七.信仰とは何か?

チャールズ・プライス

今、われわれはわれわれの学びのとても重要な部分に来る。「信仰とは何か?」というこの問いに注意深く、祈りを込めて答える時、「どうか聖霊が私たちを照らしてくださいますように」とわれわれは祈る。

この本の前のところで述べたが、信仰の最善の定義は聖書の中に見いだされる。聖書は、われわれが信仰について知っているすべてのことを、われわれに告げる。それはこの書の数々の頁の中に見いだされる。この書は、昔の敬虔な人々の心の中に働いていた信仰の素晴らしい諸々の偉業について記録している。ヘブル書十一・一は「さて、信仰は望んでいる事柄の実体であり、目に見えないものの証拠です」と宣言している。改訂訳では「信仰は望んでいる事柄の保証であり、目に見えないものを証明するものです」となっている。

この節のこれらの別訳はどれも、もちろん、基本的には同じ意味である。信仰は証拠の上に確立され建てられる、と直接的に述べられている。たとえ見えなくても、それらのものはそこにあるにちがいない。なぜなら、もしそれらのものが存在しなければ、聖書はそれらを「もの」とは呼ばないだろうからである。それは信仰の働きの効果に、ある特定の明確な触知可能性を付与する。何も証拠がないところでは、信仰の行使は不可能である。しかし、信仰が働けるようになるには、その働きを要求する何らかの希望――何らかの目的――が必ずなければならない。

信仰は、神の啓示された御旨に関する真理に対して同意すること、あるいは納得することである。信仰は、神の御言葉の完全性を心で納得することである。信仰は心の信念と霊の思いの推論との組み合わせであり、不変・全能・無謬であるとわれわれが信じているところの神の確言と約束に基づく。信仰はもともと合理的ではない。なぜなら、信仰の起源は神にあり、信仰は理性の境界を超えて超自然の領域の中に達するからである。信仰は愚かではない。ただし、霊の光を持たない人は別である。なぜなら、信仰は神の御霊によって力づけられ、活気づけられているからである。御霊はわれわれを天然の領域の向こうに連れ出して、神ご自身に属する超自然的力との接触にもたらす。この理由により、天然の人には非合理的なことが、御霊に満たされている人には合理的なことになるのである。

もしすべてが自明だったなら、信仰を行使するどんな必要があっただろう?もし神なき人の知性で理解可能な事柄の境界の向こうに信仰がわれわれを連れ出してくれないなら、聖書が教えているような意味で信仰を持つことを願う必要はなかっただろう。なぜならその場合、知的器官を働かせるだけで結果が得られただろうからである。つまり、もし信仰が超自然の領域で働くものでないなら、われわれは神を信じる必要がなかっただろう。なぜなら、自分が望むものを何でも神ぬきで得られただろうからである。

しかし、信仰はわれわれに理解できる事柄や、われわれの知性で理解できる事柄の境界内で働くだけではない――超自然の領域でも働く。信仰は不可能なことをなす。信仰は人の技能の限界を遥かに超えて及び、知的創造力の範囲外で働く。愚か者たちが時として教育を受けた人々よりも賢いのは、これが理由である。

昔の使徒が「私はキリストのために喜んで愚か者になります」と言ったのは、信仰が、彼の人生において、学識ある博士たちが全く何も知らない領域の中で働いていたからである。彼らには岩石の年代がわかったかもしれない――しかし使徒はとこよの岩を知っていた。彼らは望遠鏡を通して星々を見ようと試みることができたかもしれない。しかし、この神の子供は信仰により、星々を御座として利用される神との絶え間ない交わりの中にあった。数年の学びで、知的限界に挑む人々もいるだろう。それに対して、神の子供は信仰によりひとっとびで、壁の反対側のどこかに着地する。信仰は天の宝をもたらして、それを時間に属する被造物に与える。

二人の人が虹を見ているとしよう。そのうちの一人は、プリズムのような働きをする雨粒に及ぼすスペクトルの作用について、科学論文を書くことができるかもしれない――それに対して、神の子供はこの同じ虹を見て、その中にまさに、嵐の周囲を包み込む鮮やかな色彩を帯びた神の約束を見る。

信仰は梯子である。われわれはこの梯子を昇って事象の世の外に出る。この梯子は実際の事象の領域に至るもののように思われる。この移行は瞬間的なものではないかもしれない。しかし、あなたがこの梯子を昇っている事実はまさに、「この梯子は私を支えてくれる」という信仰をあなたが持っていることを証明する。そして事実、頂上には何かがあるのである。その頂上は望んでいる事柄である――この梯子の段はどれも神の約束である――しかし昇るよう鼓舞するのは信仰である。

この梯子の頂上は、最も賢い人や最も鋭い視力の持ち主でも見えないかもしれない。これはそうでなければならない――なぜなら、もし彼らに頂上が見えたなら、「頂上は確かにある」と信じる信仰を行使する必要はなかっただろうからである。

私のギリシャ語聖書は、信仰は「見えない事柄についての確信」であると告げている。

この「確信」という言葉は何を意味するのか?広い意味で、心と知性で納得することを意味する――両方とも信仰の働きの中で共に働くからである。見えない事柄がこの梯子の頂上にあり、二人の人が梯子の足の地面に一緒に座っているとしよう。このとき、この梯子を昇り始める人は、自分の望むものが頂上にある、と納得している。昇ろうとしない人は、見えないものを信じることを拒んでいるので、昇らないのである。もしそれを見ることができて、それを目指して昇るなら、それは信仰ではない。見えないのに、それを目指して昇るなら――それは信仰である。それゆえ信仰は確信である――見えないものについて心と知性で納得することである。

しかし、われわれの当初の主張を繰り返そう。信仰は証拠に基づかなければならない。一人の哀れな年老いた浮浪者が「虹の端に金の壺がある」と言っても、あなたはそれを信じないだろう――何の証拠もないからである。一人の億万長者がその名誉にかけて「私の事務室で金の財布があなたを待っていますよ」と約束するなら、あなたはすぐにそれを貰いに出かけるだろう。財布を貰いに出かけるこの行為は、「彼の言ったことは本当である」と心で納得することに続いて生じる信仰の働きである。

それでは今、神が何かを仰せられたとしよう――神は永遠の御方である。創造主である。手のひらの中に海を握られた御方である。その指で山々を形造り、その山腹に川々の道を敷いた御方である。神が何かを語って、それをご自身の権威によって裏付けられる時――その時、私が思うに、あなたは自分の信仰のための基礎を得るのである。

神は永遠なる御方であり、栄光と威光と力をまとっておられる――この御方を前にするとき、悪魔どもは震えて逃げ去る――その威厳ある命令の言葉を前にするとき、自然ですらその運行を差し止める――この神が語られる時、私が思うに、あなたは自分の信仰が働くための基礎、証拠を得るのである。

この素晴らしいキリスト――カルバリのキリストは神格の全豊満を身にまとってそれで満たされており、ガリラヤ湖の荒れ狂う波に静まれと命じられた――このイエスが語って、あなたに約束を賜る時、私は断言するが、あなたは自分の信仰のための基礎を得るのである。

彼は達成不可能なことを約束し、われわれはそれを受ける。彼は不可能なことを約束し、われわれはそれを得る。不信仰な世は嘲り、現代主義者たちは私を笑って蔑むかもしれない――今日の超知識人の哀れな盲目の目には神の働きが見えないかもしれない――それでも同じように、私は断言する。信仰は依然として山々を移すことができるし、信じる人には何でも可能なのである。

「信仰、力強い信仰は、約束を見つめ、
 ただ神だけを見る。
 不可能なことを笑い、
 『それは成る』と叫ぶ!」

旧約聖書の原典には、「信頼」「信仰」と訳されている二つの言葉がある。その一つは「信じる」「信頼する」「信仰」と訳されており、他動詞では「支える、とどまらせる、支援する」を意味する。自動詞ではそれは「とどまる」を意味する。「信頼する」と訳されている二つ目の言葉は、「身を放り出すこと」「身を投げ出すこと」を意味する。これらの意味は両方とも、信仰経験の発展段階に当てはまる。信仰はみな一つの基礎の上に建て上げられる。そして、その起源と作用系に関しては根本的に同じである。

この二つの翻訳については、その意味の違いは明白だが、信仰の働きは全く同じである。「自分は神を信じる」と言う時、その意味は「自分は神の御言葉にとどまる」ということである。われわれは神が語られる御言葉を信じる――言い換えると、われわれは神を信じる。また、「自分は神を信じる」と言う時、それが意味するのは「自分は神ご自身に身を投げ出す」ということである。

信仰に関して、聖書全体を通じて、この二つの翻訳が主流である。しかし、神がこの二種類の訳語の対象であることを覚えよ。一方においては対象は神ご自身であり、他方においては神の御言葉である。しかし、神ぬきの御言葉は御言葉ではない。それでは権威がなくなってしまう。それゆえ、われわれは必然的に、すべての活動的信仰の究極的目標――神ご自身――に導かれる。これは重荷を持ち上げてくれる信仰ではないだろうか?誰がそれを持ち上げてくれるのか?神である。「重荷は自ら持ち上がる」という信仰を持っていても、何の結果も生じない。しかし、重荷を持ち上げられる神を信じる信仰を持ち、次に信仰を働かせることは、それとは全く別の問題である。なぜ、イエスはわれわれの信仰の創始者であり完成者である、と称されているのかわかるだろうか?言い換えると、彼はわれわれの信仰のアルファでありオメガである。信仰は彼の約束と共に始まり、彼の力の顕現で終わるのである。

この約束を信じない人が、どうして信仰を持てよう?約束してくださった力ある御方がいなければ、どうして信仰が働けよう?こういうわけで、神と親しく歩んでいない人が信仰を行使するのは全く不可能である。親しく歩めば歩むほど、ますます信仰は豊かになる。知的業績という大路を旅して下る人は、自分自身のことしか知らないし、時の断片的幻想以外の何物も選ばない。御霊の中を歩む人は永遠の力の領域と接触を持つ。なぜなら、神ご自身と交わるからである。歴史書の頁をめくってみよ――あなたの聖書と信仰の人々の伝記を読んでみよ――そうすれば、どの事例でも、彼らは神と共に歩んだ人々であることがわかるだろう。

マルコによる福音書の十一章二二節に、「神を信じる信仰を持て」という弟子たちに対するイエスの御言葉がある。

欄外には「神の信仰を持て」という翻訳が載っている――これは神が分与される信仰である。この御言葉は次のことを意味するのはきわめて明白である。すなわち、信仰は神と不可分であり、神だけが、御子と聖霊の務めにより、信仰を分与できるのである。信仰は御霊の実であり神の賜物である、と聖書は告げている。それから論理的・合理的に導かれるのは、信仰は神の中で始まり、その自然な帰結として、信仰は神に属する、ということである。

しかし、イエスが話されたのは人に対してだった。彼は人に無理なことをするよう求めたことが一度でもあっただろうか?達成不可能な理想を人に対して掲げたことが一度でもあっただろうか?その答えは断然「否」である。現代主義者たちは積極的に「然り」と応じるだろう。そして、奇跡の時代は過去のものであり、信仰の諸々の働きという錬金術の時代は二度と訪れない、と宣言するだろう。

それゆえ、神を信じる信仰を持つには、次のようにせよとわれわれは教わっている。すなわち、神がわれわれに約束してくださっている事柄に対して、われわれは神を信じる信仰を行使しなければならないのである。われわれは神ご自身と接触しなければならない。これは次に、われわれの学びの別の重要な段階――「どのように信仰を得るのか」――にわれわれを導く。