すべての肉なる者の神

チャールズ・プライス

「幸いなるかな、心の清い者たち。彼らは神を見るからです。」(マタイ五・八)

われわれの祝された主の地上生涯の間、主はとても奇妙なことをいくつかなさったように思われた。事実、型破りで独特であることが主には常のことだった。主は人々の伝統に屈することを拒まれた。そして一度ならず、御自分の世代や時代の確立されたしきたりを全く無視された。

この現代において、われわれは新聞広告や、それに似た極めて目立つ人目を引く方法で群衆に手を差し伸べるために、途方もない額の金銭を費やしている。われわれは「人々を呼び込む」魅力的な主題を夜を徹して考える。そして、一般的に、現代の福音説教者は自分の成功の度合いを自分の会衆の大きさで測る。その標語は「大衆への宣べ伝えを実現するためなら、何でも利用する」であるように思われる。他方、われわれの中にはハリウッドに行って、集会を形容するための誇張表現を拝借する者もいる。

群衆が集まることが、必ずしも悪いわけではない。会衆の数が大きければ大きいほど、それに伴って、十字架の物語を人々の心に伝える機会も大きくなる。しかし、われわれが真面目に考えなければならないのは、なぜわれわれは群衆を求めるのか、なぜ群衆がやって来るのか、ということである。

イエスは成功を統計で測ることは決してなさらなかった。天の力を人の数で計算することはできない。主が遥かに気にかけておられるのは、人の心の中に愛と信仰がさらに増すことであり、建物の後ろに椅子がいくつか増えることではない!

マタイによる福音書四章の最後の節は、全土から来た大群衆が主に従った、とわれわれに告げている。彼らはすぐ近くの町からやって来ただけでなく、外国からもやって来た。その集団は巨大なものだったに違いない。

主は彼らと会い、無限の憐みにより、彼らの病に触れて彼らを癒された。しかし、われわれは次の事実を忘れることはできない。マタイ五章の冒頭の節がわれわれに告げているところによると、弟子たちと共に、主はこの巨大な群衆から逃れて、一人で山にこもられたのである。主がそうなさったことは奇妙で異常なことに思われたのではないだろうか?

主は同じことを数千倍の人に言うこともできたのに、なぜわずか一握りの十一人か十二人の人に向かって宣べ伝えなければならなかったのか?おそらく、数千倍の人々は耳を傾けただろうが、十二人しか聞くことができなかったのである!精神が錯乱していて悪魔に取りつかれている愛する者たちや、麻痺した病人を連れてきたこの人々の大群は皆、癒しに絶大な関心を寄せていた。しかし、比較的少数の人だけが癒し主に関心を寄せていたのである!

だから、イエスはこの少数の人のために群衆から去ったのである。御言葉をある程度受け入れて、それを受容・吸収できる人々と、彼は接触するようになった。周囲に群がる群衆は何と盲目だったことか。彼らは束の間の祝福を求めており、もっぱら、いま肉体にあって生きている生活に影響を及ぼす皮相的な事柄で満足していた。

考えてみよ。数千の目がイエスを見ていたが、彼が実際いかなる御方なのかを見ていた目は何と少なかったことか!主の御言葉に耳を傾けていたこの群衆について考えてみよ。真に聞いていた人の少なさを考えると、胸が張り裂けそうになる。

心の清い者

こういうわけでわれわれの誉むべき主は、憐みによって巨大な会衆の肉体的必要を満たしつつ、御自分の忠実な従者たちの小さな群れを山々の中の或る秘密の場所に連れて行き、彼らに語られた。その間、彼らは主の足下に座った。神御自身の御霊から発した透明で純粋な流れのように注がれたこれらの永遠の真理の中から、主が彼らを教えた時、主は御自分の口を開いただけでなく、御自分の心をも開かれた。

今日、少しの間あなたたちと論じたい一つの永遠の真理がある。それは、「幸いなるかな、心の清い者たち。彼らは神を見るからです」という真理である。何という宣言!何という約束!神を見たい、と誠実な心の持ち主は常に叫んできた。ダビデは魂の苦しみの中でこの叫びを上げた。利用可能な人の力が尽きた時、彼はかつてないほど空っぽで虚しく感じた。ダビデは再び、生ける神に飢え乾いたのである!

神を求める願いのゆえに、アブラハムはカルデヤのウルを去って旅に出た。彼は主の御霊によって、見知らぬ土地に導かれた。とまどい困惑して座り込み、神を求めつつ神の臨在の現われを待ち望んでいた時、この叫びがヨブの心から絞り出された!「ああ、神を見出せる場所を知っていれば。そうすれば、御座のもとに行くことができたのに!」。

を見ない限り、人の心は決して満足することはない。これは確実である!顔と顔を合わせて神を見ない限り、あなたのせわしない魂は永遠の探求を続けるしかない。「一通り普段の仕事をこなしていれば、求めるものはすべて与えられる」と告げる歌がある。しかし私は心の中で、それが真実でないことを知っている。奉仕しても十分ではない!われわれの主のために事を為しても十分ではない。祈りの集会も不十分であり、教会奉仕も駄目である!組織に忠誠を尽くし、諸々の狂信や運動に献身しても、悲惨なことにわれわれは空っぽのままである。最終的に、われわれの存在の深い部分から、この同じ昔ながらの叫びが心から鳴り響くのである。

復活の朝、われわれの麗しいイエスが園の木々の間を通って来られるのを見て、マリヤのすすり泣きは賛美の歌に変わった。彼らが顔と顔を合わせて会い、彼が彼女の名を呼ばれた時、彼女の涙は拭い去られた。われわれの救い主であり主である彼との個人的接触だけが、われわれの生活の必要を満たし、一人一人の心の中に存在するこの真空を満たすからである。

神を見つめる

私の友よ、私はあなたに保証する。イエスが山上の垂訓で神を見る可能性について語られた時、彼が述べておられたのは、旅の日々が終わって彼岸の真珠の門に着く時にわれわれを待っている輝かしい経験のことではない。彼が述べておられたのは、この今の世で人が神を見る可能性である。それは、雲が消え去って人生の霧が晴れる時、われわれは永遠の国で御父の御顔を見ることになる、という約束ではない。彼が言わんとされたのは、われわれは誤解という雲の中でも神の御顔を見ることができるのであり、人間的困惑と言う霧の中でも神の目を見ることができる、ということである。われわれは今ここでを見るべきだったのである!

われわれがを見る時だけ、次のことが完全に明らかになって人生が輝くようになる。すなわち、おられること、そして、神を勤勉に求める者には報いて下さる、ということである!神を神学的に知ることと、神と経験的に親しむこととは別の問題であり、後者の方が遥かに優っている!この至福の約束を先伸ばしにしてはならない。また、これを経験する可能性を、川の彼岸でキリストに似た者となって目覚めることをあなたが願っている遠く離れた未来のことにしてはならない。

あなたは今ここで神を見ることができる!この今の世でわれわれが御子との交わりの中に入ることを、神は望んでおられる。彼はあなたや私において御自身を現わすことを待っておられる。われわれの明け渡された存在が、それを通して彼の栄光、臨在、御力の抗し難い力がこの世に対して現れる媒体となるまで、彼は待っておられるのである!

この至福は空の彼方の国とは全く関係ない!の生活と関係しているのである!「彼処では」すべての人が「心の清い」者となり、救い主がこのような説教をする必要はなくなる。

われわれの現代の教会が抱えている困難の一つは、今日可能な経験を未来のものとすることにわれわれが固執していることである!神の現在を人の未来に転じることは、何という聖書の歪曲だろう!「なぜなら、天の王国は彼らのものだからです」という句をイエスが使われた時、彼は「なぜなら、天の王国は彼らのものになるでしょう」とは言わなかった。彼は現在時制を使われたのであり、それにより、これを無限のものとして、代々にわたって絶えず有効なものとされたのである!

真の王国

われわれは目を閉じて「あなたの王国が来ますように」と祈る。そして、この罪で呪われている地の諸国民や諸々の帝国が、千年王国の統治の始まりの時に、救い主の足下に跪くのを、われわれはすぐに夢見る。これはその通りに実現する!それは「計画」の一部である。人が土くれであることを忘れてはならないが、神の王国がわれわれの内に臨むことは可能であることを思い出せ!この宇宙を揺るがせる摂理的出来事、地上と地獄の全軍勢といえども止められない摂理的出来事について心配することに、なぜ多くの時間を費やすのか?むしろ、神に敬意を払おうではないか。神の栄光と力は十分であって、その日に至るのである!何と頻繁に、われわれは主の祈りを祈りつつ、「その日」を夢見ていることか。しかし、その間ずっと、御霊は聞くのに遅いわれわれの心に向かって「今、今、今」と語っておられるのである。

神の外面的現われにはそれに対応する内面的なものが必ずある。ここでわれわれは「道を見失った」のである。内側を見なければならない時に、われわれはいつも外側を見ているのである!「心の清い者たちは、彼らが神を見る日、幸いになるでしょう」とイエスは言わなかった。「心の清い者たちは幸いです彼らは神を見るからです!」と言われたのである。今ここでである!

肉体だけが地につながれている。霊は鷲の翼をかって永遠なる無限の神の中へと飛翔する!カルバリの血は魂を縛る紐を断ち切り、霊の中に築かれた境界を破壊する!あなたの足は地上にあるが、あなたの頭は雲に達することができるのである!

われわれの死すべき耳は、神なき地にいる争い好きな人々の騒ぎ、騒音、物音にさらされるであろうことを、主は御存じだった。しかし、主は贖われた御霊の耳を与えて下さった。この耳は救い主の御声を捉えることができ、永遠の御座の周囲から響く天使たちの歌のうっとりするようなメロディーを聞き取ることができる!定められた任務を行うのにわれわれの人の目を用いる必要があることも、主は御存じだった。しかし主は、われわれがこのような制限の中に閉じ込められたり、このように狭い視界の中で奴隷にされることがないようにするために、この世の子らはそれについて何も知らない目を与えて下さった。主は御自分の子らに霊的視力と、「われわれはを見ることになる」を「私は王を見た!」に変える力とを与えて下さったのである。

顔と顔を合わせて!

われわれの救い主を顔と顔を合わせて見る時、われわれはのようになる!この死すべき体の制限から永遠に解放される!これは見知らぬ人と初めて会うことではなく、共に歩んで語り合ってきた二人の旧友の輝かしい再会である。これは恵みの下にあるわれわれの特権である!確かに、群衆はこれを受けることができない。昔も今もそうである。これを知っていたので、われわれの祝された主は埃っぽい大路にいる数千のこの大群衆を離れて、これらの事柄を小さな群れに語られた。この小さな群れは聞き始めており、始めていたのである!

神を見るための要件として、ここでイエスが示しておられる条件は、が清いことである。私は確信しているが、これは「全き聖め」の教理が示すところの昔ながらの「心の清さ」ではない。なぜなら、この神学用語が意味するところは、一つの燃えるような真理に付随するものにすぎないからである。主の御霊はこの真理を見ることができるようにして下さる、と私は信頼している。

これまで多くの人が教えてきたところによると、われわれが人生のある段階や状態に達した後、われわれが「悪いこと」を全く考えない地点に達した後、登頂者は内的・外的清さという高山の頂に達する。その後、山頂で、われわれは顔と顔を合わせて神を見る。しかし、その山の場所や樹木限界線について一致している人々はいない。「神に対する聖さ」は、単にを差し控えることよりも、さらに優っていて麗しいことを、われわれは決して忘れないようにした方が良い!

イエスは依然としてこの同じ問題を、昔抱えていたのと同じように今日の弟子たちに対しても抱えておられる。われわれは内面の代わりに外面を取り扱うことに固執している!今日、クリスチャンとしての外面的な生活で満足している人々がいる。しかし、クリスチャン生活はそのようなものではないことを、彼らは思い出せないでいる。真のクリスチャン生活とは、信者の中でキリストが生きることである!信者の外面生活は、キリストが内側に生きておられることの現われ、結果であって、その逆ではない!あなたが神の御前でいかなる者であるのかは、キリストがあなたの中でいかなる者になることが許されているのかによって決まる!

宮の階段にいた「義しい」昔のパリサイ人は、取税人に対するイエスの姿勢に大いに困惑した。聖書はこの問題に関して少しも疑問の余地を残していない。イエスを仰ぎ見ている誠実な罪人は、皆から見られることを望んでいる自己義認のパリサイ人よりも、主を見る機会が遥かに多いのである。

パリサイ人が関心を寄せていたのは自分の行いだったが、泣いている取税人が関心を寄せていたのは、自分には神の憐みが大いに必要だということだった。神を見るのは「心の清い」者である。イエスは「生活の清い」者とは仰せられなかった。なぜなら、その場合、ある一定の行動規範が必要になり、御顔を見るにはまずその行動規範を持たなければならなくなっていただろうからである。

神以外に良い者はいない!思い・心・生活が完璧な完全に達した、とうぬぼれて主張する人が、誰かわれわれの中にいるだろうか?もし主が外側の行動について話しておられたなら、われわれはどれほどの水準の清さを渇望し、どれほどの水準の清さを獲得する必要があっただろう?ここで述べられている清さは、肉的なものや感覚的なものの境界線を遥かに超えて遠方に及ぶ。われわれはこれを「行い」の問題にすることはできない。彼が語られた「すべての理解力を超えた平安」は、敵意の停止や静かな生活環境を意味する、とは言えないのと同じことである。

飢えた心

主が話されたのは外側のことではなく、内側のことだった。自分の欠点を見る時、絶望して座り込んではならない。またこれは、「自分は『清い心』に到達した」と言えるようになる霊的生活を育もうとして、年月を費やす問題でもない。昨日がいかなるものだったとしても、全き誠実さで主に手を差し伸べよ。釘で貫かれた御手に手を差し伸べよ。ただ心を尽くして主の方に向け!今日、誠実な願いの汚されていない純粋な流れと共に来たれ。そして、鹿が谷川を慕い求めるように、あなたの飢えた魂をして生ける神を求めて叫ばせよ。そうすれば、間もなく、あなたは主の内に平安を見出す!

イチジクの木の下に座って、おそらく自分の大きな必要を覚えつつ、疑いや恐れに満たされているナタナエルは一人だけではない。当時実際の経験だったものを霊解することは可能である。これは何度も何度も経験されてきたことである、とわれわれは矛盾せずに宣言できる。そのすぐ前日にピリポは、人々が「あの人はヨセフの息子で、ナザレの大工である」と言っていた人を見た。彼を見たのはピリポの目だけではなかった。しかし、おそらく、その人々はピリポの心の中にあったものを持っていなかったのである。

ピリポがイエスを見た瞬間、彼はイエスを知った。優秀なクリスチャンになるために、彼は神学試験に合格する必要はなかった。彼がイエスの目を見た瞬間、彼の心は突然賛美の歌を歌い始め、形容できない幸福を感じた。彼が自分の友人であるナタナエルを探したのも、極めて当然のことではないだろうか?それはクリスチャン生活を送るよう彼を説得するためではなく、自分たちがキリストを見出したことを彼に告げるためだった!人がキリストを見出す時、おのずとクリスチャン生活が始まるのである。

だから、ナタナエルはイエスのもとに行き、道すがらピリポと議論した。何が起きたのか、あなたは知っている。イエス御自身が、ナタナエルの即時的回心の奥義への扉を開く鍵を、われわれに与えて下さっている。「見よ、まことのイスラエル人を」と主は言われた。「この人の内には何の悪巧みもない」。やって来たのは正直者だった。歩いてきたのは誠実な人だった。そして道の曲がり角で、ナタナエルは顔と顔を合わせてこの御方と会い、この御方が自分の主であることを悟ったのである!

他の一面

私の友よ、落胆してはならない。イエスはあなたが思う以上に近い。イエスがあなたのもとに来て下さるのは、あなたが完全だからではなく、あなたを御自分の完全さの中で完全にするためであることを覚えよ。彼はわれわれと共に歩んで下さる。それはわれわれの「善」に対する報いとしてではなく、われわれが彼と接触することにより、彼の神聖な性質の分与に対してわれわれが備えられるためである。彼が来て下さるのは、われわれにクリスチャン生活の送り方を教えるためではなく、それよりも遥かに素晴らしいことを教えるためである。すなわち、彼は来て、われわれの中で御自身の生活を送って下さるのである!