十.神癒の信仰

チャールズ・プライス

今、重大な問題について見ることにする。すなわち、神癒の問題である。

われわれが生きている今日の教会の中に神癒の務めが引き起こす途方もない抗議を、私以上に知る人は誰もいない。数年前、神癒の務めの偉大な復興の波が地球上を覆った時、間もなく反対運動が組織され始め、あらゆる公正・不公正な手段がそれに反対して人々を説得するために用いられた。大勢の人によって数々の本が書かれた。風刺記事が新聞の欄を埋めた。そして宗教誌さえもが神癒の務めに反対する広告に次々と紙面を費やした。悪魔が怒っていたのだと私は信じる。悪魔はあまりにも怒っていたので、体の癒しに関する神の超自然的力を信じる信仰を撲滅するために、自分の持つすべての武器を使い始めたのだと私は信じる。

教会のフィラデルフィア時代の終わりに、神癒の務めの復興が訪れた。それは、伝道と聖潔のフィラデルフィア時代の栄光と力の自然な結果にほかならなかった。実際、堅固な信仰の持ち主である大きな教派の指導者たちはみな、神癒を心から信じる者たちだった。そして、彼らの多くが「神の力によって体の問題から解放された」と主張した。ジョン・ウェスレーは自分の雑誌を神癒で満たした。アンドリュー・マーレーは神癒に関する本を書いた。ジョン・ノックスは、松明のようにスコットランドを行き巡った時、神癒を実践して宣べ伝えた。ピーター・カートライトは神癒を宣言した。後年、知的力と霊的力を持つA.T.ピアソンがこの福音の真理を擁護した。

神癒に疑いの余地は少しもなかった――人々は神の力によって癒された。魂の救いのために、また伝道の炎を広げるために、神癒は最も大きな力の一つであることが証明されてきた。教会は何世紀ものあいだ神癒を目撃してきた。

悪魔が怒ったのも不思議ではない。神の力強い御業を人々は自分の目で見ることができたのである。祭壇はイエス・キリストを個人的な救い主として求める男女で満ちた。彼らは決してパンや魚を求めていなかった。ある人が「私の魂と心は変えられました」と証しした時、人々にはその人の証しの言葉しか手掛かりがなかった。おそらく、その人の生活がその証しを実証し始めるようになるまではそうだった。しかし、足なえの人が飛び跳ね始め、おしの人の舌が解かれた時――罪深い人々ですら驚いて目を見開いた。そして、世人はイスラエルに神がおられることを知り始めた。使徒たちの時代と同じように、人々は一緒に駆けつけてきた。それは、起きた神癒について耳にしたからである。このようにわれわれの生きている時代に神癒が始まったのである。

公の神癒の務めの究極的目的は、人々の体を癒すことだけでなく、彼らの魂の救いのために彼らを神にもたらすことだった。魂の救いは体の癒しよりも無限に重要である。健康な体を得ても自分自身の魂を失うなら、それにどんな益があるというのか?

ペンテコステの日以降、聖霊に満ち、信仰と神の力に満ちていた弟子たちは、病人のために祈り始めた。彼らは、人々を引き寄せ、それから素晴らしい愛という神の福音を人々に宣べ伝える手段として、神癒を用いた。リバイバルの火が諸大陸を一掃し、海を越え、至る所の島々を侵略したのも不思議ではない。

これが神の計画だったことに、私の頭脳は少しも疑いを抱いていない。神は当時神癒を用いられた。当時神癒が合法的だった以上、今も神癒を神は是認しておられることは確かである。しかし数年後、ヨハネは彼の霊の中で、終末の時代に起きる悲劇を見た。彼がパトモスの孤島に座って、押し寄せる悲しげな海の波の音を聞いているとき、神は彼に輝かしく素晴らしい啓示を与えられた。その啓示は、かつて人に与えられた同様の霊的啓示をことごとく上回るものだった。ヨハネは、フィラデルフィアの経験という山頂に立つ輝かしい教会――それを見るのは栄光であり素晴らしかった――が、敵の爆撃に圧倒され始めるのを見た。

この砦に向かって軍勢を導いたのは色欲の悪魔ではなかった。フィラデルフィアのこの山頂を席巻したのは飲酒の悪魔や悪徳の悪魔ではなかった。地獄のこの兵士は何の武具もまとっていなかった。その代わりに、彼らは説教者という装備をまとい、彼らが語るときその舌を蜜の中に浸したのである。悪魔は理屈や知恵という自分の特使を遣わした。そして、その特使たちはこう宣言した、「フィラデルフィア、万歳、私たちは主の御名の中であなたのもとに来ました。私たちは、あなたが一度も発見したことのない真理の啓示者です。私たちは、あなたの知らない知識の布告者です。私たちは神の友であり、いっそう深い理解――あなたがこれまで理解したことのない御言葉の合理的解釈――をあなたに示すことを願っています」。

フィラデルフィアは屈し始めた。それはすぐに祈りの集会を閉じて、科学に関する講演に耳を傾けた。次に、誰かが信仰を求めても、信仰は去ってしまっていた。光はゆるやかに消えて行き、新しい研究の道に容易に誘われていった。そしてとうとう、ラオデキヤの谷の中に落ち込んでしまった。それは昔の形式を保っていた。それは詩歌を歌った――それはかつてのような祈りを祈った――同じ種類の建物を建てた。しかし、何かがなくなっていた。あるいは、何者かを失っていた。それは聖霊の力と臨在だった。そのため福音主義は講壇を去り、理性が演壇の階段を登った。そのため信仰は評議員会から追放され、知性偏重主義が説教を始めた。そこに血による救い、肉体を伴う主の昇天、栄光の雲に包まれたイエスの個人的出現は一切なかった――そうしたものは一切なくなってしまった。神癒に関しては、多少は存在していたとしても、それは過ぎ去りし時代のためのものだった。

誰かが癒された事実を証ししても、終末のパリサイ人たちは「彼が悪魔どもを追い出したのは、悪魔どもの君であるベルゼブブによってである」と言った。

母親たちが、その頬に涙を流しながら、私のところにやって来た。彼女たちが泣いていたのは、自分たちの息子や娘がますます不信仰になっていくためだった。彼女たちの十代の息子や娘は、私の机のそばに座って、「私は、この素晴らしい昔ながらの書物が逐語霊感によること、そして、その中に記されている神の超自然的力に関するすべての記事を依然として信じています」と私が彼らに告げた時、面と向かって私を笑った。彼らは母親を笑い、母親のことを時代遅れと呼ぶ。また、父親をからかって、「彼はとても良い父親だが、その宗教的信条は時代遅れである」と告げる。近代主義的な説教者は彼らを支持し、「わたしたちは、この特定の時代の大学の必要に適う福音を持たなければならない」と告げる。

何という悲劇か!天の御使いたちは、このような恐ろしい光景を思う時、その顔を隠さずにはいられない。私に関して言うと、今日の若者の霊的過失に寄与したこれらの知的巨人たちの靴を履くよりは、この道を知らない方がましだっただろう――講壇の階段を登らない方がましだっただろう。彼らは大声で長々と滅びゆく体について説教し、その間、神を信じる信仰を破壊して、魂を滅ぼすのである。

私の親愛なる若い友よ、この本を手にしたあなたがもしそのような人なら、私はあなたに反論できない言葉を一言与えよう。プリンのおいしさは食べてみればわかる。福音の正しさはその効力によってわかる。聖書の正しさはその諸々の約束が成就される事実からわかる。あなたが祈っても、神が一度も答えてくださらなかったのなら、あなたの疑いには根拠が少しはあったかもしれない。どれほど熱心に祈っても、一つも応答がなかったのなら、「神は存在しない」というあなたの仮定には根拠が少しはあったかもしれない。あなたが祈って神がそれに答えてくださる時、神は存在するにちがいないことをあなたは知る。あなたが癒しを求めて祈り、そして癒しが実現する時、どこかに癒し主がおられるにちがいないことをあなたは知る。

私は心を尽くしてあなたに保証する。もしあなたが、たとえ疑いや不安の中にあったとしても、十分正直かつ誠実にやって来るなら、神ご自身が正直さと誠実さのその小さな揺らめく炎――それがあなたの胸の内にあることを私は知っている――を受け入れてくださる。

この課題をあなたに与えよう。聖書があなたになすよう告げていることを実行するなら、経験するようになると聖書があなたに告げていることをあなたは経験するだろう。神はご自身の解き明かし手であり、あなたがこれまで理解したことのない諸々の霊的真理を明らかにしてくださる。

神癒の領域でも同じである。他の人々は中傷し、疑いと恐れの種を蒔く――他方、神は依然として人々を癒しておられる。今日、エホバ・ラファの奇跡的・超自然的な癒しの力を証しできる生存者が数万人いる。これらの事例の多くはとても明白なので、最も厳しい神癒の敵対者たちですら、人々が癒されたことを認めないわけにはいかない。ああ、その癒しの感触を感じた人にとって、イエスは何と実際的で素晴らしいことか!しかし、愛して癒してくださる救い主がそれをなさったことを、彼らは否定する。