二.信仰の意味

チャールズ・プライス

数世紀もの間、人々は信仰を定義しようとしてきた。辞書や百科事典はわれわれに諸々の定義を与える。しかし、そのどれも何かが欠けている。その何かとは聖霊の臨在である。聖霊の照らしの力がなければ、いかなる人も信仰の意味を理解できない。

ヘブル人への手紙の一一・一で、聖書は信仰を二重の方法で定義している。この御言葉は、信仰は「望んでいる事柄の実体」「見えない事柄の証拠」であると告げる。これは、アラビアの砂漠のどこかで三年のあいだ神と共に隠遁した人、そして三十年のあいだ御霊によってクリスチャン経験と生活に関するいっそう深い啓示の中に導かれてきた人の定義である。

再生されていない人がパウロのこれらの言葉を理解できないのも不思議ではない。人々の大多数が彼らの思考の測鉛線をこれらの偉大な真理の深遠なる深みに垂れることができないのも奇妙ではない。実際のところ、信仰はとても広大な領域を網羅して、多くの方法で働くため、それを二十世紀の言葉で定義するのはほとんど不可能である。しかし祈ろうではないか。どうか聖霊がわれわれの心と思いを照らしてくださり、われわれの人間的制約のせいで決して感知・理解できないこれらの事柄をわれわれに啓示してくださいますように。

まず第一に、信仰は証拠に基づいて知性が納得することである。信じる根拠を与えずに何かを信じるようわれわれに求めることを、神は決してなさらない。神は決して嘘を信じるようわれわれに求めない。だから、われわれは決して嘘を信じない。神はわれわれに真理を与えてくださる。何に信仰を置くべきか、神はわれわれに教えてくださる。「来て、共に論じようではないか、と主は仰せられる」が、聖書のすべてのページに見いだされる真理である。信仰には、根拠となる基礎がなければならない。事の性質上、信仰が働くには何らかの理由がなければならないし、信仰が現わされる何らかの根拠が必要である。

とても多くの人々は、思い込みと信仰の違いを一度も理解したことがない。思い込みは証拠なき信念であり、信仰は証拠と共に働く信念である。

私が言わんとしていることを例証することにしよう。数年前、私がカナダのある都市にいた時のことである。私が浜辺で静かな一日を過ごしていると、一人の嘲る人が私に近づいてきた。私は大きな競技場で数千の人々に向かって「信仰」について説教していた。多くの癒しの奇跡が神の御力によってなされたが、この事実にもかかわらず、この世の神によってあまりにも盲目にされているせいで、自分たちの目の前で起きていることを理解できない人々がいた。その人はこのような人々の一人だった。

浜辺で仰向けになっている私に近づいて、彼は皮肉まじりの口調で言った、「おや、信仰の人ではありませんか。水の上を歩いてはいかがですか?もしあなたが水の上を歩いたら、私は信じましょう――今晩、あなたの聴衆の前に立って、自分が間違っていたことを告白します。そして仕事を辞めて、宣べ伝えることを始めます」。

もし私が愚かにもこの人の言葉を真に受けて、海の上を歩こうとしていたら、一体どうなっていたことか。そうするのは思い込みの所業だっただろう。「あなたが神を信じる信仰を持てていれば、神はあなたを水面から引き上げてくださっていただろう」と言う人もいる。私はそんなことは信じない。

神を試みることと神に信頼することとの間には大きな違いがある。私は沈んでいただろう。それどころか、沈んで当然だっただろう。神の約束が何もなかったからである――聖書的根拠は何も無かったし、そのような無謀な試みをする許可を私に与えるものは天にも地にも何もなかったのである。

しかし、ペテロは海の上を歩いた。そして、波は彼を支えた。彼の信仰はイエスの招きに基づいていた。言い換えると、彼の思いは納得していたのである――彼は信じたのである――主がそうするよう彼に告げられたからである。イエスの御言葉――キリストの招き――の土台の上に、ペテロの信仰は建て上げられていた。あの人は私に海の上を歩くよう挑み、ペテロは実際に海の上を歩いた。これに関するペテロと私の違いは、ペテロには信仰のための基礎があったが、私には全く無かったということである。

主の御言葉の中に含まれている多くの約束よりも確かで信頼できるものは、天にも地にも何もない。

「あなたたち、主の聖徒たちよ、主の卓越した御言葉の中に、何と堅固な基礎があなたたちの信仰のために据えられていることか!」

神が仰せられたことについて、神は本気である。聖書の約束の一つ一つの背後には、全宇宙に存在するすべての物質を創造した永遠なる全能の力が控えている。無から物を造り、混沌の中から秩序をもたらされた神は、その諸々の約束の創始者であり、一つ一つの約束の背後には全能の力が控えているのである。

願い事を携えて神のもとに来る人は、まず、神がおられることを信じなければならない、と聖書はわれわれに教えている。これは、永遠・全能・偏在の神の存在を信じなければならない、ということである。神を否む人が、神を信じる信仰を持つのは不可能である。神を信じない人が、自分の人生の中に信仰の上部構造を持つのは不可能である。なぜなら、神だけが信仰の創始者だからである。無に根拠を置くことはできない。ただ神ご自身だけがそれを成就する力を持っておられる。イエスはわれわれの信仰の創始者であり完成者であることを、われわれは知っている。聖書は「神を信じる信仰を持て――キリストを信じる信仰を持て」という明快な呼びかけで響き渡っている。これが意味するのは、神ご自身がわれわれの信仰全体の基礎・土台でなければならない、ということである。神ご自身抜きでは、神を信じる信仰はありえない。神ご自身抜きでは、信仰は思い込みである。

信仰は常に自らを立証する。それは暗がりの中への跳躍だが、あなたを光の中に着地させる。それは見えざるものの中への旅だが、天のビジョンへと導く。その過程は時として神秘的だが、究極的には常に自らの正しさを証明する。その働きは必ず成就する。信仰を行使し続けても、その働きが少しも現れないなら、それはどこかで何かが間違っていることを意味する。われわれはそのわけと理由を見つけ出さなければならない。