忍耐

チャールズ・プライス

ヘブル人への手紙十章三五、三六節にこうある。

「ですから、あなたたちの確信を投げ捨ててはなりません。それには大きな報いがあるからです。神の御旨を行った後に約束のものを受けるために、あなたたちに必要なのは忍耐です。」

過去数年、私は伝道旅行で地方を行き来してきたが、主を愛する人々の心に広く行き渡っている期待感に私は深く印象付けられた。神の民の心の中に啓示や理解の光が生じるだろうと信じることは、全く聖書的である。なぜなら、夜に盗人が来るようにその日がわれわれに臨むようなことがあってはならないし、われわれは来るべき大事件に不意を突かれてはならない、とわれわれは教わっていないだろうか?私自身の人生に何かが臨もうとしていることを、私は絶対的に確信している!

われわれが皆知っているように、もちろん、われわれの祝された主の地上への帰還は、遥か遠い将来の出来事ではありえない。しかし、私が特に述べたいのはこれではなく、何かが起きようとしているという感覚についてである。主を愛する人々の心における神の御霊の動きは、世がかつて経験したことのない霊的力の傾注の可能性を、間違いなく示している。私は個人的に確信しているが、御霊の傾注と共に始まったこの教会時代の期間は、この同じ神の力と共に終わるだろう!この期間は神の力と栄光で満たされた百二十人と共に始まった。彼らは大いに満たされていたので、彼らの時代に変革をもたらし、この世をひっくり返した。それは彼らの宣べ伝えだけでなく、彼らの内に宿る力の明確な現われにもよったのである。

明け渡された経路

今日のわれわれの福音伝道は彼らのと比べると幼稚である。主の過去及び現在の御業を軽視するつもりはないが、私は次の事実に対して目をつぶることはできない。すなわち、初代教会における力の現われと、今日示されている力の現われとの間には、大きな違いがあるのである。彼らは明らかに、われわれが持っていない権威の御言葉によって武装されていた。ペテロが宮の門で足なえの男に、「私の持っているものをあなたにあげよう」と言った時、イエスの復活の命がその死すべき体を通して流れたので、その男は感電して即座に動いた。飛び跳ねて叫びながら、彼は使徒たちに続いて宮の中に入った。その間ずっと、彼は神への賛美を告げた!使徒行伝は、結局のところ、聖霊行伝であり、これを読んで、主が彼らの中で、また彼らを通して行われた素晴らしいことを見る時、霊の中で高揚せずにはいられない。この秘訣は完全に、もちろん、慰め主が彼らの中に住んでおられることだった。彼らは、それを通して聖霊が働かれる経路にすぎなかった。彼らは聖霊の導きに明け渡しており、聖霊の導きに従ったのである。

彼らは或る力を受けて、その力により、自分の力で諸々の奇跡を成し遂げられたのである、と一瞬でも信じる人はだれもいない。彼らが話す時、聖霊が彼らを通して話しておられたのである!彼らが働く時、聖霊が彼らの中で働いておられたのである!力が現れる時、それは内住している御方の力だったのである!彼らはそれを他のだれにも帰さなかった。また、熱狂者たちが彼らの偉大さや敬虔さについて何を言おうと、彼らはそれを否定した。彼らに与えられたイエスの御名は、鍵のかかった扉を開き、暗闇を除き去り、健康を回復するための呪文の一種として用いるべきたんなる常套手段ではなかった。彼らがイエスの御名を用いるとき、そこには御名の意味以上のものがあった。彼らが力を受けたのは、聖霊によって事を行うためではなく、聖霊と共に事を行うためだった。務めは聖霊のものであり、彼らは、それを通してこの務めが現わされる媒体にすぎなかった、もう一度言おう。絶対的明け渡しとわれわれの祝された主の御旨に対する完全な献身の地点に至りたい、という誠実な願いが人々の間でますます深まっていることに、私は注目してきた!この願いの結果、内住の聖霊の臨在をますますはっきりと認識するようになりつつあるし、それに伴って、自分たちは栄光の黙示録――その光はすでに東の山々を照らしている――に向かって旅しているという確証が明確になりつつある!「あなたの王国が来ますように!」というイエスの祈りは空しい祈りではない。私を信じて欲しい、王国が来ようとしているのである!地獄の全勢力もそれを止められない。キリストは敗北しておられない。彼は依然として御座についておられ、幾世紀ものあいだご自身に反対してきた地上と悪魔のすべての勢力に対して究極的勝利者となられるのである。

新しい時代

われわれは新しい時代の夜明けに生きている、という確信で私の霊は燃え盛っている。その時代に、われわれはキリストの力とその素晴らしい臨在の栄光の現われを経験する。世界的リバイバルは起こらない、と私は言っているのではない。罪の道と咎の大路から数百万の人々がキリストに勝ち取られることはない、と述べているのではない。私が言っているのは、キリストを愛して喜んでキリストに仕える人々の上に御霊が豊かに注がれて、彼ご自身の預言の言葉が成就し、彼ご自身が定められた神聖な計画が完成する、ということである。これらのことに熱中して、自分の人間的努力や人間的方法を通して、自分の夢見ている事を実現しようとするのは、ごく自然なことである。

われわれは幻を見ると、すぐに働き始める。しかし、決して忘れてはならない。権勢によらず、能力によらず、わが霊によって、と主は仰せられる!伝道者がリバイバルを起こそうとしても、もしそれがその時代のための主の定めではなく、われわれの天の父の御旨でもないなら、無益である。われわれの人間的霊は、自分の霊的判断で熱狂の道に沿って駆け去るのが常であり、ついにはわれわれの熱心がわれわれを食い尽くしてしまう!われわれは、忍耐強く主を待ち望む学課を学ばなければならない。行いを企てることよりも従うことの方が遥かに優っている!われわれが夢見ている諸々の結果や、すぐ先にあるとわれわれが信じている栄光をわれわれが経験するのは、われわれの努力や労苦にはよらない。神ご自身が定められた時に初めて実現するのである。われわれのなすべきことは、今日のための神の御旨を行って、神の素晴らしい臨在が神ご自身の方法で神ご自身の時に現わされるのを御前で忍耐強く待つことである!

自分たちで励んで宗教的興奮や熱狂の状態の中に入ろうとしても無益である。御霊がその神聖な定めの場所にわれわれを連れて行かれないかぎり、われわれは主の日が来るまで、全く満足しつつ谷底で待とうではないか!全き明け渡しの代価を勘定に入れようではないか。そして、その代価を喜んで払う気があるなら、すべてを主の足下に置こうではないか。その時、われわれはイエスの新しい幻と共に出発して、カルバリと称されている素晴らしい丘を登り、われわれの祝された主の身代わりの死と苦難により自分自身も十字架につけられていることを証しできるようになる!その永遠の事実を認識して初めて、われわれは来るべき日々の途方もない可能性を理解し、明日臨むかもしれない啓示を待ち臨むことができるのである。

ヨブの忍耐

ヨブの忍耐について述べることが、ほとんど慣例化している。なぜ彼はこんなにも長く待ち続けたのか、とわれわれはとまどう。神が彼の疑問に対する答えを彼に与えて、この敬虔な人が直面していた諸問題を解くのが、なぜこれほど果てしなく遅れたように思われるのか、とわれわれはとまどう。彼が三人のいわゆる「慰安者」の哲学に耳を傾けて、困惑と混乱の道を進んだ後、ようやくその道の終わりで光が輝き始めた。その光は輝かしい栄光をもって照り輝き、彼がかつて知っていたすべてのものに取って代わった。神は何をなさったのか?神はヨブの所有を二倍にし、彼が失ったすべてのものを増し加えられた。滅ぼされたが、何倍にもなって再び戻って来たのである。

しかし、これらの地的所有よりも遥かに良いものが、彼が待っている間に彼に臨んだ。それらはとても価値のある宝石だったので、冠のダイヤモンドもその前では色あせてしまった。彼が過ごした夜は、来たらんとしている栄光の時代のための備えだったのである!

火が天から下って、主がご自分の預言者の正しさを立証された後、山腹の急斜面を僕と共に登っているエリヤを見よ!主は雨を約束されたが、まだ雨は降っていなかった。何度も何度も、彼は海に張り出した岬の先に僕を遣わして、遠くの空に現れる雲の徴を探させた。彼は祈った方が良かった、とあなたは言うだろう。しかし、私にはあまり自信がない。おそらく、彼がじっと座って、雷雲が集まって空から雨が降り始めるのを待っていたなら、それは彼にとってもっと良いことだったし、主の御言葉に対するより強固な確信の徴となっていただろう。神は決してご自分の御言葉をたがえないことを、彼は知っていてしかるべきだったのである!主が「雨が降る」と仰せられる時、必ず雨が降る!成就しないことは決してない!

明日は神に属する

この恵みの人生で、われわれは主との取引において、絶え間ない心配と忍耐不足によって、どれほど多くのものを失っていることか。しばらく前に、私は中西部のある家に降りかかった悲劇について読んだ。寒さのさなか、冬の夜に事件が起きて、一人の男とその二人の息子の命を奪った。一、二日後、白髪のやもめが開かれた墓の横から引き返して、空家のような家に連れ戻す馬車に向かった。人々は同情のこもった目で彼女の一挙手一投足を見守った。人々の心はあわれみで脈打っていた。なぜなら、この女性の髪は白くなり、やりくりするための所有物はあまり多くなかったからである。彼女はどこに行き、何をするのか、と人々はいぶかった。

彼女が自分の住んできた農場を営もうとしても無駄なことを人々は知っていた。それは男の仕事だったからである。また、その共同体では助けはあまり多くなかった。そこで、牧師が彼女の後について行って家の中に入り、テーブルの反対側の席に着いた。彼は彼女の悲劇的な損失に同情し、それから、将来のことについて彼女に尋ねた。彼は言った、「あなたはこれからどうするつもりですか。どうやって暮らしていくつもりですか?」。しわくちゃの彼女の顔に微笑みが浮かんだ。彼女の目から輝き出た愛の光は、内住のキリストの表れにほかならなかった。また、それは主に対する彼女の信頼を示すものだった。ゆっくりと彼女は答えた、「お答えすることはできません。私にはわかりません。私が知っているのは、今日は私のものだということです。しかし、明日は御父に属するのです」。そこには何の心配もなかった。彼女の快活な心をさいなむ恐れはなかった。むしろ、われわれの主の素晴らしい臨在を感じる永続的な感覚と、主が最後まで導いてくださるという確信があったのである。一歩一歩、神はご自分の子供たちを導いて、人生のでこぼこの大路を越えさせ、道がなだらかな所に至らせてくださる。あるいは、われわれの疲れた足を休ませることのできる牧草地に至らせてくださる。

一度に一歩進む学課を学ぶとき初めて、われわれは忍耐の素晴らしさを理解できるようになる。われわれを将来永遠に永らえさせてくれるマナを、われわれが集めることはない。今日十分な分を得るのである。それを集める日の分だけ得るのである。神の恵みも同じである!一瞬一瞬、われわれは神の神聖な命の流れを受け取る。神の暦時計の針を先に進めることは、われわれにはできない。われわれの側でいくら努力しても、神だけが意図された務めを果たすことはできない。神だけがそれを果たせるのである。主の中に安息して、主を忍耐強く待ち望む学課を学ぶ時、われわれは幸いである!

鍵を外そうとしたり、切望する自由への道を切り開こうとしたりするよりも、ペテロが牢獄の中でそうしたように、眠って問題をイエスに任せる方が遥かに優っている。あなたの重荷を主の足下に降ろせ。自分が主の御旨の中心に生きていることをあなたがわかっているなら――あなたが自分のすべてを祭壇の上に置いており、あなたの人生が主の素晴らしい内住する臨在に対して開かれているなら――主の約束の成就と自分の祈りに対する答えを待つことが、あなたの特権である。愚かにも今日忍耐を失って悔いを残すことで、幸いな明日を台無しにしてはならない!それをイエスに任せよ!重荷を負ってくださる御方の足下にそれを降ろせ。そして、あなたの心に主の素晴らしい賛美を歌わせよ!主の中に安息して、忍耐強く主を待つことを学べ。そうするなら主はあなたに与えてくださる――聞け、主はあなたに与えてくださるのである――あなたの心が望むものを!