八.どのように信仰を得るのか

チャールズ・プライス

ああ、われわれはどれほど神を必要としていることか!ああ、不信仰という暗闇の中をさまよい、ついには暗い湿地で迷子になり、光を得ようと努めるうちに、空しく空想の産物をつかんでしまうようになるその間、われわれの心はどれほど叫ばなければならないことか。

信仰があること――神がその背後におられること――神がそれを無限に供給してくださること――われわれはみなそれを得ることを心がけるべきことを、われわれは示した。一粒のからし種のような信仰の効力についての説明を御言葉から読むのをやめて、世界中を探し回ったとしても、神ご自身の外ではそのような信仰を見いだせない。神は信仰を持っておられる――われわれはそれを知っている――しかし、どのようにそれを得るのかが問題である。私はこの章を始めるにあたって強調したい。神にできることは何でも、信仰にもできるのである。「信じる者には何でもできます」。この約束に限界はない。それに境界線はない――それは最も深い深淵のように深く、無限の天蓋のように高い。

第一に、あなたに思い起こさせよう。信仰は賜物である。これは、信仰は自力では得られないことを意味する。信仰が臨むのは、たんに奉仕に対する報酬や、自分自身の苦闘や努力の結果としてではないことを意味する。信仰の割り当てについてわれわれはよく耳にする。信仰は割り当て可能だが、あなたは信仰を割り当てられない。再びあなたに思い起こさせよう――信仰は賜物である、と聖書は宣言している。しかし、「信仰は実でもあります」とあなたは私に言う。次に、「信仰は実である以上、私は信仰を育むことができます」とあなたは言う。そうではない、私の友よ。信仰はあなたが育てる実ではない。聖霊の実である。御霊ぬきで御霊の実を結ぶことはできない。もしできたなら、それは聖霊の実ではなく、あなた自身の努力の産物だっただろう――あなたが育てた実だっただろう。人がそうしようと努めたとしても、神ご自身を持たずに信仰を持つことはできない。

ローマ十二・三で、使徒パウロはとても明確かつ力強く、自分の業績のゆえに霊的高ぶりに陥っている人について取り扱っている。というのは、彼はこう述べているからである。「私に与えられた恵みを通して、あなたたちの間にいるすべての人に言います。思うべき限度を超えて思い上がることなく、むしろ神がそれぞれに割り当てられた信仰の度量にしたがって、冷静な思いで思いなさい」。

それからまた、パウロは一コリント二・五で、「それは、あなたたちの信仰が、人々の知恵の中にではなく、神の力の中で立つようになるためです」と宣言している。言い換えると、彼はこう宣言していたのである。すなわち、どんな奇跡がなされたにせよ――どんな超自然的な力の顕現があったにせよ――彼ができるだけ早く答えたのは、それは自分の業だったと人々に一瞬たりとも信じてほしくなかったからであり、むしろそれは神の御業だったことを知ってほしかったからである、と。

この諸々の段階はとても明確である

*信仰は山々を移すことができる――奇跡を起こすことができる――そして御言葉の約束の中に見られるこうした結果をすべて生じさせることができる。

*これをなせるのは神ご自身だけである。

*これをなせるのが神だけである以上、われわれは神を必要とする。

*神と共に歩む人にのみ、神はこれらのことを実現させる信仰を分与・賦与される。

愛する人よ、ここに信仰を得る秘訣がある。神に近づけ。神に大いに近づけ。不信仰と罪の世の雑音・喧騒・騒ぎから身を引け――ただ神と共にあれ。悪人どもの囁きに対して耳を閉ざし、悪魔の唆しに対する防壁であるイエスの血に訴えよ――ただ神と共にあれ。その血が罪から清め、心を清く純粋にするよう祈れ――ただ神と共にあれ。

主の御言葉は聖める力である、と聖書はわれわれに告げている。心を尽くして私はあなたに、「信仰が来る――信仰が来る」と叫ぶ。しかし、どのようにして来るのか?「信仰は聞くことにより、聞くことは神の御言葉による」。

この真理を熟考するのはなんと素晴らしいことか!神が心からこれを断言してくれるとは、なんと輝かしくて素晴らしいことだろう!あなたは暗闇の中にいるのか?神の御言葉はあなたの足の光、あなたの道のともしびである。あなたは病んでいて苦しんでいるのか?神は御言葉を送って人々を癒された。あなたは飢えていて、満足を与えてくれるものを求めて叫んでいるのか?人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる。あなたは迷子で、暗闇の中で手探りし、時の懸崖を永遠の夜に向かって滑り落ちているのか?神だけが永遠の命の言葉を持っておられる。

言葉は肉体となって、われわれの間に住まわれた。この受肉の奇跡は神の愛、神の心拍、神の慈悲、神の優しさと赦しの現われだった。それを人性という小さな包みの中に包んで、神はベツレヘムの馬小屋の中にいる女の手に渡された。天の御使いたちは歌い始めた。言葉が肉体となったからである。「信仰は聞くことにより、聞くことは神の御言葉による」。

再び繰り返そう――もし信仰を持ちたければ、ただ神と共にあれ。

再びあなたに思い起こさせよう。もし信仰――機能する圧倒的信仰――を、神の臨在とパースンから離れて得ることができたなら、人はそれを良いことではなく悪いことに用いていただろう。信仰を自分の栄光や勢力拡大のために用いることを望む人に、神は信仰をお与えにならない。主の御名の栄光と栄誉のために信仰を用いることを望む人に、神は信仰を分与されるのである。

歴史の回廊を遡ると、自分の神を失ったために自分の信仰を失った人々の多くの事例がある。ある人の信仰の深さと真実さは、その人がどれくらい神に近いかによって測られる。これは良く知られている事実である。それはあなたの知識量の問題ではなく、あなたがいかなる者なのかという問題である。栄光の大路が無学な人や貧しい人に開かれるよう、神は案配してこられた。信仰をもたらすのは、知的理解に触れることではなく、神とのあの麗しい親密な歩みである。神は、大昔に――罪によって関係が断たれる前に――園の中をアダムと共に歩まれたように、依然としてあなたと共に旅してくださる。

私の慎ましい務めの中で一度ならず、私は、人々が神の諸々の約束の一つを完全に得るよう、最善を尽くしてきた。われわれは祈ったが、答えは与えられなかった。その後、おそらく数日後に、彼らは新たな一歩と共に再び私のところにやって来た――彼らの目から新たな光が輝き出ていたのである――彼らの祈りの中に新たな響きが鳴り響いて、御座に昇った。すると、賛美の鐘が鳴り始めた。望んでいた事柄が実体を得たのである。そして、見えなかった事柄が確信となったのである。海の砂の上ではじける波のように、魂の浜辺の上で幸いと喜びがはじけた。なんという違いか!何がこの変化を生じさせたのか?彼らは神に近づいたのである。イエスご自身が弟子たちに教えられたように神の信仰を持つには、神ご自身を持たなければならないことを、彼らは発見したのである。

ただ神と共にあれ。神はあなたを失望させられない。ただ神と共にあれ。神はあなたを落胆させられない。神の臨在の聖なる近しさを感じるとき、御声の優しさと同情心あふれる口調に耳を傾けるとき、疑い・恐れ・不信仰は逃げ去り、その代わりに神はあなたに必要な信仰を分与してくださる。

あなたの苦悩、うめき、苦闘からではなく――御父の御心の鼓動から、あなたはあなたの信仰を得る。あなたがそれを得るのは、あなたにそれが必要だからだけでなく、あなたが彼を信じるからでもある。彼はそれを分与してくださる。ただ神と共にあれ。