キリストにある完全

チャールズ・プライス

第一部

「私たちが特に祈るのは、あなたたちが完全になることです。」(二コリント十三・九)

キリスト者の完全!何という主題、何という課題か。それに達した人が誰かいるだろうか?この広大な地の面に、「自分はこの聖書的目標に達した」と証しできる孤高な魂がいるだろうか?安息が保証されている。聖書は達成不可能な経験を教えることは決してないし、われわれが到達できない目標を掲げることも決してない。

キリスト者の完全!そのあらゆる輝かしい麗しさの中にあるのは――神の中にキリストと共に隠されている命である。そのため、われわれがその中に生きている束の間の環境は、これらの永遠の真理の栄光に包まれた芳香しか生じない。これらの永遠の真理は聖潔の麗しさと共に燃え輝くので、遂には天が地上に見られるようになり、主の御声が人々の心の回廊の中に聞こえるようになる。

われわれは十字架の麓に立ち、血によって洗われ、主の恵みによって贖われる。しかしわれわれの前には、キリストにある幼児期という平原を越えたすぐ先に、キリスト者の完全という途方もなく険しい斜面が立ちはだかっている!この山々の山頂はとても高く、雲で見えない。死すべき人の目は、罪深い人の視界から山頂を隠す神の雲を透視できない。しかし、栄光と聖さに包まれて山頂はそこにある。それらは完全という高峰である。パウロが高くまで登り、おそらく雲の上にすでにいて、「私はすでに得たとは考えていません。しかし、後ろにあるものを忘れて、進み続けます」と言った時に、彼が見た山頂である。パウロは目標に向かって進み続けた。手を伸ばし、苦闘し、よじ登った。キリストにある完全という山頂に至るためである。勝利という目も眩むような高みに至るためである。この高みで、人はキリスト・イエスの完全な身の丈に達するのである。

この完全はどうやって可能になるのか?それは、実際的なものというよりは神学的な、転嫁された聖さなのだろうか?われわれに夢を見せて求めさせるために、神がわれわれに与えたものだろうか?しかし、月を求めて叫んでいる子供のように、われわれには決して得られないのではないだろうか?答えを求めて、われわれは自分自身と生来の弱さや妨げる重しから目を逸らして――他者に対する批判や、懐疑的なこの世の冷笑から目を逸らして――霊感されたページに目を向けなければならない。そこに、神の御手が記された答えを、われわれは見い出す。

答えはそこにある――明快、明確である。二重の解釈を許す曖昧な言葉は全くない。明快、簡潔である。私はあなたの心に次の真理を焼き付けたい。神は決して御自分の子らに無理なことをするよう求めたことはないし、努力しても得られない経験を掲げたこともない。われわれの目標は――キリスト者の完全である!

われわれの祈り、希望、嘆願は――恵みと知識において成長することである。知恵と理解力が増し加わることである。「小羊の血と、われわれの証しの言葉によって打ち勝ち」、遂には完全な人、キリストの完全な身の丈に至ることである。

説教者たちはこの主題を扱うことをとても嫌がる。定義するのが困難だからである。例えば、「完全には何も足すことができない」と言う人がいるかもしれない。もし何かが完全なら、それ以上良くなることは不可能である。しかし、神の山々の頂に登って、征服すべき土地はもはやなく、さらなる高みへと誘う頂に将来出会うこともない、という地点に達した人がいるだろうか?「主よ、さらに高みへと導いて下さい」と歌えなくなる地点に達することができるだろうか?というのは、登るべき高地はまだたくさんあるからである。

このような結論によって、われわれは聖書の教えや命令の集中砲火の只中に置き去りにされてしまう。矛盾するように思われる聖書の御言葉の迷宮の中に置き去りにされてしまう。分別ある御言葉の教師なら、人々をそんなところに置き去りにはしない――にもかかわらず、完全について教えられているのである!

もし「完全」を教えるなら、それは経験できるものでなければならない。それでは、完全とは何か?どうすれば得られるのか?「自分は遂に主のこの約束を受け取って、聖書が定義するところにしたがって、また、われわれの愛する主の恵みの境界線の内側で『完全』を経験した」と、われわれはいつ立ち上がって世に証しできるようになるのか?

キリスト者の完全とは何か?

これを読んでいるとき、あなたはすでに、この教理とあなた自身の経験との間の隔たりを感じているのではないだろうか?おそらく数年にわたってあなたは、あなたの主はあなたのためにあなたがかつて受けたものよりも優るものをもっておられる、と信じてきただろう。そして、あなたの心は、狩りで熱したときに心が水流をあえぎ求めるように、神を切望してきた。

あなたは自分の救いを疑っていない。キリストの十字架の力をあなたは知っているからである。「十字架のキリストをあなたは愛している。しかし、あなたは涙声で歌う、『ああ、キリストよ。もっとあなたを愛せますように!』と」。そして、あなたは聖霊の働きによってキリストにあるさらなる高みへともたらされることを待ち望んできた。落胆してはならない。おそらく、あなたは自分が思う以上に、あなたが求めるものの近くにいる。おそらく、あなたは天の辞書によって定義されている「完全」にとても近い。この定義は、しかし、あなたのキリストを拒絶して救い主の愛を何も知らないこの世の冷笑的な解釈とは異なる。

しばらく前のこと、私がキリスト者の完全について説いた説教の後、ある懐疑論者が私に近づいて、「あなたは完全な人ですか?」と言った。私が何と答えたのか、あなたには分かるだろう。「それでは」と彼は尋ねた。「あなたは自分が到達していないことについて説いているのですか?自分が経験していないことを、あなたは決して説くべきではありません!」。どうして説いてはいけないのか?私は一度も天にいたことはないが、天について説いている。地獄を見ることはないと思っているが、地獄について説いている。死んだことは一度もないが――日毎に罪と自己に対して死のうとしていることは別である――復活について説いている。私は私の救い主の栄光と麗しさについて説いているが、顔と顔を合わせて彼と会う日を依然として待っている。

千年王国で御座に着いて統治するイエスについて私は説いているが、あらゆる罪と流血を犯しているこの今の悪しき世が、われわれがイエスを王とする時の平穏に満ちた静けさの中に入ることは確かにない。罪深い人々があざ笑っても、われわれはこの主題を避けるべきではない!議論に答えるのは可能だが、嘲る者たちに返答するのは難しい。キリスト者の完全という聖書的標準を掲げる時、世人や信仰を告白するクリスチャンたちからわれわれが受けるのは、嘲りではないだろうか?

すでに説いたように、聖書は「完全」を命じている。その例を与えており、それに関して約束している。しかし忘れないようにしようではないか。命令する時は必ず、神は適切な恵みを与えて下さるのである。あなたの上に要求が課せられても、あなたのために恵みが用意されていて、あなたがその要求に応じるのを助けてくれる。ハレルヤ、これによりわれわれは勝利する!どの命令の背後にも約束がある!「全世界に出て行って、すべての被造物に福音を宣べ伝えよ」という命令を読め。それからページをめくると、「見よ、私は世の終わりまで常にあなたたちと共にいる」という約束を見出す。

命令がある時は必ず約束もある。約束なしに命令を行うことはできない。ここに命令がある、それを読め。「病人を癒し、死者をよみがえらせなさい!」。しかし、ページをめくってもう一つの面を見ない限り、われわれは無力である。「聖霊があなたたちの上に臨んだ後、あなたたちは力を受けます」。約束が命令を行えるようにするのである!約束がなければ、命令を行うことはできない。キリスト者の完全についても同じである!

もし命令しかないなら、われわれは無力さのうちに座して、「主よ、あなたはあまりにも多くのことを求めておられ、行うのは無理です」と叫んでいただろう。しかし、主が「を受け入れた者、すなわち、御名を呼び求める者に、彼は神の子となる力を与えられた」と言われる時、物語全体が変わるのである!

われわれは服従と献身のうちに膝をかがめて、「主よ、私にこの力を与えて下さい」と祈る。御名をほめよ、主はこれを喜んで行って下さる。その時初めて、キリスト者の完全の意味を明らかにする山々からの光をわれわれは見るのである。

不完全な完全

まず第一に、神の完全さを除いて、あらゆる完全さは相対的なものであることを覚えていなければならない。神の完全さだけが完璧な唯一の完全さである。神の完全さに対して、われわれは何も足すことはできない。ノアは「完全な人」として述べられている。聖書は彼のことをそう呼んでいる。しかし、一、二章読み進むと、彼が「酔っぱらって」恥ずかしい振る舞いをしたのを見出す。アブラハムは「完全」だったと言われているが、それでも彼は何という嘘をついたことか。ヨブは「完全な人」と称されているが、それでも彼はとても辛辣なことを言った。われわれの御言葉のこの箇所では、パウロはわれわれに完全になるよう勧めておきながら、自分自身のことを「私はすでに完全になったわけでも、すでに達したわけでもありません……」と述べているのをわれわれは見い出す。

これは一体何を意味するのか?この人々が完全だというなら、どうしてこの完全さの中から塵のように無価値なものが生じるのか?どうしてこんなにも「不完全」なのか?答えは一つしかない。その答えとは、完全であっても「不完全」でありえる、ということである。ノアは彼の世代の中では完全だった。聖書がそう述べている!その時代、その場所に関して、彼は完全な人だったと称されている。イエスがガリラヤ湖畔を歩かれた時代に人々が知っていた真理を彼は知らなかった。

母親の腕の中にいるあの小さな赤ん坊は、幼児期についての完全なちょっとした例である。その小さな子に傷はない。光輝く健やかさで語りかけて笑う。医者は「この子は完全な子供です」と言う。しかし――まだまだ成長できるのである!成長し続けて完全な人に達しなければならない――父親の身の丈にまで至らなければならない。その完全さは相対的である。現在の幼児期における完全さである。しかし、この完全さは、完全さが増し加わる可能性を排除するものではない。完全さを拡大・増加させて成人に至ることができる。しかし、今日の完全さは明日の完全さではない!幼児期に絶対的完全に至ることができたとしたら、その子はいつまでも赤ん坊のままだろう。だから、「相対的完全さ」といったものがあるのである――神の事柄においては「不完全な完全さ」というものがあるのである。

第二部

今日完全なものも、明日の増し加わった光の中では不完全かもしれない。人は主の御前に跪いて、自分を全く献げることができる。そうするとき、その人の願い・目的・行いはこの世の諸々の罪から分離され、聖められた人となる。私は聖化を信じる。われわれが聖くなること、これが神の御旨ではないだろうか?しかし、このような聖化はその人が「完璧な完全」に達したことを意味する、と思ってはならない。

シナイ山の雷鳴の中で、誰が石板上に律法を記したのか?神ではなかったか?神は御自分の義務を放棄されたのだろうか、それとも、当時最善のものを人々に与えたのではなかったか?間違いを犯すことが神には可能だったのだろうか?そんなことは断じてない!これを書きつつ、私は都の城壁の外側にあった別の山のことを考えている。その山の上で私の主は十字架に付けられたのであり、主はわれわれ全員を救うために死なれた。シナイ山はその当時は完全だった。しかし、カルバリはあなたや私にとって完全だったのである。パウロがヘブル人への手紙を書いた時、彼は「古いものは良かったが、新しいものはさらに良い!」と述べた。

あなたがヨルダン川を渡ると、その土地には巨人たちがいる。エリコの城壁の前で主の軍勢の将の力を見た、取るべき都がいくつもある。今朝、私は夜明けに起きて、東の太陽の朝の光の中を歩いた。それは完全な日だった。私の周りに陽光の最初の黄金の光線が射した。私が歩いてると、太陽はますます高く昇って行き、空はますます明るくなって行った。昼に出かけるなら、早朝の太陽の光の中を歩いた時よりも、さらに多くの光があるだろう。朝の八時の完全な光は、真昼の光の完全さではない。

神の子供よ、落胆してはならない!さらに優ったものに対するあなたの飢え乾きは、過去の呪いではないし、神があなたの生活に指を向けて批判しているのでもない。あなたを引き寄せる神の愛なのである。完全さにおいてさらに成長するように、そして、霊的なあらゆる事柄において増し加わり、遂にはイエスにあって成熟に達し、完全に打ち勝つ命の勝利を知るようにと、主の御声があなたを召している。

重荷を下ろせ

例えば、神の子供は心配する必要がないことを、われわれのどれくらいが学んでいるだろう?明日のことを思い煩ってはならないと、彼はわれわれにはっきりと告げられたのではなかったか?雀たちを世話しておられるわれわれの天の父は、われわれも世話して下さる、と告げられたのではなかったか!心配する人は本当に聖められた人だろうか?その人は罪からは救われているかもしれないが、完全とは自己からも救われるべきことを意味するのではないか?

そう遠くない昔のこと、気難しいおびえた小柄の婦人が集会中に立ち上がって祈りを求めた。彼女は神の聖徒であり、何年も彼女の主と共に歩んでいた。彼女の夫が亡くなって、彼女は世界で一人ぼっちになってしまった。そしてその時まで、彼女は何とかやってきていた。しかし今、抵当に入っている彼女の家を取り上げようとする人が現れた。彼女は助けを求めて「至る所」に行ったが、助けは見つからなかった。彼女は祈り、自分の重荷を主のもとに持って行こうと苦悩した。しかし、彼女は重荷を下ろさなかったのである!その代わりに、彼女は再び重荷を取り上げて、それを教会に持って行った。そして、重荷を持って行っては、また何度も何度もそれを持って行ったのである!

われわれの諸問題を彼のところに持って行って、「主よ、これについて私には何もできません。あなたに信頼する以外に何もできません。そして、私はそうすることにします」と言う学課を、なぜわれわれは学ばないのか?その集会の後、私は彼女と少し話をした。彼女の神経質なヒステリーは彼女が信頼するすべを忘れている印であること、眠れない夜のせいで彼女は肉体的・霊的に消耗しつつあることを、私は彼女に告げた。彼女を愛しているキリストについて、そして、世界のいかなるものよりも確かな諸々の約束について、私は彼女に告げた。彼女はしばらく泣いていたが、その後、自己の終焉に達した。彼女は跪いて、自分の諸問題をきっぱりと主に委ね、重荷を下ろした。歌いつつ彼女は家に帰り、次に私が彼女に会った時、彼女は自分の物語を私に話してくれた。

強欲な金貸しが定められた時に彼女の家にやって来た。そして、微笑んでいる神の子供が自分を待っているのを見出した。彼女は金を集められなかったことを彼に告白し、「あなたが何をすることを望んだとしても、私はそれを受け入れます」と言った。彼女の平安は彼を困惑させた!彼女の微笑みは彼の居心地を悪くした!最初、彼は彼女の告白を疑った。彼女の心配が消え失せていたからである。それは罠である、と彼は思った。そこで、彼女は何が起きたのかを彼に告げた。彼女は重荷を担って下さるイエスについて彼に告げた。御自分の子らに対する御父の顧みについて告げ、そして、心配していた自分の罪について、また、心配のせいで喜びを奪われることをどのように許容していたのかを告げた。それから、祈ったところ、イエスがどのように彼女の重荷を負って、彼女をして歌わしめて下さったのかを告げた。貸し手が目前の問題について彼女に思い出させたところ、「神の子供はこのような時こそ主を信頼するべきです!」と彼女は答えた。

休むことには報いがある

話している時、彼女の目には涙が光っていた。その後、彼は彼女に、自分が少年だった何年も昔のこと、自分は主イエス・キリストを自分の救い主として知っていたことを告げた。月日がたつにつれて、彼はさまよって行き、彼の心は冷たく頑なになって行ったのだった。そこで彼は中断し、彼らは跪いて祈った。立ち上がった時、彼は微笑んで自分の手をポケットの中に入れ、借用証書を彼女に向かって食卓の上に広げて言った、「あなたは私に一つも借りはありませんが、私はあなたに借りがあります。自分には金が必要だと私は思っていましたが、自分にはそれ以上にキリストが必要であることが分かりました」。おそらく、帰りの道すがら、御声が「これらの私の兄弟たちの最も小さな者の一人にしたことは、私にしたのである」と内側で語るのを彼は聞くことができただろう。そうかどうかは定かではないが、私は次のことを確かに知っている。次の時に私が彼女に会った時、彼女は心から歌っていたのである。

「この世があなたに
 金銀を与えず、
 あなたが僅かな食物で
 暮らさなくてはならなくても、
 御言葉を思い出しなさい。
 彼がどのように小鳥たちを養っておられるのかを。
 あなたの重荷を主のもとに持って行き
 それをそこに下ろしなさい!

完全さの中で完全に向かう

友よ、思い出そうではないか。あなたは完全さの中で完全に向かって成長しているのである!今日のあなたに対する神の最善であるものは、必ずしも明日のあなたのための神の最善とは限らない。われわれの御父には、さらに追い求めるべきものが常にある。われわれは自分のさらなる必要を悟る、というのはそうではないだろうか?神にあってわれわれはさらに豊かに、強く、深くなるべきである、というのはそうではないだろうか?御言葉の乳は赤ん坊の時には完全だが、御言葉の肉は成長・成熟しつつあるクリスチャンを待っているのである。

忘れないようにしようではないか。われわれが「肉」で養われるのは、われわれが成熟に達したからではなく、われわれが成長して成熟に至る助けとなるためである。神の「肉」がわれわれに与えられるのは、われわれがすでに到達しているからではなく、到達する力を与えるためである。御霊に満たされている平均的な教会が犯している大きな誤ちは、それが過去の経験と達成の中に生きていて、それをあまりにも誇っていることである。われわれも個人的に同じ過ちを大いに犯している。諸々の事柄、過去の経験や達成、教理や教義が、たとえ良いものであって神からのものだったとしても、神の御旨におけるそれらの地位や役割は、キリストにある成熟と比べるとおもちゃのようなものである。

私を誤解しないでほしい!聖徒たちの野外集会で勝利の叫びを聞くことや、主の栄光を見ることが、私は好きである。しかし、私はまた知っている。悪しき日に際して立つ助けをするには、叫び以上のものが必要である。われわれの救いの神を堅く信じつつ、燃える炉の中に歩いて入るのに十分な恵みを受けるには、感情的興奮以上のものが必要である!

主が「私に従いなさい」と仰せられるのを初めて聞いたとき、それはペテロにとって素晴らしいことだった。それは青いガリラヤ湖の近くで、三年半前のことだった。「そこで彼は自分の網を置いて従った」。恵みによる何という冒険!夢にも思わぬ、何というイエスとの歩みと会話。その真意はなおも「従う」ことだった。ガリラヤから麗しの山まで、カペナウムまで従うことであり、なおも「従う」ことだった。イエスが逆巻く絶え間ない波の上を歩かれた海へ、エルサレムへ、ベタニヤへ、さらに先にまで至った。変貌の山に至った……それは完全な日であって、その中で彼らは主の完全な栄光を見た。しかし、依然として先に進み続けたのである。残りの生涯そこにとどまって三つの幕屋を建てるべきことを彼らは確信していたにもかかわらず、イエスは彼らをあの完全な朝から、御自分が「カルバリ」と称されている別の山を登るさらに完全な日へと導かれたのである!

ペテロに対する「私に従いなさい」がもう一回あった。それはイエスが別れを告げている時のことだった。その時、彼は漁師の弟子たちに、ペテロが遠いローマで遂げる死について話された。彼はペテロに、「他の人があなたに帯を結び付け、肉が恐れおののく所に連れて行きます」と話された。しかし、真意は依然として「従う」こと、「従い続ける」ことだったのである!

絶え間ない増し加わり

われわれはこの学課を学ばなければならない。われわれは御霊でバプテスマされて、「自分は切り抜けた」と言う。「あなたは昨晩切り抜けましたか?」と、私は何と頻繁に聞いてきたことか。それに対する返答は常に「はい、切り抜けました!」なのである。何と悲劇的なことか。何と悲しいことか。彼らは切り「抜け」たのではなく、中に入ったにすぎない。彼らに対して啓示が示される人生が始まったばかりなのである。

イエスはなおも「私に従いなさい」と言っておられる。私はあなたに言いたいのだが、イエスについて行くには真の献身が必要である。もしあなたが真に従うなら、あなたは一度も夢見たことのない成長と発達を遂げるだろう。そして、この過程は肉と自己の磔殺を意味し、あなたが御霊でバプテスマされたのち長く続くだろう!

あなたはヨハネが好きではないだろうか。その優しくて憐み深い霊が好きではないだろうか!彼は自分の頭をイエスの胸に寄りかからせて長い時間を過ごしたため、キリストの心から溢れる愛をたくさん吸収したにちがいない。にもかかわらず、彼がパトモス島に上陸したとき、おそらく、その偉大な心の中に、疑いと恐れの影が忍び込んでいたことだろう。いずれにせよ、彼は自分のことを「苦難に与る者」と呼んでいる。これはこの老人にとって苦難に思われたに違いない。ヨハネの心はエペソにある教会と共にあったが、その体はその流刑の島で呻いていたのである。

その時、イエスが語られた。……そして、この愛されている弟子は栄光の中へと上げられた。そのとき、御父は御手で青い幕をつかんで、歴史上初めてそれを開き、一人の人が遠く離れた世界の栄光を大いに目にすることを許されたのである。

絶え間ない成長

今日、キリストにあって完全であろうではないか!キリストに完全に信頼し、その御旨に全く服し、自分の肢体を従わせて、自分は死んでいると見なそうではないか。そして、この過ぎ行く時の中を歩むとき、われわれの魂と救い主との間に何も妨げがないようにしようではないか。罪から分離されて神へと聖別されつつ、御血によって清められて御霊で満たされる生活の聖さを知ろうではないか!今晩太陽が沈む時、あなたの足が今日示された最高峰の上にあるなら、主の中に安息して、その恵みのゆえに主を賛美せよ!翌朝目覚めた時、あなたは早朝の霞の中にうっすらと見える、さらに高い新たな山に直面するだろう。そして、「私に従いなさい」となおも召しているイエスの御声を聞くだろう。それに応えてわれわれは自分を献げて歌う、

「主が私をどこに導かれても、私は従います。
 私は主と共にどこまでも行きます!」

私が思うに、明け渡された、全く聖められた心はこう叫ぶだろう。「兄弟たちよ、私はすでに到達したとか、すでに完全になったとかいうのではなく、追い求めているのです……。私はすでにとらえたとは思っていません。むしろ、この一事に努めています。すなわち、後ろにあるものを忘れて、前にあるものに向かって身を伸ばしつつ、キリスト・イエスにあって神が上に召して下さる賞を目指して進んでいるのです」。

「主よ、昨日のゆえにあなたに感謝します。私の魂を救って下さって感謝します!あなたの導き、愛、顧み、恵みのゆえに感謝します。あなたなしでは私は生きていられなかったでしょう!しかし、祝されたイエスよ、私の手を握って下さい。明日のことは私には分かりません。喜びが来るのか、それとも痛みが来るのか、私には分かりません。昨日は豊かな日でした。そしてそれゆえ、愛する主よ、私は感謝します。しかし、今日さらに豊かになり、明日はさらに豊かになることも可能なのです」。

日々、われわれはイエスと共に歩む。彼は御自身の麗しさと恵みをますます啓示して下さる。そして、この絶え間ない啓示の絶頂は一つしかありえない。すなわち、われわれの御父の家の住まいで彼とまみえる日である!だから今日、彼にわれわれの中で御自身の命を生かし出してもらおうではないか!

昨年赤ん坊だった者は、成長して今日若者になる。だから成長しようではないか!キリスト者の完全において成長しようではないか。恵みと知識において成長しようではないか。愛と憐みにおいて成長しようではないか。信頼と確信において成長しようではないか。彼は決してわれわれの期待を裏切らない。決してわれわれを落胆させない!

成長するとき、「おもちゃ」を捨て去ることを覚えておこうではないか。おもちゃが役に立つ時もあったが、成熟した人の手にはふさわしくない。われわれが大人になる時、われわれは子供っぽいことを捨て去る。このためにわれわれは祈る、われわれが完全になることを祈る!このために私の魂は神に向かって身を伸ばす。そして、過ちや失敗にもかかわらず、私は依然として私の救い主に、「キリスト者の完全の道に沿って日毎にあなたと共に歩むこと以上に私が望んでいるものは何もありません」と言い続けている。

何という特権、しかし、特権には必ず義務が伴う!しかし、特権なくして義務はない。私は恐れていないし、あなたも恐れるべきではない。なぜなら、明日は必ず来るからである。私の主の一つの恵み深い点は、主がわれわれの今日と明日の道に沿ってわれわれを導かれる時、主はわれわれの昨日を忘れる素晴らしい能力を持っておられることである。

彼にあって、われわれは絶えず新たに出発することができる。主の子らは自分たちの目標に向かって一度に一歩ずつ進む。この道の終わりに待っている約束された栄光について、われわれは知っている。しかし、主はわれわれを献身の祭壇から引き上げて、われわれを「魔法の絨毯」に乗せ、われわれの旅の出発点から終着点まで運んで下さる、と信じるのは誤りである。もしそうだったなら、この道を行くときにわれわれを待っている信頼と信仰の素晴らしい学課をわれわれは決して学べなかっただろう。神はイスラエルをエジプトでの隷属という砂地から引き上げて、その数分後に、約束の地に定住させることもできた。彼らが到着した時、一息で彼らの敵を滅ぼして、その国からアナクの子らを除くこともできた。しかし、それは神の道ではなかったのである。

日毎の信頼

前に向かって前進することと日毎の必要のためには日毎の信頼が必要である。無力さを感じてわれわれは主の臨在を叫び求める。紅海を渡ることができるのは、ただ主の御力による。マラはエリムと同じように必要である。雷鳴と律法とを伴うシナイ山は、エリコの壁が崩れ落ちた時の勝利の叫びと関係していた。一度に一歩、これが神がその愛する子らを導かれる道である!それは辛い道ではない。なぜなら、夜は火の柱、昼は雲の柱があるからである。神が望んでおられるのは、一度に一歩進むことだけである。

神がわれわれを導いて通らせる谷は、谷の終わりでぼんやりとわれわれの前に現れる山と同じくらい必要なものであることを、どうしてわれわれは学ぼうとしないのか?力を尽くして主に信頼し、自分自身の理解力に頼らない人には、「自分の歩みはすべて主によって命じられたものである」と断言する権利がある!

「豊かな素晴らしい日陰の牧場を縫って
 主はその愛する子らを導かれる。
 冷たい水の流れの中に疲れた足を浸せる所に
 主はその愛する子らを導かれる。
 水の中を通る人もいれば、洪水の中を通る人もいるし、
 火の中を通る人もいる。しかし、皆が血の中を通る。
 大きな悲しみの中を通る人もいるが、主は歌を与えて下さる。
 夜の時期も、また昼の間も。」

この学課を学ばない限り、誰も完全さにおいて成長することはできない。人の典型的願望にしたがって「完全な生活」を送ろうと空しくもがくことより、主に信頼することの方が遥かに優っている。

フライブルクの古代の大聖堂の中に一人のオルガン奏者がいた。彼は自分の楽器を妬むほど愛していたので、年老いた管理人に「自分以外の指を鍵盤に触れさせてはならない」と指示した。彼は自分だけがペダルや音栓を管理することを願い、「この心ときめく偉大な楽器は自分のものである」と何度も主張した。そして、妬み深い配慮をもってその楽器を守った。

ある日のこと、管理人が教会を掃除していると、一人の老人が中に入って来て、管理人と会話をした。話しつつ、彼らはオルガンに近づいて行った。そして、そのよそ者は静かに椅子に座り、その指で音栓を引き抜き始めた。教会の管理人は自分に与えられた命令を承知していたが、そのよそ者に魅了されて止めようとはしなかった。

主の接触

その時、その指が鍵盤を押し始めた。自分の赤ん坊を優しくなでる母親の手のような愛情をもって、その指は鍵盤をなでた。すると、この偉大な楽器の管から旋律が流れた。古い大聖堂はその旋律で鳴り響いた。まるで交響曲の海のように、その旋律は高低を繰り返した。「このような音楽はこれまで聞いたことがない」と建物が言っているかのように思われた。そのよそ者は弾き続けた。そして、音が止んだ。轟音はおさまった。老人は演奏台から降りた。ゆっくりと老人は大聖堂の後ろの方に歩いて行き、そして止まった。そこに、命令を破られたその教会のオルガン奏者がいて、頭を垂れていたからである。彼がそのよそ者に話しかけた時、その眼には涙が浮かんでいた。「あのオルガンに他の人が触れるのを私は一度も許したことがありませんでした。私の指以外の指にその鍵盤に触れてほしくありませんでした。しかし、あなた様にもっと弾いていただけると有り難いです。拝聴することは無上の光栄です。あなたはこの町の方ですか?」。その老人は「そうです」と答えた。「お名前を聞いてもよろしいですか?」。

その老人はゆっくり遠ざかって、「私の名ですか?私の名はメンデルスゾーンです」と小声で言った。

あなたの人生から極めて甘美な旋律を生じさせることのできる、あなたの指ではない指がある。釘で傷ついたキリストの御手が心と霊の琴線に触れるとき初めて、神の旋律が人の人生の中に響き始めるのである。

自分からのものは何もない

キリスト者の完全!死すべき存在である哀れなわれわれが、何らかのことで完全になれるのだろうか?もし自分の良い働きによってそれを試みたり、自分で達成した義に信頼したりするなら、確かに不可能である。罪と自己に対する勝利の秘訣は、自分は何もできないこと、心の扉を広く開いてガリラヤ人なる御方を招き入れることしかできないことを悟ることである。

その時、日々、御旨に服するにつれて、瞬間毎に、恵みを求めて彼に信頼するにつれて、キリストの命がわれわれにおいて、また、われわれを通して現れるようになる。その時初めて、われわれは真に彼の弟子であると言えるようになる。キリストだけが、われわれの内でキリスト生活を送ることができる。われわれにはできない!人生を麗しいものにするのは、彼の内住の臨在の麗しさである。彼は聖潔という霊的恵みを分け与えて下さる聖なる御方である。彼はわれわれの知恵ではないだろうか?われわれの聖別ではないだろうか?これらすべてが素晴らしい点は、彼に内に入ってもらう時、われわれは彼の完全さを得ることができるということである!自分の心と命をイエスに完全に明け渡すその日、人は完全になる!その時、降伏して明け渡された心と体を通して、キリストの命が流れ始める。そして、われわれの存在の全ての経路が、生ける水が流れる川床となる。これにより心は喜び、罪と自己に対する勝利が与えられる。

この命を与える流れの中で、われわれの疑いや恐れはすべて洗い流される。彼は吹き荒れる嵐をわれわれから取り去ることはなさらないが、その嵐の中で御自身の平安をわれわれに与えて下さる。彼はわれわれの試練をすべて除くことはなさらないが、それを乗り越える恵みをわれわれに与えて下さる。この勝利は御力を証明する二つの証拠であり、自分の明日を恐れる邪悪な恐れを永遠に除き去る。われわれは彼を良しとし、彼もわれわれを良しとされる。彼はわれわれを吟味し、われわれも彼を吟味する。われわれが火の中を通り抜けて、その臭いや煙もない時、われわれが主を保つ時、主は常にわれわれを保って下さることを、われわれは証しすることができる!

これが完全の秘訣である。彼の完全さにあって今日完全になる秘訣である!明日、彼に従ってそれまで知らなかった道に入る機会は全くない、ということではない。むしろ私は言おう。さらに豊かで深い神の事柄の中へと導く新しい道、新しい小経が、完全な献身と明け渡された意志の道を彼と共に従順に歩む者たちに拓かれるのである。

彼がわれわれを御父にささげる時が来るまで、追い求めるべきさらなるものが常にある。これは結局のところ、喜ばしいことではないだろうか?さらなる愛、さらなる恵み、さらなる平安、さらなるイエス、さらに知るべきことやさらに学ぶべきこと、さらに見てさらに聞くべきことがあるのである。依然としてさらに追い求めるべきものがあるのである!

もし今日の完全が明日のわれわれの完全でもあったなら、おそらくわれわれは霊的に怠けて、恵みの各々の手段を無視してしまうだろう。われわれは「とらえて」いただろう。「達成」していただろう。そして、恵みにおいて成長する可能性という道の終点に達して、われわれは希望の中に生きるよりは記憶の中に生きていただろう。だから、今日は新たな開始なのである!彼がどこに導くのか、われわれには分からない。彼の素晴らしさのどんな新しい幻が心を喜びで満たすことになるのか、われわれには言えない。一つのことはわかっている。彼は幸いな驚きに満ちているので、われわれは彼の御業に対する驚嘆と驚きに満たされるのである。

静まれ

主が弟子たちと共に逆巻くガリラヤの海にいた日のことを、われわれは良く覚えている!信頼するすべを知っていてしかるべき人たちが上げた恐怖の叫びで、主がどのように目を覚まされたのか、あなたは覚えていないだろうか?それから、主はその揺れる船の舳先に歩いて行き、激しい嵐を見据えて、「静まれ」と語られた。すると、嵐は主に従ったのである。それで、弟子たちは素晴らしいことを述べた。彼らは驚嘆した。彼らはこのようなことをかつて見たことがなかった。彼らは主が病人を癒されるのを見た。病と痛みは主の御言葉で消え去ることを知っていた。イエスが語られると、暗闇は光に変わることを知っていた。主が命令すると、罪の重荷は取り去られることを知っていた。しかし、ここには何か新しいものがあった!彼らはかつてこのようなものを見たことがなかった。だから、彼らは叫んだ、「風や海さえも従うとは、この人は一体何者なのだろう?」。まるでこう言っていたかのようである、「主が為せることには終わりがないのだろうか?その御力に限界はないのだろうか?主が命令すると風は吹くのをやめ、嵐の海も逆巻くのをやめる。主は次に何をなさるのだろう?」。

あなたはこのように感じたことがないだろうか?主は恵みであなたを驚かせたことがなかっただろうか?その無限の愛であなたを驚嘆させたことがなかっただろうか?主は常に予期せぬ事を行っておられ、しかも、それを極めて驚くべき方法でなさるのである。

キリスト者の完全!自分は弱い、とあなたは言うのか?「あなたたちが弱い時、あなたたちは強い」と主は仰せられる。主の強さはわれわれの弱さの中で完成される!あなたは必要を抱えているだろうか?飢えている人だけが食卓に行って養われる。乾いている人だけが井戸に行って、そこでイエスが待っておられるのを見出す。自分にはあまり価値がない、とあなたは言うのか?階段の下にいた取税人は、イエスの基準によると、階段の上にいたパリサイ人よりも遥かに「完全」だった!だから、落胆してはならない。今日、自分の全てを彼に明け渡せ。心を尽くして彼を愛し、完全に黙々と彼に従え。そうするなら、「今日の完全」が梯子の完全な横木となるのである。

キリスト者の完全という彼の梯子を、われわれは完全な横木を一つずつ登ることによって登ることができる。何をするにせよ、「それは完全である」という理由でどれか一つの横木にとどまることに固執してはならない。そうするのではなく、登り続けよ。この数々の横木は道中常に完全である!頂上の横木に近づくにつれて、あなたはハレルヤ合唱曲の天の旋律が聞こえるようになるだろう。それは連綿と続く長い「完全な」日々の中でも最善の日となるだろう!

「日々、私の命令に従いなさい。
 私が導くところに、従順に従いなさい!
 私に従うことだけを求めなさい!
 私の意志の中にあなたの意志を失いなさい。
 質問してはいけません。地位を求めてはいけません!
 どんなに慎ましい仕事でも喜んでしなさい、
 私の真実さと恵みとを示しつつ。」