とほのめかしたことになるかもしれない。私が言わんとしているのは、あなたはこのような推論を引き出すべきである、ということである。なぜなら、主の御言葉を読むと、この真理を確信せざるをえないからである。きわめて誠実で霊的に深い聖書学者たちでも食い違っている点がある。また、とてもはっきりとした易しい言葉で述べられているため、直接述べられていることではない別の解釈をしようものなら、聖書を捻じ曲げて聖霊の御旨を妨げることになる点もある。
人は神と交わることができるという事実は、使徒パウロが述べているだけではない。この可能性を排除しようものなら、パウロの書簡はすべて倒れてしまうし、その意義を失ってしまう。哀れな死すべき存在であるあなたや私が、主の御前に出ることができるだけでなく、実際に主と語り合えるとは、なんと栄光なことだろう。主が語る必要があることを、われわれは聞くことができる。また、神の御座から発する光の中で、それ以外の方法では人の思いや心が受け取れないものを、われわれは見ることができる。
この世の霊と主の霊との間には、凄まじい敵意がある!人が「神の啓示」について話し始めるやいなや、あるいは、「主は『こう』語られました」「主は『そう』するよう私たちを導かれました」と証言し始めるやいなや、人の知恵が敵対的不信の中で立ち上がって、「そんなことは不可能だ」と宣言する。コリント人へのパウロの手紙の二章の中に、主の霊とこの世の霊との間のこの敵意がとても明確に啓示されている。
人の知識は知識量によるかもしれないが、真の知恵はあまり知識量にはよらない!私は賢い人々を大勢知っているが、彼らは「知恵がある」と思われているにもかかわらず、実に愚かで無知である。人類が抱えている困難の一つは、主の助言を求めずにずっと知識を求めてきたことである。人が堕落したのは、われわれの祖先が神から離れて知識を求めたせいである。彼らは知識の木から食べることを欲した。そして、神から離れて知識を理解したいという彼らの欲求のせいで、全被造物が堕落の闇と絶望の暗闇の中に投げ込まれてしまったのである。
すべての異教の源は、神から離れて知ることを願う人々の欲求である。上から来る知恵を受け入れることを拒んで、彼らは自分で神々を造り出した。この神々は人の欲求を示すものであり、人の目的を果たすものだった。ギリシャ人は知識を誇った。そして、天から来る知恵を蔑んで、人間的哲学の後を追った。それらの哲学の大部分は、人間的理解の様式にしたがって造られたものであり、主の啓示から離れたものだった。
神の知恵
しかし、神の知恵であり、肉身を取った神の御言葉であるイエスが来られた時、ユダヤ人と異邦人は結託して彼を拒絶し、超自然的啓示という思想を否定した。天然の人の心は神から遠いだけでなく、その知性もまた暗くされていることがわかる。イエスは神の啓示者だっただけではない。その方を通して人が神聖な御父と交わることが可能になる唯一の御方でもあった。世の光である彼ご自身の直接的御業によって、暗くされた知性を照らされないかぎり、主を理解することも、彼を正しく知ることも不可能である!
私の友よ、これについて考えよ!われわれ人間が永遠にいます方の御前に行って、子供が地上の父親と交わるように神と交わることができるとは、驚異中の驚異、不思議中の不思議ではないだろうか?われわれは霊的会話をすることができる。この会話により、われわれは高く上げられて、あらゆる疑いや恐れを超越する。そして、この世を遥かに超越した領域にもたらされる。そのため、世的な人々を悩ます困難や問題は、心と知性と生活に対する力を失う。これは空しい夢ではない。霊感された御言葉が明確にはっきりと述べていることである。また、今日地の面にいる数千の人々が経験していることである。
パウロはこの偉大な霊的現実の「発見者」ではなく、それにあずかる者だった!イエスご自身が、神との心を通わせた交わりという輝かしい可能性について、われわれに語られた。そしてパウロは、曖昧さや疑いや恐れ等をいっさい抱かずに、直ちにこの経験の核心の中に進み入った。ダマスコ路の土埃の中で驚くべき回心をしたとき、彼は神と語り、神は彼と語られた。その時以降、疑問はすべて解けて、彼はそれを事実として受け入れたのである。
もし彼がこの不信と背教の恐ろしい時代に生きていたなら、主イエス・キリストの教会に属していて御名を告白しているにもかかわらず、この輝かしい特権の可能性を否定して、「自分には御父の御声が聞こえる」と告白している人々を大いに嘲っている群衆を見て、驚くだろうと思う。
この現在の悪しき時代にこの世が犯している大きな間違いは、人が自分自身の義に信頼していることであり、また、自分自身の知恵に信頼していることである。人はなんと物事を滅茶滅茶にしてしまったことか!神という文字が硬貨に記されてはいるけれども、神が心の中に見いだされることは滅多にない政治体制を確立しようとして、人はなんというアビスの深みに沈んでしまったことか。涙の川と、悲しみと心痛のナイアガラの滝にもかかわらず、人類はいまだに自分自身の知恵に頑なに信頼し、自分自身の義に頼っている。これを理解することは、われわれにとってなんと痛ましいことか。「なぜ神のもとに行かないのか」とパウロは一喝する。「なぜ知恵を求めて無限の知恵の御座に行かないのか?なぜ義と救いを求めて救い主の功績に信頼しないのか!」。
コリント教会への手紙で、パウロは人の知恵の無益さを取り扱っている。そしてローマ人への手紙では、人自身の義の有効性に関する一般的に受け入れられている信念を覆している。しかし、人の不法行為によって神の聖徒からその輝かしい特権が奪われることは決してなかったのである!今、この日、神の子供であるあなたは御父の御座に直接行くことができる。カルバリのゴツゴツした木の上であなたの代わりに死なれたイエス以外に、いかなる仲保者も必要ない!それを通って歩いて行き、あなたの天の父の御前に立つ、他の扉は必要ない!
もしあなたが知恵に欠けているなら、あなたは神に求めることができる。そうすれば、神は聞く耳のあるあなたに対してその知恵を与えてくださる。しかし、戦いで引き裂かれている世の雑音、どよめき、騒音がわれわれの耳の中に鳴り響いていて、聞こえるのが人の哲学だけで、人の知恵のつまらない言葉以外に耳を傾ける時間がないなら、どうしてわれわれは神の御声の囁きをとらえられよう?人類はこれまでずっとそうだった。われわれはダンバートンの樫の木の下からの声には耳を傾けようとするが、ベテパゲの木々の下で叫んでいる御声を忘れるのである!和平会談の席で平和を造ろうとしているが、その間、平和の君が全宇宙の創造者によって定められていること、そして、われわれにできるのはただ「キリストと共に義と公正によって世界を平和に治める日が速やかに来ますように」と祈ることだけであることを、われわれは忘れているのである。
シロが来るまで
イエスが来られるまで、神の真理はすべて隠された奥義だった。そういうわけで、ただ霊的啓示だけがこの霊的奥義を明るみに出せたのである!霊の事柄は霊的に認識される、とパウロが言ったのも不思議ではない。これらのことをどうすれば知ることができると、あなたは思うのか?単なる聖書研究によってだろうか?私は聖書研究を見下しているわけではない。なぜなら、われわれはこの古い書物にもっと時間を割いて注意を払うべきだと、私は信じているからである。しかしそうではあるのだが、われわれの主ご自身が「あなたたちは聖書を調べています。なぜならあなたたちは、その中に永遠の命があると思っているからです。聖書はわたしについて証しするものなのに、あなたたちは命を得るためにわたしのもとに来ようとしません」と仰せられたのを、私は忘れることができない。
われわれは神聖な啓示を受けなければならない。私はこの古い書物から十五年間説教してきたが、今ほどキリストを良く知っている時はなかった。私は諸々の試験に合格した。有能な教師たちの下で学んだ。偉人の中の偉人に耳を傾けて、私の知性や理性で理解可能なあらゆる人間的知恵を吸収した。しかし、私の人生で最大の日は、これらの事柄を理解するのは、もっぱら、人の知性や頭脳を活用して学ぶことにはよらないことを発見した時だった。これらの事柄は、むしろ、栄光の光の洪水のように臨むのである。さながら、太陽が東の水平線上に昇って、暗闇に包まれていた世界の美しさを明らかにするかのようである。私の友よ、あなたはこれを見いださなければならない。そうしないかぎり、あなたはクリスチャン経験の喜びと栄光の大部分を失っているのである。
新たな宗教改革
そう遠くない昔のこと、私はある女性から非難された。その女性は、「神を知るには聖書研究以上のものが必要である」という私の宣言は主の御言葉を中傷するものだと思っていた。昔のユダヤ人たちは御言葉に対する自分たちの愛着を誇っていた。そして、彼らの中には、イエスの目を見つめて、「これらのことはみな、若い時から守ってきました」と言える者が複数いた。パウロのような者が複数いた。彼らはパリサイ派の中でも最も厳格な者たちであり、律法の文字にしたがって生きていた。しかし、それにもかかわらず、なんと多くのものを彼らは失っていたことか。
文字は殺し、御霊は生かす。私はさらに進んで言う。御霊によって照らされないかぎり、文字自体は死んだものである。聖霊の力によって、聖書が力と光を帯び、活発で生き生きとしたものにならないかぎり、何人も聖書を正しく読むことはできない。この恵みの経綸においては、外側の生活で聖書の行動基準に従うだけでは十分ではない。この経綸の諸々の外面的印は、内面的啓示の結果にすぎない。この内面的啓示は人の行いを一変させるだけでなく、その人自身を文字どおり一変させる。
私の友よ、カルバリのキリストはあなたの罪を贖われただけではない。キリストは、あなたが霊の目で見たものの中で最も美しい園に入るための門である!この園は御父との交わりの場所である!そこで神はあなたと語られ、あなたは神と語るのである!
われわれには新たな宗教改革が必要である!マルチン・ルターが古の聖ペテロの階段を登った時、素晴らしい啓示が彼に臨んだ。この啓示は世界中に鳴り響き、今日、われわれのプロテスタント諸教会は広くこれを受け入れている。基本的には、それは人の義の不十分さについての福音だった。この物語の素晴らしい点は、「義人は信仰によって生きる!」ということだった。われわれの救いが行動の領域からカルバリの十字架に属する所に移されたのである!
宗教改革の時代、キリスト教世界は、一般的に言って、人の義の不十分さを受け入れ始めた。しかし、私が思うに、それはあまり遠くまで及ばなかった。人の知恵の不十分さについて話し始めると、それは別問題だったのである。人々はこれを認めることを拒んだ。そして、「思いを集中して知性を用いることによって、教会の諸々の教理や教義を策定することができる」と主張した。教会がこれほど無能なのも不思議ではない!われわれがこのように明らかに力に欠けているのも不思議ではない。なぜならわれわれは、自分たちのすべての道で、喜んで彼を認めようとしてこなかったからである。われわれは、自分自身の理解力にひたすらすがるのを常としてきたのである!
それを通して教会がフィラデルフィア時代に入った扉は、「イエス・キリストの義を認める」という扉だった。人々は、自分たちの救いの望みと神を信じる自分たちの信仰を、ことごとく、カルバリの十字架上におけるイエスの贖いの御業の上に置いた。しかし、この同じ教会が、自分自身の知恵を明け渡して、上から来る知恵を求めて主を仰ぎ見るよう召される地点に来ると、教会は喜んでそうしようとはせず、フィラデルフィア時代からラオデキヤの暗闇へと通じる門をくぐってしまったのである。教会の大部分は、教理としての聖霊は受け入れたが、聖霊ご自身を拒否した。そして、聖霊の務めを経験ではなく信条の中に押し込めることに固執した。
私について言うと、神と交わるこの特権を失うなどということは、私の魂にとって受け入れがたい考えである!これは形式的祈りよりも遥かに優ったものである。儀式的な家庭の祭壇を打ち立てることよりも優ったものである。一日の特定の時間を「主を待ち望むこと」にささげる以上のことである。これは神の御座から流れる川である。交わりの歩みである。霊的冒険の大路を旅して、他の方法では決して達しえない栄光と恵みの領域に入ることである。神との交わりのこの歩みは、人生の諸々の疑問に答え、その諸問題を解決して悩んでいるすべての心に完全な満足を与える。これが道であって、他に道はない!
他に道はありえない。これは神の道だからである!困難、心配や悲しみにもかかわらず、また、問題がどれほど複雑で疑問がどれほど難解だったとしても、御霊はこの道を啓示してくださる。そして、主がご自身をあなたに啓示される時、神の知恵が与えられる。
上からの知恵が、今必要なものである!まことに、これが今日に対する使信である。これが、「私の宣べ伝えは人の知恵によるものではない」とパウロが言った時、彼が言わんとしたことである。自分の高等知識によって聖霊の啓示が邪魔されないようにと、パウロが恐れおののきながら彼らのもとに行ったのも不思議ではない。神へと向かう人の旅路を動機づけているものが人の知恵しかないなら、その人の経験はこの限られた源に全く依存することになる。しかし、人が上から下る知恵によって照らされて、神の照らしの結果として回心の際にある経験をする時、この輝かしい経験は永続するだけでなく、神の御座から発する光の中で成長するのである。
数日前、あるとても落胆している女性が私のところにやって来た。彼女は困惑と混乱のただ中にあり、私に助言を求めた。彼女は悔やんで、「私は助けを求めてあらゆる場所に行きました。そして、私の友人の一人が、あなたのところに行くよう助言してくれたのです」と言った。私は彼女に「私はあなたを助けられません。あなたを助けられる人は地の面にだれもいません!」と率直に述べた。彼女を助ける者は私ではなかった。助けの見つかる所に行くしかなかったのである!
彼女が信じている事柄に、一つも問題は見つからなかった。しかし、話し合っている時に、御霊が彼女の思いと経験の状態を私の心に啓示してくださった。そこで、私は彼女を遮って言った、「私の姉妹よ、これがあなたの問題です。あなたはこれまで信じる者でしたが、受け取る者ではなかったのです!」。それから、私は彼女に神の豊かさについて告げた。そして、十分すぎるほどの十全性を強調しているこれらの最上級形容表現の中を、パウロと共に通って歩いた。この十全性は、体・魂・霊のすべての必要を満たす。私が彼女を神の御前に導いて、「ひたすら受け取りなさい」と彼女に命じた時、まるで花が花弁を開いて朝の太陽のキスを受け取るかのように、彼女は神の臨在の豊かさの中から飲み始めたのである!クリスチャンの勝利の秘訣はここにある!これがあなたの疑問に対する答えである。これがあなたの問題に対する解決法であり、あなたを聖化するものである。ここに、あなたが必要とするすべての知恵がある。なぜなら、キリストはすべてのすべてだからである!ああ、イエスが死んで救い主になられた時、彼はわれわれの長兄となり、われわれは神の家族の一員となったことを、われわれが理解して経験的に知ることができれば。それゆえわれわれは、われわれの天の父に愛されている子らとして、歩み、語り、考え、行動すべきではないだろうか!