六.宝石箱への鍵

チャールズ・プライス

なぜあなたは、神の数々の約束が啓示している富を持っているのに、霊的貧困の中を歩んでいるのか?なぜあなたは、霊感された御言葉を高く掲げて、地獄の全勢力の前で「主はこう仰せられる」と宣言することができるのに、悪魔にあなたを脅してあなたの嗣業を奪うことを許しているのか?

この約束は私のものである。それが分かりさえすれば、あなたは霊的億万長者である。諸々の約束はあなたのものである――聖書はあなたのものである――そして、御名はほむべきかな、イエスもあなたのものである。

あなた自身の静かな部屋の中で、悲しみに沈みつつ椅子を前後に揺り動かし、「主は私を助けることができる」という抽象的な信仰を持つだけでは不十分である。神はその子らの自発的行動を要求される。「悪魔に抵抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたたちから逃げ去ります」と主は仰せられる。悪魔が逃げ去らないのは、あなたが悪魔に抵抗しないからである。もしあなたが悪魔に抵抗するなら、悪魔は去る。悪魔は去りたくないかもしれないが、神が悪魔を去らせるのである。

ご存じのように、神は偽ることができない――神はご自身の言葉に従わなければならない。それゆえ、信仰は受動的な冷たい状態から抜け出して、活動の領域に入らなければならない。約束を握り締めよ。それを神の前に掲げよ。この約束は私のものです、と神に告げよ。私はこれを信じます、と神に告げよ。この約束を守ってもらうつもりです、と彼に告げよ。次に、あなたの信仰を働かせよ。次の瞬間、次の日を、あなたの感覚に基づかずに、環境に影響されたり状況に打ち負かされたりせずに歩め――むしろ神の諸々の約束を踏みしめて勝利のうちに歩め。神は応じないわけにはいかない。なすと約束したことを、神は果たさないわけにはいかない。

ヨシュアの場合、彼がエリコの城壁の前に立った時、主の軍勢の将は「私はエリコをあなたの手に渡す」と仰せられた。ヨシュアが必要としていたのは、ただこれだけだった。もし主の軍勢の将が「エリコの周りを逆立ちで歩め」と命じていたなら、彼はそうしていただろう。「兵士や祭司の行進によって、エリコの城壁は崩される」とヨシュアは心の中で思っていた、と一瞬たりとも信じてはならない。行進は、彼が神を信じていることを示す印以上のものではなかった。こういうわけで神は彼に行進させたのである。誰が城壁を崩すのかをヨシュアは知っていた。そして、誰があなたのために城壁を崩すのかを私は知っている。

しかし、自分が主を信じていることを示す印を、あなたは主に与えただろうか?あなたは自分の信仰を働かせ始めただろうか?たとえまだ城壁を神が崩しておられなくても、その城壁が崩れ落ちる保証をあなたは受けただろうか?城壁が崩れ落ちた後なら、それは崩れることを誰でも信じることができる。ヨシュアが月明りの中で遠くを見つめている時、神は彼の傍らに立って、「見よ、ヨシュアよ」と言うこともできた。そして、その神聖な指でその都の城壁を指し、その都の城壁を崩すこともできた。その時にそうすることは、七日後に同じことを成し遂げるのと同じくらい、神にとっては容易だっただろう。

なぜ神はヨシュアを待たせたのか?この答えは完全に明らかである。しかし、それには至って途方もない重要性がある。それは次の理由のためだった。すなわち、神の力が現れるために、人が信仰を行使して神と協力することが、神のエコノミーの一部なのである。われわれに必要なものをその必要が生じた時に神がわれわれに与えておられたなら、われわれは霊的機械に成り果てていただろう。われわれは生きた機械となって、自由な道徳的主体としての自分の独自性を失っていただろう。

あなたには分からないのだろうか?神を信じる人こそ、神から得る者なのである。あなたには理解できないのだろうか?神を信じる人こそ、そうすることによって主を真にあがめる者なのである。

ジョージ・ミュラーが信仰の使徒になったのは、彼には神を信じる勇気があったからである。われわれが生きている時代にも、第二のジョージ・ミュラーが誕生しうるのである。

あなたの必要は何か――あなたの問題は何か――あなたの疑問は何か?この宝石箱の鍵を開けよ――この宝の覆いを取り去れ――そこに約束がある。この約束は天のあらゆる永遠の資源によって、無限の神のすべての力によって裏付けられている。然り、これらのものは真実である。しかし、この約束はそれ以上のもの――主なる神ご自身――によって裏付けられているのである。それで私には十分である。この貴重な宝をその入れ物から取り出して、開かれた天に向かって掲げよ。

たとえあなたの心が乱れていても、「主よ、これはあなたの約束です」とあなたの声を響かせよ。あなたが祈る時、天の油があなたの傷ついた心の上に注がれるだろう。祈りに対する答えの神聖な現われはあるかもしれないし、あるいはないかもしれない――しかし、信仰は勝利を歌い、主の御力を喜ぶ。この約束を受け取れ――それを握れ――しっかりと握れ、堅く握れ――それを去らせてはならない、そして片手にラッパ、もう一方の手に水差しを持って、あなたのエリコの城壁の周りを行進せよ。賛美の響きでラッパを満たせ。そうすれば、神はその水差しを聖霊の喜びで満たしてくださる。その時、あなたは後ろに立って、主がその城壁を崩されるのを見ることができる。

次の段階は、信仰に関する神のエコノミーの進展においては、神は常に同じ方法で働かれるとは限らないことを覚えることである。神は常に同じ方法で働かれる、と一時のあいだ仮定してみよう。どんな場合でも、いつも同じ時間、全く同じ方法で、神は祈りに応えてくださり、諸々の約束を通してご自身を現わしてくださる、と仮定してみよう。信仰はその人の心の中でたちまち死んでしまうだろう。なぜならそのような状況下では、約束が成就される問題は、たんなる繰り返しの問題になってしまうだろうからである。

今日あなたが求める前に、神は答えを与えてくださるかもしれない。しかし明日は、ご自身しか知らない何らかの目的のために、神はあなたを待たせるかもしれない。しかし、明日を信じる信仰は昨日の勝利を振り返って、「主を賛美します!」と言う。将来について考える時、それは悩まない。神の御言葉の成就を待っている間、圧倒的な平安と共に安息する。

もし心配するなら、それは信仰ではない。もし過度に心配し始めるなら、信仰は窒息して人の胸の中ですぐに死んでしまう。信仰は安息している時でも活発になれる――そして、平安の冠をかぶる時、信仰は最も強くなることができる。とりなしの苦しみの祈りが賛美の歌に転じる時、鍵盤の前に座して心のオルガンから旋律を生じさせるのは信仰である。

そう遠くない昔のこと、私は昔のエリコの廃墟の横に立った。作業員たちがせわしくゴミやガラクタを取り除いていた。そして彼らは、過去何世紀ものあいだ埋もれていた昔の家々のいくつかを発掘することに成功した。私が立っていた道の反対側には水の泉があった。その泉は今日に至るまでエリシャの泉として知られているものだった。列王記第二に記録されているところによると、エリコの都のある人が神の人であるエリシャに「水が良くなくて、土地が不毛なのです」と告げた。預言者は、明らかに御霊の霊感を受けて、「新しい壺を持って来て、その器の中に塩を入れなさい」と彼らに指示した。彼がそうした時、エリシャはその塩の器を受け取って、水の所に歩いて行き、その器の中身を水の中に注ぎこんで、「主はこう仰せられます、『私はこの水を癒した。今から後、これ以上死が生じることも、土地が不毛になることもない』」と宣言した。

エリシャが主の御言葉に従った日から約三千年過ぎた。しかし、その水はいまだに甘いのである。その泉は、その中にアルカリの痕跡が微塵もない澄んだ、冷たい、煌めく大量の水を注ぎ出している。その周辺の他の泉はどれも飲用には適さない。また、その中に満ちているアルカリが、その近くの土地を白墨のように白く染めている。しかしこの泉――エリシャの泉――は煌めく水の美しい絶え間ない流れを注ぎ出している。それはその田園地方を潤し、その流れによって潤されているオレンジやレモンの木々はどれも、神の約束を私に告げる。われわれの神が「永遠に」と仰せられる時、それはまさしくその通りの意味なのである。神はあなたに約束されたのと同じ神である。

それで、私は美しい泉の湧き上がる水の向かい側に立って、エリコの廃墟を見つめた。誰かが私の方に振り向いて、「これらの石はヨシュアがこの都の周りを行進した時に崩れたものなのでしょうか?」と言った。それに応じて私は大声で言った、「そうかどうか私にはわかりません。しかし、私は一つのことを知っています――エホバ・ニシ(われらの旗なる主)に彼らが叫んだように、私たちは今なお叫ぶことができるのです。当時そうだったように、それは今日も真実なのです」。われわれの小さな団体は道路を横切って、エリシャの泉の水から飲んだ。私の口はまだ湿っていたが、私は友人たちの方を向いて、「神は忘れてはおられません」と言った。

紀元前八九五年から紀元一九三六年までは長い時である――しかし、その水は依然として甘かったのである。

神の親愛なる子供たちよ、これにはあなたの信仰を強める教訓が含まれているのではないだろうか?

「主はこう仰せられます」は紀元一九三六年でも紀元前八九五年と同じように真実である。唯一の違いは、当時人々は塩を注いだが、今日主は恵みを注がれることである。