十三.信仰と働き

チャールズ・プライス

さて、信仰と働きの関係についての学びをすることにする。そのような関係があることに少しも疑いはない。ヤコブ二・二〇は、行いの無い信仰は死んでいる、と告げている。このとても注目すべき素晴らしい章の中で、信仰は知的同意を超えたものであり、心で信じることすらも超えている、と彼はわれわれに告げる。

信仰は信じるだけでなく行う。悪魔どもも信じている、とヤコブは告げる。彼が示唆しているのは次のことである。すなわち、もし信仰が信念以上のものでないなら、悪魔どもも信仰を持っている、と言えるだろうということである。しかし、信仰は諸々の事を成就する。信念の場合、何も成就しないことがありうる。「今晩八時に地元の空港を発つシカゴ行きの飛行機がある」と言うことはできる。しかし、それを私が信じている事実は、私をイリノイ州にあるこの大都市に連れて行ってはくれない。

現代の教会が抱えている問題の一つは、信念は持っていても信仰を持っていないことである。信仰の中に信念が含まれることは疑いない。しかし、信念が増し加わって獲得する信仰となるには、信念は行動に移されなければならない。あなたは自分の行いによって自分の信仰を証明することができる。信仰は、あなたになすべきことを果たさせることによって、自らを証明する。

信仰には実体がなければならない。信仰は必然的に自らを表わさなければならない。そして、信仰が現わされる時、それは行いによってでなければならない。信仰には常に行動が伴う。信仰は生ける、活力のあるものであり、行動し、獲得する。信仰は活動で脈打っている――霊の命で鼓動している。

しばらくの間、ヘブル一一章に記録されている実例のいくつかを調べることにしよう。この章は聖書の偉大な信仰の章である。

与えられている最初の事例は、良い報告を受けた長老たちの中の一人についてである。出エジプトの物語を見ると、彼らの報告に関して信仰の言葉についての言及がまったく無いことに気づく。彼らは自分たちの行いによって自分たちの信仰を示したのである、とパウロは告げる。

われわれは次にアベルの信仰について読む。アベルはカインの供え物よりもまさったいけにえを神にささげた。しかし創世記四章に行ってその出来事について読むと、信仰の言葉についてはまったく述べられていないことがわかる。パウロは再び「自分のいけにえを主にささげた時、アベルには信仰があったのである」と告げる。彼は自分の行いによって信仰を示したのである。カインがささげた供え物は主の不興を被ったが、その供え物は間違いなくこの罪深い人の理屈の産物だった。アベルは自分の行いによって自分の信仰を証明した。しかし、旧約聖書の記事では、そのような信仰に関して何の言及もない。

ヘブル一一・五を読むと、信仰によってエノクは死を見ることがないよう移された。しかし、エノクの生涯に関するこのとても短い記事を読むと、彼に関して信仰の言葉は全く述べられていないことがわかる。われわれ全員が知っているように、彼は黙示録的な数々の裁きの前に移される聖徒たちの型である。彼は不法と邪悪の時代の中に生きていた。彼は不信仰な時の中に生きていた。いかなる環境や状況にもかかわらず、彼は神と共に歩んだ、と聖書は告げている。ある日、彼は歩きに出かけて、戻るのを忘れてしまった。聖書は告げる、「彼はいなくなった。神が彼を取られたからである」と。パウロは、ヘブル人への彼の手紙の中で、「彼の行いは信仰だった」と強調して告げる。それを信仰たらしめたのは、彼が信じていることだけではなかった。信念が活動によって力づけられ、成長して信仰になったのである。信仰は自らを表わさなければならない――実体がなければならない――行動の中になければならない。

さて、ノアについて見ることにする。彼は旧約聖書の偉人たちの立派な群れの中の一人である。パウロは過去の歴史の中から、信仰の一つの例として、彼を当時のヘブル人たちの目の前に示す。箱舟の建造と洪水の到来についての記事(創六~九を見よ)を読むと、信仰についての言及はまったく見あたらない。主が昔のノアに述べておられるのは、「なぜなら、この世代の中で、私はあなたが私の前に義しいのを見たからである」ということである。友人たちの冷やかしや理性の使徒たちの批判にもかかわらず、彼は主の御言葉に従順に前進して、自分の箱舟を建造した。数千年後、パウロはヘブル人たちに書き送って、「それは信仰だった」と告げた。

そして彼は続けて一つのレースについて思い起こさせる。過去の世代の父祖たちの信仰に対する疑いと恐れの只中で、そのレースは霧で覆われて見失われていた。彼は彼らに告げる。パウロの時代のヘブル人たちは神の諸々の約束の受け取り手になったが、この人々はそのように約束を受け取る前でも信仰を行使したのである、と。

ヤコブとパウロの両者が教えているのは、「信仰は、それが信仰であるためには、行動の中になければならない」ということである。これに疑いの余地は微塵もない。何かを成し遂げるには、あなたは何かをなさなければならない。事をなさなければ、あるいは、究極的完成に少しでも向かっていなければ、一体どうして何かを成就できただろう。信仰も同じである。

信仰は行動する――何かをなす――先に進む。われわれが信仰を用いる時、その力は増す。今日流れているその小川は、明日には圧倒的な川になるかもしれない。しかし、もし水たまりの土手の中に閉じ込められるなら、それは決して川になれない。ナプキンの中にタラントを隠して地面の中に埋めるなら、それは決して増し加わらない。むしろ、あなたが持っていると思っているこの宝は錆びついて台無しになるおそれがある。同じように信仰のタラントも、もし隠されて埋められるなら、衰退して命なき信念になり始める。そして徹底的に劣化して、不活発さのせいでなくなってしまう。

信仰を働かせよ。洪水の水が到来する前に箱舟を建造する信仰は、生き永らえて、神の御言葉の正しさが証明されるのを見る。

先に進む信仰、快活な勝利の歩みと勝利のラッパの音と共にエリコの城壁の周りを行進する信仰は、毎回エリコの城壁を打ち破る。

決して振り返らない信仰、未知の未来という道にアブラハムを連れ出す信仰は、神がこの族長に裔を送られたように、おそらく海の砂のような無数の祝福をもたらす。彼は未来のために現在を放棄した――約束されたもののために自分が持っているものに別れを告げた。

試みの中にある信仰――人々がダニエルをライオンの巣に連れて行った時にダニエルを鼓舞した信仰――は王の宮廷の扉を開き、神の敵どもの狙いを挫く。

進軍する信仰は一度に一歩進む。たとえ、パロの戦車の車輪が後ろに轟き、一見渡れないように見える紅海が近くに迫っていても。しかし、進軍する信仰は常に勝利の山に座して、ミリヤムとそのはしためたちに耳を傾ける。彼女たちは解放の歌を歌い、賛美のタンバリンを奏でる。

それゆえヤコブは問う、「自分には信仰がある、とあなたは言うのですか?あなたはそれで何をしていますか?」。彼は知りたがっている。もしあなたが彼に「私は何もしていません。私は信仰を持っているだけで、その信仰は何も成し遂げたことがありません――結果を得たことがありません」と告げるなら――使徒は「その信仰は死んでいる」と宣言するだろう。

しかしあなたが彼に「私には信仰があります。私は自分の信仰を働かせているので、その信仰には効力があります」と言う時、ヤコブは喜んで主を賛美するだろう。信仰に効力があることを証明する方法は、あなたの信仰を働かせることである。信仰に実体を与えよ――それを働かせよ―― 一トンの信仰を待っていてはならない。神があなたに与えてくださった一オンスの信仰を用いよ。ある人が多くの都の支配者になるには、まず一つの都に対して忠実であることを実証しなければならない。しかし、もしその人が神が自分に与えてくださった都の扉を閉ざして、その都の住人たちが無関心と無気力の中で眠っているなら、ジョージ・ミュラーになることは決してないし、活発な獲得する信仰の力を知ることも決してないだろう。

神の御言葉の基礎の上に立って、私はあなたに宣言する。すべてのことが――何がしかのことではなく――すべてのことが信じる者には可能なのである。

祈る時、われわれは信仰の中で求めるべきである。そして、その信仰の中に疑いの要素があってはならない。信じる者にはすべてが可能である――なぜなら、信じることは神を信じることだからである。イエスはわれわれの信仰の創始者であり完成者である。