五.はしごの段

チャールズ・プライス

信仰は、われわれ自身の弱さと無能さを認めるところから始まらなければならない。人の業績の領域では、「自分自身を信じ、自分自身の能力を信じる信仰は、一つの財産である」という哲学者たちの教えには何らかの価値があるかもしれない。霊の命の領域では、そのような教えは確実に妨げである。

有限の存在である人は、無限の領域に達することはできないし、無限に属する事柄を得ることもできない。しかし、人が自分の魂を発達させるのに必要なものは、この世に属するものではない。人は、罪の支配の中で、絶対的に無力である。罪の事実を否定することや、その影響を否定しようとすることは、たとえあなたがその証拠を認めていたとしても、愚かなことである。もし「自分は天に至る道を造り上げることができる」と信じるなら、その人は自分は救い主を必要とするとは決して感じないだろう。自分は救い主を必要とする、と感じないなら、どうして自分を救うために来られた御方を信じる信仰を持つことができよう?

目が見えなくなるところで信仰が始まる。もし、主からの助けがなくても自分のエリコを攻め取ることができると一瞬でも想像することができるなら、主はあなたに試させてみるだろう。しかし、あなたの試みは無駄に終わることは確実である。あなたがその周りを七年間歩いたとしても、あるいはその問題のために永遠に歩いたとしても、あなたに行えるのは、その土台を固めることだけだろう。

自信が尽きる時、信仰が生じ始める。自分自身の終焉に達する時、神が自分の人生の中に働き始める地点にあなたは到達する。使徒パウロは「私には何でもできる」と宣言した。しかし、彼は続けて「何でもできるのは、キリストによってのみである」と言った。こういうわけで彼は自分の弱さを喜んで誇ったのである――なぜなら、彼が弱い時、キリストの力が彼の上にとどまったからである。この理由のゆえに、「私が最も弱い時、私は最も強い」と彼は宣言した。この真理は信仰の手の中にある永遠の逆説である。

もしあなた自身の頑固な意志のせいで膝を屈めることができないなら、その頑固な意志を従順にならせる恵みと力を神に求めよ。もし傲慢な悪魔があなたの開かれた耳に自分の賛歌を歌ってきたなら、その悪魔を永遠に追放せよ。ただ降参して活動を止めよ。自分の人生に神の力を必要とする、惨めで哀れな罪人として、神の御前に来たれ。そして、神に自分自身の終焉へと導いてもらえ!

信仰は常に、自分にはできないことを認めることによって始まる。自分が望んでいる事柄は不可能であるという深い感覚が、常に信仰に先立つ。その夜、ヨシュアがエリコの城壁の前に立った時、彼は自分の心の中で「自分にはできない、自分にはできない」と言ったかもしれない――その時、主の軍勢の将が彼の傍らに立って「いや、ヨシュアよ、あなたにはできないが私たちにはできる」と囁かれた。あなたの人生におけるそのような日が、信仰の誕生日となる。あなたの御父がこれほど近くにおられるなら、どうして恐れることができよう?

次に、信仰は必然的に神を呼び求めずにはいられない。神が自分を呼び求めてくださるのを待っていてはならない。あなたが神を呼び求めよ。多くの人々の家庭の中に神がおられないのは、彼らが一度も神を招いたことがないからである。神があなたのことを言い表わされる前に、あなたが神を言い表わさなければならない。信仰は神を必要とする。それゆえ、信仰は神を呼び求める。

天の無限の資源を自由に使えるというのに、自分自身の諸々の限界に合わせなければならないとは、われわれは何と愚かで、何と時間に縛られた哀れでちっぽけな被造物なのだろう。以前その道を一歩ずつ歩まれた御方が喜んでわれわれの傍らを歩んでくださるというのに、どうして許されていない道を歩もうとするのか?

われわれの現代の教育機関のいくつかに通っている間に、不信仰という有害な毒を霊の血管中に注入されてきた若い男女のために、何と私の心は憐れみと同情で血を流していることか。あなたたちの教授たちを学校の外の芝生に連れ出して、草のちっぽけな葉を育てるよう彼らに求めよ。芽を出して収穫をもたらす人工の種を造るよう彼らに求めよ。夏の間ずっと着ていた緑のドレスを脱ぎ捨てて、秋の衣を着る際に、琥珀色の濃い色調で自らを美しく装う一枚の葉っぱを造るよう彼らに求めよ。一粒の小さな雪の結晶を形造るよう彼らに求めよ。あるいは、二十一日の代わりに十四日で自分の卵を孵すように雌鶏を説得するよう彼らに求めよ。

ああ、邪悪なうぬぼれ――ああ、知的高ぶりの愚かさよ!世界最大の聖堂建築である聖ペテロ大聖堂を案内してくれた司祭は、その腕を円屋根の方に向けて、「これはミケランジェロが造ったものです」と言った。しかし私は歩いて外に出て、自分が目にした比類ない壮大な建物から離れ、星空を見上げた。私は遠いローマのバチカン市の歩道にいた。天の円蓋を見上げた時、壮大な聖ペテロ大聖堂は見えなくなった。そして、それが誇示する教皇の束の間の権力を私は忘れて、「この星空は私の主が造られたものです」と言った。そこには数十億の恒星が燃え輝いていた。天の無限の空間中に星々が散らばっていた。それはまるで、農夫が自分の畑に手で蒔いた種のようだった。宇宙はとても大きく、天体はとても巨大だった。そのため、この回転するちっぽけな地球は、それと比べると、色あせて意義を失った。しかし、この大きくて、巨大な、計り知れない、恒星や惑星からなる無数の星座は、無数の月や太陽と共に、その定められた予定通りの旅路の軌道上をひたすら進み続けているのである。

それを理解しようとして頭を痛めてきたのは一人だけではない。次にあなたの尊大な教授がその弱々しい胸を突き出して、「この星々は所定の軌道を巡っているにすぎない」とあなたに言い、類人猿仮説について講釈を垂れたら、教授を外に連れ出しなさい。そして、世界中の知識人たちの頭脳を結集して、一枚の小さな葉っぱを育てるよう教授に求めよ。ただ神だけが木を造ることができる。あなたの教授は意見を述べることができる――しかし神だけが薔薇のつぼみを造ることができる。

次に、信仰は跪いて神に叫ばなければならない。信仰は自己否定と自己卑下の谷間を歩いて下らなければならない。それは反対側にある神の啓示の山に登るためである。強くなるには、まず弱くならなければならない。満たされるには、まず空っぽにならなければならない。強くなった時、あなたは自分の弱さを喜ぶようになる。満たされた後、あなたは自分の空しさのゆえに神に感謝するようになる。再び言うが、こういうわけで使徒は自分の弱さを喜んだのである。

第三に、信仰は神の計画の何たるかを発見し、それを行う。人の計画が何とおびただしかったことか。それらの計画は今日、哲学や科学の諸理論というその崩れゆく城の中に座して、文明の劇的崩壊と自らも認めているものを目撃している。

近年、カルト信者、哲学者、心理学者、精神分析者が蔓延している――彼らは明らかに矛盾しあっているので、彼らの建てた家はとうとう吹き飛んでしまった。金融と財政システムの領域では、過去数年間、われわれは気ちがいじみた光景を見てきた。立て続けに諸々の実験が行われたが、結局のところ無駄だった。最終的に、最も偉大な経済学者の一人が「金について少しでも分かっている人は誰もいない」と宣言した。これが結末だったのである!

霊の事柄の領域ですら、教会の職員たちは、彼らの父親や母親を安息の港に安全に運んだ福音船という機械を分解してしまった。彼らはこの機械を批判的に分析し始めたが、それを理解できず、船外に投げ捨てた。そして、理性が受け入れやすく、科学という定規で測れる体系や方法を強く要求した。それゆえ、処女降誕は船外に捨てられ、その後、彼らは文字通りの復活を投げ捨てた。彼らは血による救いを一掃した。そして、一つずつ奇跡が水しぶきと共に近代という海の中に沈んでいった。彼らはイエスを船長から教師に降格させた。彼らの中には「私たちはこれ以上あなたから何も聞きたくありません。あなたの教理の中にはとても不健全で危険なものがあるからです」と言う者までいた。それゆえ良き主は、彼らが愚かにも自滅するよう放っておくしかなかった。他方、主は忠信な者たちをご自身の周りに召して、彼らに安息の港への安全な旅を約束された。その港では天使たちが栄光の銀の砂浜で帰郷を歓迎する歌を歌うのを待っているのである。

確かに、多くの方法が存在してきた――多くの体系が存在してきた――しかし、結局のところ、神の方法が最善の方法である。この救いの計画は一度も改良されたことはない。歴史は、人が成し遂げようとして失敗してきたことで散りばめられている。これらの失敗により、今日の若い世代は、父祖たちの信仰にしがみつくよう警告を受けるべきである。

繰り返そう。信仰は神の計画を見いだし、次に、それにしたがって生き、行動し、働く。あなたの方法を神の方法としない限り、神の方法はあなたの方法よりも優っている。われわれは壊れた水ためを試してきた――だが、見よ、その水はこぼれてしまった。あなたの哀れな引き裂かれた手を、救い主の釘で貫かれた御手の中に置け。そして、救い主に導いてもらって、困惑という谷間から抜け出し、永遠の現実と真理という陽光の中に至れ。もしあなたが救い主にそうしてもらうなら、彼はあなたを大いに愛しておられるのでそうしてくださる。

われわれが信仰を行使・活用する次の発展段階は、約束を握ることである。前に述べたが、信仰を少しでも活用するには、まず何らかの確かな基礎が確立されなければならない。橋がそこになければ、深淵を渡らせてくれる橋を信じることは不可能である。あなたに神を信じる信仰がある時――その信仰を分析すると――それは神が語られたことに基づいていることがわかるだろう。主の子らの嗣業は聖書の素晴らしい驚くべき諸々の約束である。

あなたの状態がどうであれ、私の友よ――あなたの悲しみ、問題、心痛がどうであれ――それに応じてくれる約束が神の御言葉の中にある。もしあなたが嘆きの衣を身にまとっているなら、神は賛美の衣をあなたに与えると約束してくださっている。もしあなたが誤解という夜の暗闇の中を旅しているなら、永遠の陽光が輝く栄光の山頂にあなたを導くと神は約束してくださっている。もしあなたが無知と誤解という谷間の中をさまよっていて、知恵を必要としているなら、神は御言葉の中で「私のもとに来なさい。私が知恵を与えよう」と言ってくださっている。

もし聖書の中から約束がすべて取り除かれてしまったら――もしイエスの務めや使徒たちの働きの記録しかなかったなら――われわれの歩む道は何と陰鬱で暗いものになっていたことか。われわれの宗教経験は、史的キリストについて黙想することだけになっていただろう。イエスが弟子たちと共に歩まれた記録を、われわれは聖書から読む。これは歴史である。しかしイエスが「見よ、私は世の終わりまで常にあなたたちと共にいる」と仰せられる時、これは経験を意味する。この約束を握って、信仰は言う、「主よ、信じます――あなたは私の近くにおられます――私の傍らにおられます」――そして、われわれの中の数千人が、これは文字通り真実であることを証しできる。イエスがエマオの道を歩んで、道すがら二人の弟子に語られた時、その二人の弟子の心は彼らの内に燃えた。この記録をわれわれが読む時、それは歴史である。しかし、あなたたちの町にもエマオの道があって、道すがら彼があなたたちに語られた時、あなたたちの心も内に燃えたのである。これは信仰の力という錬金術によって生み出された経験である。

数年前、私はある若いクリスチャンの家の中に座っていた。若いというのは、年齢のことではなく、クリスチャン経験のことである。三週間前に彼女は自分の心をイエスにささげて、日の沈まない国に導く巡礼の道を歩き始めたばかりだった。この親愛なる婦人ほど聖書とキリスト教の基礎に関して無知な人に、私は自分の人生の中でほとんど会ったことがない。彼女は確かにキリストにある赤子だったのである。

彼女は不幸にも、不治の病で苦しんでいる娘の母親だった。その少女は母親にとって、生涯にわたる大きな試練、重荷だった。しかし母親としての優しい愛の配慮により、彼女は自分の苦しんでいる子供のために最善を尽くしてきた。私がその家を訪問するたった一日前に、彼女の夫は即死し、その時彼らを訪問していた彼女の甥は自動車事故で重傷を負ったのだった。

それで、あの雨の晩、私はその家の中に座すことになったのだった。その哀れな女性は座して嘆き、その両手を握っていた。私は最善を尽くして彼女を慰めた。彼女は私の言ったことを聞いていないようだった。失望と絶望の中で茫然自失しているだけだった。重荷を負ってくださる偉大な御方について私が彼女に話した時、彼女は悲しげに頭を振った。私は御言葉から読むよう御霊に導かれているように感じた。そこで私はあの素晴らしい詩篇「その隠れ場に住む者は」に向かった。彼女に聞いてほしい御言葉を強調しつつ、私は読み続けた。すると突然、彼女は私を止めた。彼女の目には奇妙な表情が浮かんでいた。そして、「御言葉は本当にそう言っているのですか?」と叫んだ。

新約聖書に転じて、私は次々にイエスの約束を読んだ。彼女の目はますます見開かれてゆき、遂に彼女は叫んだ、「誰にイエス様はそう約束されたのですか?」。私は進み出て、彼女の手を握り、その目を見つめて、「あなたにです」と言った。彼女は椅子に寄りかかって、「この約束は――私のため、この約束は――私のため」と何度も繰り返した。それを理解した時、彼女の信仰は成長し始めた。そして彼女は叫んだ、「イエス様がそうしてくださると仰るなら、私のためにそうしてください、と私はイエス様にお願いします」。

その悲しみの家の中に、慰めを与えるナザレ人が来てくださった!どれほど想像を広げたとしても、地上のいかなる環境も喜びを生じさせるのは不可能な状況の中に、麗しい永続的な平安が臨んだ。「葬儀の後、喜びの涙以外の涙を流せませんでした」と彼女は私に告げた。彼女は言った、「私の夫がイエス様を見いだした喜びの方が彼を失った私の悲しみよりも大きいとは、奇妙なことではないでしょうか?」。私は彼女に言った、「それはこの世の人々には奇妙でも、神の民にとっては奇妙ではありません。それは神の民が期待すべきことなのです」。

ああ、御父の御心の愛から生じた信仰、麗しい信仰は、われわれを悲しみの谷間から引き上げてくれる。そして、この地上でも、すべての目から涙を拭ってくれる。輝かしい信仰――素晴らしい信仰――それは神の御言葉の宝の中に手を伸ばし、その指で約束という宝石を掴んで、それを砕かれた心に差し出す。その結果ついには癒しの水が流れるようになる。信仰――甘く輝かしい信仰――それはわれわれの耳から音や時間の制約を取り除く――そしてガラスの海の傍らから流れてくる音楽に耳を傾けるようわれわれに命じる。あるいは、もしかすると、その音楽はさらに甘美な――われわれの栄光を受けた主の御声かもしれない。