十一.癒しのための信仰

チャールズ・プライス

イエスの人間性は私を圧倒する――われわれの人間性に関する彼の理解、その大いなる優しい心、その無限の麗しい同情は私を圧倒する。彼は痛んだ葦を決して折らない。彼が煙る燈心を消したことを告げる記事は聖書に一つも無い。砕けた心を彼は決して蔑まれない。ごく微かな叫びでも、彼は同情して耳を傾けてくださる。

この人が語ったように語った人がかつていただろうか?このように愛した心がかつてあっただろうか?神たる方が、その神性を人性という衣で包んで、多くの発熱している額の上に人の手を置かれた。素晴らしいイエス――御父のかたちそのもの――が来臨して癒しの水を流してくださった。そこから渇いた心の持ち主は誰でも飲むことができた。素晴らしい、素晴らしいイエス!

記録は彼の癒しの務めの物語でまさに満ちている。それらに関して聖書はとても明確である――それらは肉体のための癒しの奇跡だった。第二に、彼は弟子たちに、癒しの務め――それを彼は弟子たちに分与しておられた――を続けるよう命じられた。明快かつ平易な言葉で、弟子たちは病人の上に手を置いて回復させるよう命じられた。事実、癒しは信じる者たちに伴うしるしの一つだった。聖書はとても明快でとても平易なので、子供でも理解できる。癒しにはその裏付けに必要な権威がすべて揃っている。なぜなら、これらの御言葉はイエス・キリストご自身によって語られたからである。

次に、イエスの死・復活・昇天の後、弟子たちは主が彼らにするよう命じられたことをまさに行った。彼らが病人のために祈ると、病人は癒された。使徒行伝は、病んでいる人々の体に健康を回復することに関する、神の奇跡を行う力の記事で満ちている。様々な書簡の中で神癒は明確に教えられている。また最初の奉仕者団体の初代総裁である使徒ヤコブは、この問題における教会の立場について、はっきりと力強く記した。ヤコブ五・一四は依然として丘の上の灯台として立っており、体の病気や痛みで苦しんでいるすべての神の子供に、ありがたい真理の光線を照射している。稲妻が閃き、雷が轟き、不信仰という嵐がその岩の麓に打ち寄せている。しかし、この灯台はなおも輝いている。使徒時代の終わりにヤコブ五・一四は存在していた。われわれが生きている今日もヤコブ五・一四は依然として存在している。地獄の悪魔ども、信じない人々、信仰無き説教者たちは、その光を消すことに皆失敗してきた。

パウロの数々の書簡は、これらの偉大な真理をさらに進めて、諸々の証拠を加えた。この使徒自身の務めは、キリストの癒しの力の現われでまさに満ちていた。

この完成された本の御言葉に付け加えたり、それから差し引いたりすることのできた人はかつて誰もいなかったことを、私は御言葉自体から知っている。この霊感された御言葉に付け加えさせるような方法で、御霊が再び人の上に下ることはない。これは主が直接教えられたことである。聖書に関する限り、神の啓示された御旨は完結しており、最終的なものである。神の御言葉は完結していて霊感を受けており、御霊や自分自身の理解力によって、それから差し引く権威を与えられた人はこれまで誰もいない。

「神癒は教会から取り去られた」「病人のために祈ることは神の御旨に反する時が到来した」と宣言している章や節はどこにあるのか、私は神癒の批判者たちに尋ねたい。私は彼らに異議を申し立てる。これに関して主の命令は廃棄されたのであり、この使徒の教えは無に帰したのである、と人を導いて信じさせる聖書的根拠を私に一つ示してほしい。彼らにはできないし、できないことを彼らは知っている。それで彼らは立ち上がって言う――「半分の節は昨日のためのものであり、半分の節は今日のためのものです」と。彼らはあなたに「これは受け入れて、あれは投げ捨てよ」と言う。霊感されたページに批判の鋏をふるう権威を誰が彼らに与えたのか?神の御言葉から差し引く権威を彼らはどんな源から得たのか?

ここで信仰の出番である。信仰――輝かしい信仰――神が分与された信仰――は、熱い涙を通して諸々の時を見上げ、主の御言葉を手に持ってそれを天に向かって高く掲げ、「主よ、私は信じます」と言う。部分の中に全体を含めることが可能なら、人の精神が聖霊の助けなしに聖書を理解することも可能である。時間が永遠よりも長いなら、理性が信仰を退位させてわれわれの生活の皇帝として自らを確立させるにちがいない。

われわれの心という部屋から、不信仰や近代主義的解釈というガラクタやごみを一掃できる唯一の方法は、神を信じる信仰を行使することである。少しも躊躇せずに私は宣言する。信仰が欲しい人は、信仰を持つことができる。われわれは罪人である以上、空しく叫ぶ必要はない。神ご自身が諸々の約束を果たしてくださる。なぜなら、神がその計画を成就されたからである。知りたい人は、神の恵みによって知ることができる。極めて暗い所でも光は輝くことができるし、不信仰という霧で曇っている心にも理解力が臨むことは可能である。

神癒は主イエスご自身によって与えられてきた祝福である、という結論に到達する時、われわれは利己的欲求によって支配されているわけではない――いかなる感情にも動かされていない。もう一度繰り返そう。信仰は証拠に基づかなければならない。また、それを養い育むのに十分強力な基盤に基づかなければならない。

われわれの信仰の基盤的働きについて考える時、それが体の癒しに関することである時、哀れな病人はみな喜びのゆえに叫ぶべきである。それは勝利をもたらす叫びである。それは壁を崩す喜びの賛歌である。神の御言葉の約束に基づいて、体の救いのために祈るのは、実に素晴らしいことだろう。そうする時、われわれはそのような感覚を覚える。しかし、イエスの贖いの務めを通してそれはすでに買い取られているがゆえに、われわれは体の癒しを受け取ることができる、と信じるのはさらに素晴らしいことである。

神癒は疑いなく、主イエス・キリストの贖いの御業の不可欠な部分である。次にあなたが、あなたの教会の団体――それはキリストのからだである――を構成するあなたの兄弟たちと共に、あの聖なる食卓の周りに集う時、二、三のとても重要な問いを厳粛かつ誠実に自問してほしい。なぜイエスはぶどう酒とパンを区別されたのか?なぜ彼は、「これは私の血である」と言い、それからまた「これは私の体である」と言われたのか?その血は諸々の罪の赦しのために流されたのだとすると、同じ理由でその体も裂かれる必要があったのではないだろうか?「その血はあなたたちのために流されたものである」とイエスは述べられた。そしてそれに加えて、「この体はあなたたちのために裂かれたものである」と述べられたのである。

贖いの意味のまさに核心にある言葉は、身代わりという言葉である。創世記から黙示録まで、聖書はこの輝かしい真理を告げる予型や本体で鳴り響いている。私が永遠に生きるのはなぜか?イエスが私の死を死んでくださったからである。私が御前で聖潔の中を歩めるのはなぜか?彼が私の罪をすべて負ってくださったからである。不法という咎から私が贖われ、救われたのはなぜか?イエスがポンテオ・ピラトの裁きの間で私の咎を担い、私の諸々の罪を負ってくださっただけでなく、それらを神の法廷の前でも負ってくださったからである。

「主にあって喜べ」と御言葉の中で使徒パウロによって指示されているのはなぜか?イエスがわれわれの悲しみをすべて負ってくださったからである。現在の事柄について思い煩ってはならない、と指示されているのはなぜか?彼はわれわれの不安を取り除いて、将来のための御約束をわれわれに与えてくださったからである。

彼が私の罪を担われた時、彼は私に彼の無罪性を与えてくださった。彼が私の咎を負われた時、彼は私に彼の聖さを与えてくださった。愛する人よ、もしあなたがその基礎の中から、身代わりと代贖というこの二つの輝かしい言葉を取り去るなら、贖いの教理に関する上部構造はすべて崩壊するだろう。これから必然的に次のことが導かれる。身代わりが罪からの解放に関して贖いの主要な教理だとすると、それは病からの解放に関しても不可欠な教理であるにちがいない。言い換えると――イエスがわれわれの諸々の罪の贖いのためにそれらを負われたことが事実である以上、彼は必然的にわれわれの諸々の病をも負われたにちがいない。彼が諸々の病のために同じ方法で贖いをなそうとしておられた以上、そうであるにちがいない。

一つのことは大いに確かである――もし癒しが贖いの中に含まれていないなら、クリスチャンは癒しを特典として祈り求めることしかできない。しかし、もし癒しが贖いの中に含まれているなら、クリスチャンは癒しを遺産として要求できる。もし癒しが贖いの中に含まれていないなら、癒しの問題はとりなしの問題になる。もし癒しが贖いの中に含まれているなら、それは受け取る問題になる。信仰が無ければどうして受け取ることができよう?いくら想像を広げても、信仰による以外、誰もこの祝福の受け取り手にはなれない。

あなたの側で信仰を少しも行使しなくても、神はあなたに癒しを与えることができる、とあなたは私に言うのか?神にそうしてもらうことを、とても多くの人々が期待している。しかし、神はそのような方法では働かれない。もし神がそうされるなら、あなたは御顔を求めようとするだろうか?祈ろうとするだろうか?単調なこの世から去って、あなたの密室の中で一人で両手を神に向かって上げるだろうか?あなたたちの中には自分の聖書をわざわざ読もうともしない人もいる――神が健康を携えてあなたのもとに訪れ、あなたの病を癒されたとしても、あなたはそのことを神に感謝するために立ち止まろうとすらしないだろう。こう述べるに足る人間性に関する知識を私は持っている。

かつてある人が、これと同様の私の宣言に反駁した。「このような祝福の受け手になるなら、主に感謝しないほどの忘恩の徒になる人は、どんな環境下だろうと、地上に一人もいませんよ」と彼は宣言した。私はその人と夕食を食べたのだが、彼はその食物のゆえに主に感謝する時間を少しも取らなかった。彼にパンとじゃがいもを渡した時、「神の才と力から発した二つの奇跡をあなたに与えます」と私は彼に言った。彼は私に「私がそのじゃがいもを育てたのであり、私がそのパンを買ったのです」と言った――しかし神ぬきで彼に何ができただろう?この会話の間、彼の草むらを歩いて周った時に神が私の心に与えてくださったメッセージを私は示した。

その牧場には馬、羊、鶏、豚、羊がいた。それらはみな同じ草を食べていた。同じ水を飲んでいた。この同じ同一の水と食物が、どういうわけか、馬の力、牛のミルク、鶏の卵、羊の背中の羊毛、豚のベーコンとなった。そこで、私は「これは奇跡だと思いませんか?」と私の友人に訪ねた。「自然はそういうものですよ」と彼は答えた。しかし、いわゆる自然の背後には超自然が存在する。被造物の背後には創造主が存在する。一方を持つには他方を持たなければならない。彼はそこで、それは奇跡であることを認めた。その食卓の上の食物、彼が背中に着ている衣服、彼が自分の家を建てた木材の背後には神がおられた。神はまた、彼の横のコップの中に入っている水の与え主でもあった。そこで私は「どうしてそれらのゆえに神に感謝しないのですか?」と彼に尋ねた。彼は何も答えなかった。しかし、彼がその問いに答える日が来るだろう。