あなたたちは今日、誰に仕えるのか選びなさい
ヨシュアは地上の巡礼の最後に達した。イスラエルの指導権を渡す時が来たことを彼は知った。そこで、彼はシケムに全イスラエルを集めた。彼は長老たち、士師たち、権威あるすべての者たちを自分のもとに集めた。そして、彼らは神の御前に出た。
それから、ヨシュアはすべての民に向かって、「イスラエルの神である主はこう言われる」と語り始めた。そして過去を一つ一つ振り返って、民が主を受け入れた時は最初から勝利したこと、また、肉が優勢だった時は敗北したことを証明した。人の知恵が神の指導に取って代わった時、彼らは抑圧者たちの圧政によって打たれた。そして、人間的手段が時々用いられはしたが、それでも、その人間的手段の背後には何らかの力があって、それが彼らを切り抜けさせたのである、という結論に達せざるをえなかった。
それで、ヨシュアの心からの訴えは、「あなたたちは今日、誰に仕えるのか選びなさい!」という要求をもって頂点に達した。これは、彼らが文字どおり堕落して、異教や他のどこかの社で礼拝している、という意味ではなかった。しかし、真実を強調しなければならない。多くのクリスチャンは、実際のところ、半分異教徒なのである。彼らの神観念はまさに異教的である。彼らが自分の生活にキリスト教的名称や定義を与えている事実は、実際のところ霊においては異教的である事実を否定するものではない。
本当は、多くの人がキリスト教を受け入れているのは投資としてではないだろうか?彼らは報酬を求めて生きているにすぎず、「与える」のは見返りを得るためではないだろうか?これは異教である!かなりの人が、自分の宗教経験は自己犠牲だけである、と見なしている。彼らは自己を否む代わりに、克己を実践する。そして、自分自身の禁欲の道に沿って進んで、自己を克服するために遥か遠くまで旅をする。まず神の王国とその義とを求めることを、彼らが誠実に学びさえするなら、なんと多くの麗しいものを主は彼らに加えてくださることか!
宝のあるところに、その人の心もある。それ自体は悪くないものが、人生にはたくさんある。しかし、それらのものを求める願いが思い・心・意志の中で第一となる時、それらは悪いものとなる。真のクリスチャンなら、神の完全な御旨が成ることで全く満足しなければならない。まず神の王国とその義とを求める時、「他のものがわれわれに加えられる」のである。
天然の人は本能的にこの「他のもの」を求める。それらは生活に欠かせない、と信じているからである。おそらく、それらは天然の人に訴えるものなのだろう。しかし、天然の領域から引き上げられて霊の領域にもたらされる時、人生のあらゆる方面に関する神の御旨がわかるようになる境地にわれわれは達する。
愛の奴隷
他の神を持たないことは、主イエスの愛の奴隷になることを意味する!われわれは何ものにもまして御旨を行うことを欲する。感覚を喜ばせたり、自分の利己的な目的を追いかけたりするために、主を脇に置くようなことはしない。むしろ、すべてを完全に明け渡して御前で祭壇の上に置く。そして、われわれの道を照らしてくれる御計画と御旨の光を求める。その時、それはわれわれの道となり、ますます輝いて真昼になる!
実業界の中にいる人は、全く神にささげられた生活を送るために、必ずしも自分の商売をやめる必要はない。しかし、自分の商売のためだけに生きるのではない。なぜなら、一つの燃える炎のような情熱が魂を燃やす時、他のものはみな無限なる永遠の御旨と一致し始めて、甘美で穏やかな平安が心と生活の両方に浸透するからである。われわれはパウロのように、「どんな境遇でも、その中で満足することを私は学びました」と言うことができる。
しかしながら、この麗しい境地に達するには、その前に、われわれのアダム的性質を自発的に放棄しなければならない。われわれは二人に主人に仕えることはできない。同時に二つの領域に生きることはできない。肉の中に生きつつ、そこからよじ登って出て、たまに御霊の領域の中で礼拝する、ということはできない。この二つの領域は敵対している。どちらかでなければならない。
これが、ヨシュアが「あなたたちは今日、誰に仕えるのか選びなさい!」と叫んだ時に言わんとしたことである。献身が完全なものになるよう彼は欲した。明け渡しが絶対的なものになるよう彼は欲した。彼はイスラエルの絶頂とどん底の経験を知っていた。彼らはわれわれと同じように、輝かしい御力の超自然的顕現の受益者だった。しかし、繰り返し、彼らは自分自身の道に逆戻りした。天からのマナを食べていたかと思うと、その翌日にはエジプトの肉鍋を追い求めた。主の素晴らしい導きに信頼していたかと思うと、その翌日には地上の王の戴冠を求めて叫んだ。われわれは彼らと同じように選択しなければならない。
捕囚の預言者であるイザヤはこの同じ思想を捉えて、六〇章の最初の二つの節でこう宣言した。「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上に昇ったから。なぜなら、見よ、暗きは地を覆い、闇は諸々の民を覆う。しかし、あなたの上には主の栄光があらわれる」。
これはなんという宣言か!それは行為の光だったのか?そうではない。肉の業績の光だったのか?そうではない。知恵の光だったのか?そうではない。それを求めて人が努力すべき光だったのか?そうではない。それは主ご自身の光だった。この光は主の臨在と不可分であり、その輝きは主イエスのパースンの栄光に伴うものである。それは、成功者の頭を飾る、人の業績の栄光という冠ではなかった。それは主の栄光であり、この栄光は神聖な臨在から流れ出た!主抜きではわれわれはなんと無力なことか!主の力がなければわれわれはなんと弱いことか!主の豊かさがなければなんと空虚なことか!主の導きと日毎の御旨の啓示に、われわれはなんと絶対的かつ完全に依存していることか。これは主の御旨と目的にしたがったものである。人々には他の神々があり、彼らは自分たちの知性主義という社に額づく。状況を神として、環境を主と宣言しさえする。特定の状況を前にして自分たちは無力であり、環境の重圧のせいで何もできない、と彼らは論じる。彼らは解放者について聞いたことがないのだろうか?偉大な解放者の力を知らないのだろうか?
「主の栄光があなたの上に昇る!」。暗闇が贖われた者の上に臨むことはない!それは地を覆い、闇は諸々の民を覆うかもしれない。しかし、それは贖われて御霊に満たされた者の分ではない!「主があなたの上に昇り、その栄光があなたの上に現れる!」。
「自分が主と共に歩んでいるのは、超自然的啓示の光のおかげです」と、主を愛する弟子はみな告白したのではなかったか?主は世に来られた光だった。しかし、世はそれを理解しなかった。主は暗闇の中に来られたが、暗闇は彼を受け入れなかった。理解しなかった。主がご自分の弟子たちであると仰せられたこの人々はみな、天からの光が自分の道を照らしたとき初めて、世の光である主を見たのである!
御霊の光がキリストを啓示するまで、キリストご自身は見えない光のままである!キリストは暗闇の中に来られたのではなかったか?しかし、暗闇は彼を知らなかったのではなかったか!キリストはその民のところに来られたが、彼らは彼を見ていながら、それでも彼に関して無知のままではなかったか?キリストは今日も人々のところに来て、その素晴らしい臨在をありとあらゆる様々な方法で現わしてくださるのに、それでも人々は主の栄光に対してなんと盲目なことか!これは厳しい言葉だが、全く正しい。彼に気づいて、その輝きの言語を絶する光とその聖さの染みの無い白さのうちに彼を見た人は、比較的少数しかいなかったのである。
イエスがその贖いの栄光のうちにひとたび啓示される時、その比類ない救いの恵みの素晴らしさをあなたが見つめて救い主の麗しさが示され始める時、彼があなたになしたいこと、そして、あなたのために今なしたいことを囁く御声をあなたが聞く時、あなたは感覚的な地的物事に背を向けるようになる。そして、あなたの心は愛と賛美という鷲の翼をかって昇り、彼にまみえる!われわれはなんと盲目だったことか!われわれの耳はなんと不自由だったことか!われわれの理解力はなんと暗かったことか!
われわれは、彼を見ても理解しなかった昔の人々によく似ている。彼らは御声を聞いても、彼に聞かなかった。彼の知恵の言葉に耳を傾けたが、暗闇の中に生き続けた!彼らは真理の戸口にいた。イエスは彼らを見て、「わたしは門です」と言われた。しかし、彼らは彼を笑いものにして嘲り、入ることを拒んだ。彼は「わたしは道です」と言われたが、彼に従ってその道を途中まで歩んだ多くの人が、彼の言葉につまずいて、それ以上先に進むのを拒んだ。
それから、彼は「わたしは命です」と宣言された。この宣言が聞こえるだろうか?彼は命である!彼はこれをラザロの墓の横で宣言されたのではなかったか?彼はこの不滅の宣言の力を、彼の最愛の友人たちに印象付けようとされたのではなかったか?王子である彼の口から発せられたこの神聖な布告を印象付けようとされたのではなかったか?彼らの目は閉ざされていた。彼らは見ることができなかった。彼らの耳は聞くのをやめていた。彼らは聞こえなかった。今日、多くの人が彼を愛しているように、彼らは彼を愛していた。それでも、神の永遠の御子の中に含まれている諸々の可能性に対して、彼らは盲目だったのである。
彼を通して、永遠の富がわれわれの嗣業となる!彼の愛のおかげで、その無限の恵みをわれわれは得られるようになった。しかし、信仰の手を伸ばして自分の嗣業を受け取る代わりに、まるで状況の奴隷、環境の虜であるかのように、われわれは日常生活の些事や普通の仕事を延々と繰り返しているのである!
キリストはわれわれを高く上げて、これらのものを超越させることができる!彼はわれわれを御霊の中で高く上げる力を持っておられる。そのため、必要なものなので、われわれに加えて与えると彼が約束されたこうした「他のもの」は、霊的な事柄の僕にすぎなくなる。それらは神の川の流れに伴うものである。この川は命、命、命であり、われわれの存在を通して流れ、われわれの主の威光と栄光を日々われらに実感させるのである!
命の神秘
ロサンゼルスの近くのグレンデールに「命の神秘」と称されている像がある。この像には、ある偉大な彫刻家の匠の技によって、何人かの代表的人物が配置されている。彼は冷たい大理石の中に、小さな赤ん坊から老人に至るまでの十八人の代表的人物を描いた。そこでは、この人物たちは命の神秘的な流れの周りに配置されており、この流れはこの彫刻の中心から流れ下る本物の水の川だった。
一人の小さな少年が、卵からかえったばかりのヒヨコを手に持っている。その表情には「命って何?」という疑問が浮かんでいる。彼は疑問を抱きつつ年老いた祖母を見上げている。彼女の顔には、わからないという表情しか見られない。それから、そこには恋人たちがいて、彼らは自分たちの愛と親密さの中にその答えを見いだしたと信じ切っている!
向こうに夢を見ている少女がいる。その夢の中で彼女は多くの宝を見つけるが、自分の魂が抱える最大の問題に対する答えは見つからない。それからこちらには困惑した表情を浮かべた科学者がいる。彼のいかなる発見もこの神秘を解かなかったことを、彼は知っている。物質的益と人類の安寧に対する自分の偉大な貢献は、この永遠の問いに対する答えを知性や心に与えていないことを、彼は理解している。
また向こうの方に学識ある哲学者と、自分たちの儀式的宗教を模索している修道僧と修道女がいる。しかし依然として、到達不可能に思われるものに向かって手を伸ばし、探求し、探し求めている。禁欲主義者が沈黙と畏怖と無力さのうちに座しており、その横には絶望の中にある無神論者がいる。
しかし、この川は流れ続ける!この群れのだれもこの謎を解いていない。不思議に思うこの人々のだれもこの問いに答えられない。霊の中で、私は救い主がこの素晴らしい像に近づかれるのを見た。彼は釘で貫かれた両手を伸ばし、その優しい両目に天の愛の光をたたえつつ、この代表的人々の群れをご覧になった。私は彼が御言葉を語られるのを聞いた。その御言葉はすべての疑いを雲散霧消させ、あらゆる暗闇を消し去る言葉だった。悩んでいる各々の霊に、一条の天の光のように舞い降りた言葉だった。
その答えが臨むのは、信条や、何らかの儀式的宗教に関する理解や、倫理的決まりの知的理解にはよらない。カルバリの十字架にかかって、そのような死により、虜とされている人類の解放者となられた御方の姿で臨むのである!
われわれはわれわれの罪のための贖いとしての彼は喜んで受け入れるが、それでも、われわれの復活の命としての彼を受け入れるのをなんと嫌がっていることか!彼がカルバリの十字架上の死によって実現されたこの偉大な取引を、われわれは神学的に信じている。彼がわれわれの罪を担われたことをわれわれは知っている。しかし、彼がご自分の命をわれわれに与えてくださったことを、われわれは十分に自覚しているだろうか?なぜわれわれはそれを受け入れようとしないのか?なぜわれわれは、自分自身の霊の中におられる彼を見いだす代わりに、遠くから彼を礼拝しているのか?われわれの霊は、われわれがそれを知りさえするなら、彼が選ばれた住まいなのである!
光
主の啓示する光の中に生きる時はじめて、われわれは自分の肉のひどさを完全に意識するようになる。エペソ五・十三と十四はわれわれに告げる。「しかし、叱責されるすべての事は、光によって明らかにされます。なぜなら、すべての事柄を明らかにするのは光だからです。こういうわけで彼は言われます、『眠っている者よ、目を覚ませ。そして死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたに光を与えてくださる』」。
他のだれかが「それらの事は間違っている」と言ったからという理由だけでそれをやめるのは、人の法律に適っている場合もあるかもしれない。しかし、それだけでは神に受け入れてもらえない。われわれは何度も、他の人々が「光」と称するものの中を歩いたせいで、無数の束縛を身に負ってきたのである。
主イエスの素晴らしい臨在から発する光だけが、われわれ自身の生活の卑しさや醜さを明らかにする。その啓示は瞬時ではないかもしれない。われわれの聖化と同じように段階的である可能性もある。この御言葉を読んで、このパウロの手紙の文脈を考慮すると、次のことがわかる。叱責が臨むのは、主の臨在の光が有害・暗闇・邪悪なものとして明らかにしたものを、われわれが保ち続ける時だけなのである!
だから、今は選択の日である!彼をわれわれの人生の王として、そして今の自分やなりたい自分の主として戴ける時である。おそらく最後の時である!すべてをわれわれは彼の祝された足下に置く!今は確かに、彼がわれわれを明け渡し――われわれの存在の各部分が彼を全く第一とするようになる明け渡し――へと召しておられる時である。
こうするよう人々を説得しなければならない、というのは悲劇ではないだろうか?これはなんと驚くべき嗣業、なんと輝かしい特権か!主に導かれる人生を生き、聖霊によって支配され、永遠の御父の御座の前に絶えず上げられるのである!彼に守ってもらうのである!心を照らしてもらうのである!われわれの知らない道の中を導いてもらうのである!かつて見たことのない危険から守ってもらうのである!上から生まれた知恵を持つのである!彼と共にあずかる特権を持っているあの聖なる接触から発する、光の照らしを知るのである!
しかし彼が第一にならなければならない!われわれはただ唯一の神を持たなければならない!過去にわれわれを征服して支配した諸々の事柄は、今や支配を譲らなければならない。彼はわれわれの命である!われわれの人生の光である!われわれの知恵である!われわれの救いである!われわれの聖である!われわれの義である!
律法の時代に、魂の回廊中に轟き渡った「あなたはわたしの前に他の神々を持ってはならない」という音色は、今や、港の鐘の呼び声となって鳴り響き、ボロボロの魂を安息の港へと導きつつある!依然として彼は、彼を神とするようわれわれを召しておられる!
彼の豊かな無限の恵みの中に生きる特権を受けている今日、御霊の中に生きる経験、そして、御霊にわれわれの内に住んでもらうという天的栄光を知る経験を、われわれはすることができる!神の御旨と思しきことを行おうとして、過去われわれはどれほど苦闘してきたことか!たびたびどれほど幻滅を味わってきたことか!
われわれが神の御旨を行うことと、神の御旨がわれわれを通して行われることとの間には、一つの違いがある!一方は戦いである!他方は勝利の生活である!あなたが曲がる時はいつでも、あなたは神を見る!あなたがこのような種類の生活を送るとき、自分自身を見つけようとしてもなかなか見つからないことに気づく。なぜなら、あなたは隠されているからである!あなたの命は文字どおり、キリストと共に神の中に隠されているのである!