一.信仰の挫折

チャールズ・プライス

教会やこの世が信仰の諸々の要素を幾らか持っていたように思われる時のことを、われわれの大部分は覚えている。ビクトリア時代の終わりと共に、教会は宣教の精神で満ちたように思われた。キリスト教圏の偉大な宣教者たちが神の諸々の真理を響き渡らせた。そして村の教会堂だけでなく国の大聖堂でも、礼拝者たちは神を信じる信仰で活気づけられた説教に耳を傾けた。

この一大宗教改革に続いた宣教者たちは、ずっと昔に亡くなったものの、彼らに続いた人々の生活の中に生き続けてその影響力を及ぼし続けた。彼らは教会行政の問題や、教理解釈のいくつかの事例では異なっていたかもしれないが、みな「われらの祖先の信仰」を力強く歌うことができたし、この偉大な基礎の上に一人の人のように共に立っていた。

この教会の影響力をキリスト教圏中が感じた。事実、その宣教の力は日の下にあるすべての国に影響を及ぼした。神の年代記の中で、それは疑いなくフィラデルフィアの時代だった。それがフィラデルフィアの教会であることに、疑問の余地はなかった。それは使徒たちの時代以降、それに先立つどの時代にもまして、信仰復興、海外宣教の企て、都市伝道の開始、路上集会――そして積極的奉仕の他の手段――に大きく貢献した時代だった。

傑出した信仰の人々の名が、天の星々のように輝いている――彼らは神の真理のたいまつであり、燃えるようなインドの砂地を渡り、中国の万里の長城を越え、アフリカの暗いジャングルを突っ切り、すべての大陸と海のすべての島々で十字架の旗を掲げた。それは積極的キリスト教の時代だった。聖霊が、保証としての奇跡により、主イエス・キリストの御名の中で素晴らしい偉業をなすよう、数千の十字架の兵士たちを鼓舞された時代だった。要するに、それは信仰の時代だったのである。神はそれを「フィラデルフィア」と呼ばれた。

その後、洪水がやって来た。巨大なダムの壁が決壊したかのように、不信仰、疑い、恐れの洪水が波立ち、荒れ狂い、抗し難いほどの力で流れて吠え猛り、その巨大な流れですべての人や物を運び去った。この世でも教会でも、誰も逃れられなかった。例外は、霊的な高台に登った人々だった。彼らは狼狽しながら、また砕けた心で、自分たちの足下のこの荒れ狂ってうねる水を見つめた。

自分たちが過去の年月の奉仕を通して建て上げてきたものが、ダンボールの家のように、この嵐の猛威を前にして崩れ去るのを、彼らは見た。理想、道徳基準――祖先の信仰――は、みな無慈悲にも、この嵐に乗ってラオデキヤという平原に、あるいは無神論や不信仰という暗い谷の中に運び去られた。

この時までは、この世にすらある程度信仰があった。決して教会に入ったことのない人々でも信じていた。幾人かのボルテールや、二、三のトマス・ペインはいたが、市井の平均的な人々は、たとえ救われていない人でも、神を信じていたし、救いの力を認めていた。諸教会には人々がよく集まっていた。人々が歌う詩歌は福音の真理で脈打っていた。祈りは熱烈だった。この世のすべてがうまくいっているわけではなくても、神はご自分の天におられることを、ほとんどすべての人が信じていた。これは、もちろん、この洪水の前のことである。

とても多くの人は、この教会の倒壊を世界戦争(第一次世界大戦――編集者)のせいにしている。特に、教会の中の平均的な人々や霊的な事柄における信仰の挫折をそのせいにしている。世界大戦はまぎれもなくその絶頂だったが、それに先立つ多くの要素がそれに寄与した。しばらくの間、霊的な悪に対する戦いが天上でなされていたのである。

不可知論者のトマス・ペインは、それを理性の時代と呼んだ。ハックスレーは、その科学的心変わりにより、彼の知的観念という大剣で信仰の要塞を攻撃した。ダーウィンはわれわれに彼の「種の起源」を与えた。彼は教会の大部分や多くの科学者から嘲られ非難されたが、自分の理論について考え続け、遂に致命的影響を及ぼし始めた。人間生活という戦場でささやかな敗北を喫したことは何回かあったが、教会は長きにわたって自分の立場を守ってきた。

諸々の大学がこの戦いの中に入った。そしていわゆる教授たちが、最初に、自分たちの悪魔的・非合理的教えをほのめかし始めた。そして暗示により当時勃興しつつあった世代を堕落させようと試みた。その少年たちは、史上最大の戦争の戦場で砲弾の餌食になる運命にあった。心と知性の中にその種が植えられてきたが、まだ完全な実は結んでいなかった。種を蒔いたら刈り取らなければならない。これが永遠の神の基本法則である。それは何と恐ろしく悲劇的な刈り取りだったことか!

教会は平和と安全を説いてきていた。世の哲学者たちは、われわれは高度に文明化されているので戦場で殺しあうことなどありえない、と宣言していた。私はハーグの平和宮に行ったことがある。その廊下を歩いて、世界の国々がそれを飾るために寄付した物を見た時、壁のその絵画たちが私を笑っているように思われた。諸々の本(その数千の本は国際平和の主題に関するものだった)は私を冷笑しているかのようだった。しかし、それらの本は同じ棚の中にあったのだが、そこには砲術練習生の轟音と、行軍の足音が鳴り響いていたのである。新聞と講壇は手を握って、戦争は無法であり文明世界はそれを決して許さない、と共に宣言した。しかし、いわゆる文明世界は神を忘れていたのである。

理性が魂の園の中から信仰の花々を根こそぎにして、その場所に疑いと不信仰のイバラとアザミを植え付けていた。その後、最終的な大災害がやって来た。夏の日の微笑みの下で眠りについた世は、戦いの神の咆哮と猛威によって目覚めさせられた。その戦いが終わった時――数百万の遺体が埋葬された時――フランスの緑の野が真紅に染まった時―― 一つ以上の古代都市の大聖堂が破壊された時――やもめや孤児やホームレスの叫びが世界中に響き渡った時――キリスト教圏の残った成年男子たちは足を引きずりながら家に戻って来た。その日から、別世界になった。苦々しさが心の中に、不信仰が魂の中に宿った。「もし神がおられるなら、どうしてこんなことを許せるのか?」と彼らは論じた。

文明の外見の下に、彼らは人の野蛮な本能を見た。そして、「ダーウィンは正しかった。神はわれわれの父ではない――われわれの祖先は類人猿である」と述べ始めた。一人以上の人の顔の上に、彼らはゴリラの唸り声を見た。血の中に浸って、このように有害な憎悪を経験した世界は、創世記に記録されているような、永遠であり全能である神の御旨によって創造されたものでは決してありえなかった。創世記を投げ捨てて、彼らは自分自身の誤った観念の空間の中を行き巡った。こうして、状況は悪いものからさらに悪くなったのである!

戦争世代の若い成年男子や若い成年女子がこのような思想や感情を心に抱き始めたのは、大いに悪いことだった。教師たちがそれを公立校に持ち込んだのは、さらに悪いことだった。しかし、それが講壇の階段を登り、人の口を通して、神を礼拝するためにやって来たはずの会衆に語り始めた時、それは悲劇的であり冒涜的だった。

人類の諸問題の一つは、時としてあまりにも怠慢で自分自身で考えないことである。われわれは他の誰かがわれわれのために造った自動車に乗る。多くの若者は田舎道を時速七十五マイルで突っ走るが、内燃機関の原理や、駆動軸やギアのピストン運動に対する関係については全く何も知らない。多くの人が他人が造った信条という車に乗ろうとするが、自分が乗る機械について何も知らない。

かつては教会だったが、今では堕落して社交クラブや科学の学術団体になってしまったものの講壇の階段を説教者たちが登った時、人々は彼らの教えを吸収し始めた。なぜなら、自分たちに代わって説教者たちに考えてもらうことに慣れっこになっていたからである。この状態は、前に述べたように、一夜で生じたのではない。不信仰と暗闇の勢力が長年にわたって教会を計画的に攻撃した結果だったのである。

永遠なる神の御子ご自身が、歴史の回廊を見下ろしてまさにこの時代・時を見つめ、こう問われた。

「人の子が来る時、地上に信仰は見いだされるだろうか?」。この問いが示唆する答えは、もちろん、否である。しかしこれが意味するのは、信仰が地上に全くなくなるということではなく、信仰のほとんどがなくなるということである。かつて教会が持っていたものを、いずれにせよその大部分を教会は失ってしまった、とそれは告げる。

これはルカ一八・一~八の文脈からわかる。祝された主はこの御言葉の中で一人のやもめについて述べておられる。そのやもめは裁判官に何度も何度もしつこく懇願したので、とうとう裁判官は彼女の仇に復讐してやった。ガリラヤ人なる御方の口から発せられた論拠は次の通りである。すなわち、もし地上の裁判官が、一人の婦人が何度もやって来て自分に懇願するからという理由だけでそうするなら、われわれの天の父は、信仰の欠如と霊的衰退の時代――これがイエスの再臨に先立つ――の中でも彼に対して忠実な小さな群れのために復讐してくださらないことがあろうか、ということである。

神に感謝せよ、信仰がいくらか残っているのである!イエスの再来に先立つ霊的エクレシアがある、というこの偉大な事実のゆえに神に感謝せよ。それは、われらの愛する主が最初に肉身をとって地上におられたその直後に、召し出された団体が生じたのと同じである。

このように洪水がやって来た。このように理性がわれわれの学校や大学で王位につき、信仰を投げ捨てたことがわかる。このように、当代の現代的説教者を責めるよう御霊によって導かれているように私は感じる。彼らは栄光の王に対して極めて反逆的であり、数万人の人々を霊的に暗殺しているのである。

こうして、教会を信じる信仰を失った世を悪魔は笑っている――生ける神を信じる信仰を失った教会を嘲っている――そして両者を自分の燃える永遠の領域に招き寄せている。こうして、日曜劇場は混雑し、説教者たちは空っぽの会衆席を見つめながら、手を握り締めて「どうすればいいのだろう?」と叫んでいる。こうして、自動車のサイレンが教会の鐘の音を掻き消し、高速道路はいっぱいなのに、神の家はほとんど空っぽである。

こうして、教会はフィラデルフィアの頂上から山腹を転がり落ちて行き、遂には、傷つき、打ちのめされ、血を流しつつ、ラオデキヤの暗い悲惨な谷間に落ち込んだ。これを見る時、天使たちはその羽でその顔を覆う。

しかし、この物語には別の面もある。そのゆえに神に感謝せよ!イエスは処女から生まれたことを信じる説教者たちがまだ数人いるのである――私はその一人である。救いはイエスがカルバリの十字架上で流された血によることを宣言する聖職者たちがまだ数人いるのである――私はその一人である。

ダニエルがライオンの巣の中に入れられたことや、ヨナが大魚に呑み込まれたことを信じているがゆえに、愚か者、間抜け、馬鹿者と呼ばれることを厭わない人々がまだ幾らか残されている。私はその一員である。再暗黒の夜の彼方に光を見ていて、千年期の夜明けを宣べ伝える大胆さを持っている、福音真理の布告者がまだ数人いる。私はその聖なる群れに属している。

これが、私がこの本を書いている理由である。こういうわけで、私は祈る。どうかこの本が高校生の少年少女たち、若い男女、人生のたそがれ時に近づきつつある年老いた男女の手に渡りますように――そして、彼らが自分たちの祖先たちの信仰にしがみつくよう、この本が助けと励ましとを与えますように。

どの雲にも明るい面がある。われわれの時代の暗い影の背後には、光の衣が隠されている。

ジェイムズ・ラッセル・ローウェルは、彼の詩「現在の危機」の中で、次のように述べている。

この大いなる復讐者はきりがないように思われる、
しかし、歴史のページは記録する、
暗闇の中の一つの死闘と、
常に処刑台の上にある真理と、
常に王座の上にある悪を――
しかし、この処刑台が未来を支配する。
そして、この知られざる薄暗がりの背後で、
神はその影の中に立っておられ、
ご自分のものを見守り続けておられるのである。