三.エリコの壁

チャールズ・プライス

イスラエルの子らがカデシ・バルネアで止まってから、長く辛い年月が流れた。以前彼らが約束の地の玄関に来てから、夏が四十回訪れては去って行き、四十回の冬を彼らは耐え忍んだ。広大なアラビアの砂漠で、数千の人々が、灼熱の太陽の下で白骨になった。四十年前は小さな少年にすぎなかった者たちが、今や、約束の地の玄関口にいたからである。

彼らは戦いに従事しようとしていた。彼らは前に一度、四十年失った。彼らは軍隊と戦ったことがなかった――歩兵隊による襲撃はなかった。彼らに敵対して組まれた兵士の大軍勢はその山腹にはいなかった――しかし彼らは相変わらず敗北したままだった。混乱し、打ちひしがれ、落胆した状態で、彼らは所有できたはずの土地に背を向けてきた。そして、不毛で広大な砂漠の中に埋もれてきたのである。

あの敗北の時に大人だった人のうちただ二人だけが、今、エリコの門の前に立っていた。この二人の人――ヨシュアとカレブ――は信仰の戦士だった。彼らが今そこにいるのは、彼らが信仰の旗を掲げたことを神は忘れておられなかったからだった。その信仰の旗は不信仰のそよ風の中ではためき、暗闇の全勢力に対して勇敢に立ち向かったのである。

彼らが敗北した戦いは、どんな戦いだったのか?カデシ・バルネアの戦場での戦いではない。エシュコルの谷で荒れ狂った戦いではない。彼らが敗北した戦いは、彼らの心という戦場でなされた戦いだった。理性が信仰を打ち倒し、神の御旨を打ち破った。信仰は勝利であることを、彼らが知ってさえいれば。当時と同じように、信仰は今でも勝利である。

信仰は、「あの人々はわれわれの前ではバッタのようだ」と叫んだ。しかし、理性は、「彼らは巨人であって、われわれを打ち負かす」と叫んだ。御父がその子らに、「前進せよ、わたしに信頼せよ」と命じられた時、信仰はその耳を永遠の御父の御声に対して開いた。理性は、不信仰の霧が彼らの神の幻を隠している間、吠え猛り嘲笑うアナクの子らに耳を傾けた。信仰は雲の柱を覚えていた。そして、彼らの巡礼の旅路で彼らを守り導いてくれた火の柱を忘れなかった。しかし、理性は城壁のある都の巨人たちの目の中に火を見た。そして、天の御座から臨んだ火を忘れてしまった。信仰は、神が衣として雲をまとわれた時、神のすがたに気づいた。しかし、理性はあまりにも長い間、城塞都市の城壁を見続けてきた。その思いの中にあまりにも大きな雲があったせいで、天の幻は全く消し去られてしまった。

こうして何年もたった。彼らが荒野をさまよっている間、「信仰は勝利である」とモーセは何回彼らに告げたことか。「救うことができる神の力によってのみ、あなたたちは打ち勝つことができる」と、折に触れて彼は何回宣言したことか。おそらく、この巡礼の間に生まれたこの世代は、神の御言葉とその背後にある全能の力を堅く信じていた彼らの祖先たちよりも、信じようとしただろう。聖書の記録はわれわれに告げていないが、「人は過去の集大成にほかならない」ということがもし本当なら、約束の地の玄関口にいた新しい兵士たちには何かが起きたにちがいない。あるいは、もしかすると、人のピンチは最後には神のチャンスになるのだろうか?

他の力を使い尽くし、道はどれも行き止まりであることを見いだして、彼らは自分たちの救いの神に背を向けたのだろうか?荒野における四十年の放浪は、彼らから兵士としての能力を奪ったにちがいない。熱砂の上を歩く人は、自分の足に熱さを感じずにはいられない。

ある深夜のこと、将軍のヨシュアは宿営を離れた。二マイル先に、青い月明りに照らされたエリコの恐ろしい要塞が見えた。その城壁は、「お前たちは通れない」と叫ぶ歩哨のように立ちはだかっていた。彼の心は不安と困惑に満たされたにちがいない。過去四十年間、問題は少しも変わらなかった。荒野の旅によって困難は除かれなかった。むしろ、困難が増したかもしれなかった。その孤独な時間、彼が遠くのエリコの城壁を調べた時、彼は何を思っただろうか?その都は攻め取ってしかるべきものだった。それについて疑問はありえなかった。その都を攻め取らなければならなかった。これを彼は堅く確信していた。

突然、おそらくは近くのヤシの木立の影の下から、抜身の剣を手に持つ一人の人が彼の傍らに現れた。稲妻の閃光のように素早く、ヨシュアの口から説明を求める言葉が発せられた。従順は勇気をもたらすこと、そして、光の中を歩むなら恐れは消え去ることを知るのは、実に驚くべき不思議なことである。

謎めいたよそ者の言葉は麗しいものだったがしっかりしていた。「否、主の軍勢の将としてわたしは来たのです」。ヨシュアの心は彼の中ではずんだ。まさにここに契約の御使いがおられたのである。神はご自身の民を捨てておられない積極的証拠がここにあったのである。信仰は勝利であり、それはエリコの壁を急襲し、その要塞の頂上からイスラエルの旗をはためかせるものだったのである。

次に、二人は協議した。主の軍勢の将は、その都を攻め取る計画の概要を示した。その戦いは主のものであり、イスラエルの子らは信仰の光の中を歩んで、結果を神に任せなければならなかった。なんと奇妙な戦術を、この二人は一緒に計画したことか!この計画のようなものは、人類史上かつてなかった。都を攻め取るその方法は、ヨシュア以外の世の将軍ならだれでも、笑うか嘲るかしただろうものだった。戦ってはならなかった――従順に歩くだけでよかったのである。

信仰を置くべき神がヨシュアになければ、従順に歩むことは不可能だっただろう。この特別な件では、それはヨシュアにとってなんという試練だったことか。「信仰は勝利である」という鐘がヨシュアの心の中に鳴り響いた。「信仰は勝利である」と天の聖歌隊は歌った。そしてその響きは、月明りに照らされた遠くの城壁を見つめて立つこの孤独な人の耳の中に入り込んだにちがいない。

その城壁は実際には昔のエリコを囲んで立っていたが、ヨシュアの霊の目には崩れているのが見えた。信仰は当時でも望んでいる事柄の実体だった。彼は宿営に戻った。「われわれは勝利を勝ち取った」とヨシュアは宣言した。「城壁が崩れたのですか?」と兵士たちは答えた。「都の住人たちは逃げ去ったのですか?」

「いや、住人たちはまだあそこにいる。だが、それにもかかわらず、主はこの都をわれわれの手に渡してくださったのである」。