第一章 私が信じていること

チャールズ・プライス

何年もの間、何かが間違っていることが私にはわかっていた。それが何なのか、私は今わかった。聖霊ご自身が、とまどう私の目の前に、ずば抜けて素晴らしい一つのビジョンを示してくださったからである。そして初めて、われわれが信仰と称しているこの恵みの核心の中に、私は新たな主の麗しさと栄光を見ている。私は信仰を恵みと呼ぶ。それこそまさに信仰だからである。われわれは、自分の心と知性の盲目さのゆえに、信仰を霊の領域の中から取りだして、自分のしていることもわからずに、それを形而上学的な領域の中に置いてしまった。諸々の感情や願望からなる勢力が信仰を心の中から追い出して、冷たい不毛な知性の回廊へと押しやってしまった。

なぜわれわれの祈りはかなえられないのか?なぜこんなにも多くの人が、彼らのためにいわゆる信仰の祈りがささげられている事実にもかかわらず病んでいるのか?なぜわれわれの諸教会は歩けない人やびっこの人、耳の聞こえない人や目の見えない人でいっぱいなのか?彼らは座って神癒に関する説教を聞いており、神癒は御言葉にも主の約束にもかなっているのだが、それでも癒されないのである。

こんなことが一度ならずあった。集会から家に戻ったとき、耳には勝利の叫びが鳴り響いていた……しかし、私は家に帰って泣き叫んだのである。落胆して、私の主に向かって泣き叫んだのである。群衆は叫んでいた。何人かは癒されたからである。しかし、私は泣いていた。それは、疲れた病気の体を引きずって家に戻った人々のためである――彼らは集会に来る前と同じくらい困窮した状態で家に戻ったのである。

ギレアデに香油はなかったのだろうか?御手に釘の傷跡を持つ人なる御方の心の中には何の思いやりも同情もなかったのだろうか?なぜ奇跡的な方法で癒される人がいる一方で、他の人々は「信じ続けなさい。後で戻って来て、またこの一連の過程を通りなさい」という要請と共に解散させられるのか?

われわれは事実に直面しなければならない。神学と経験の間の明らかな不一致を肩をすくめて片付けて、このきわめて重要な問題に関する光と導きを求めるのを拒むことを、聖霊は喜ばれない。ただ真理だけが、恐れ、疑い、失望の道の最終的結果である落胆から、われわれを解放できる。真理を得る唯一の道は、誠実で全く正直な心と思いをもってイエスのもとに行くことである。われらの主は、「わたし自身が真理である」と仰せられた。われわれが心の扉を彼に対して開くとき、彼の臨在だけがもたらせる甘い啓示が可能になる。

だから、私は大いに率直になろう。そうすることが痛ましいものになりかける場合も、おそらく時々あるだろう。そうせずに、本書の各ページで自分の心情を吐露することはできない。なぜならいまだかつて、著者としての私の務めの中で、今ほど自分の内なる存在が掻き立てられている時はなかったからである。この輝かしい素晴らしい真理が私の魂の中に溢れている。この真理は霊の中で私を引き上げて、栄光の世界の門に至らせるほどである。これらの章を読み終える前に、あなたも恵みの門が開くのを目にし、そして信仰の道を歩んで、かなえられた祈りという園であなたの救い主とまみえる所に至らんことを、私は信じているし祈ってもいる。

私は無謬の衣をまとった教条主義者になるつもりはないし、批判というインクに浸された嫌味なペンの振るい手になるつもりもない。むしろ、感謝に満ちた神の子供になりたい。そのような者に聖霊は、長年のあいだ曇りガラスを通して微かに眺めてきた或る問題に光を与えてくださった。しかし今や、「あらゆる良いものと完全な賜物の与え主」の愛により、あの麗しい信仰――イエスが語られただけでなく、人々に分け与えてくださる信仰――の正真正銘の意味についての理解力が私に臨んだのである。

この啓示は私の諸々の疑問に答えてくれた。それは私の諸々の問題を解決してくれた。それは私の主に対する私の愛を深め、心と命を主に明け渡す私の明け渡しを強めてくれた。それは私の癒しの務めに革命をもたらしてくれた。なぜなら、この啓示は自己の無力さと、イエスの臨在、愛、恵み、信仰の必要性を、私に啓示してくれたからである。

だから、私は告白したい。「群衆が叫び、歌い、勝利を宣言している時でも、私の心は重かった」と私は告白したい。イエスの癒しの御手の接触による奇跡の事例も私は見ることができた。そのような事例は彼の超自然的力の顕現だった。そうした事例のゆえに、私はどんなに喜んだことか。これらの事例は今日、不動のものとして確立されている。こうした奇跡は数百万件あり、イエスは本当に昨日も今日も永遠に同じであることを決定的に証明している。御言葉を証明するために経験に信頼するべきである、ということではない。そうではなく、かなえられた祈りの実例を目にすることができるのはとても幸いなことである、ということである。しかし、そうした幸いな集会から帰宅する時ですら、懇願する哀れな人々の顔が私を悩ませたのである。彼らが最善を尽くして車イスから立ち上がろうとするのを私は見た。だが、悲しみと失意のうちに再び座り込んでしまったのである。うめき声や叫び、祭壇の周りのとりなしの祈りに、私の心は揺れ動いた。そして、奉仕が終わった後、数日間、それらが私にまとわりついたのである。

あなたも同様だろう。あなたの教会にも、病気で困っている群衆がいる。彼らは主を愛している……彼らは主にささげきっている……それにもかかわらず、祈りをかなえてもらって肉体上の重荷を大いに取り去ってもらう必要があるように思われる。福音の奉仕者たちは私を何回も脇に引き寄せて、彼らの落胆ぶりについて告げた。彼らは神を信じる積極的信仰を行使できないらしい、というのである。困っている人が来て栄光が下ることがたまにある、という事実がなければ、これらの奉仕者たちの多くは、祈りのお願いが寄せられるたびに、逃げ出したくなっていただろう。この人々は神の人ではない、ということではない――彼らは神の人である!彼らは自分の召しに対して忠実であり、主に対して忠実である。なのに、御言葉と経験との間の矛盾と思しきものを前にして、困惑して立ち尽くしているのである。

「イエスは決してしくじらない」と歌った後にもかかわらず、祝福の後に病人が痛み、病、病気をかかえたまま出て行くのを見るのは、全く正しくないように思われる。懇願する者に「ただ信ぜよ」と言って去らせることと、この問題を自分の頭と心の中から追い払うこととは、別の問題である。もしあなたが神の御前で本当に心から正直なら、そうだろう。癒しが起きる前に、信仰や約束に基づいて癒しを証しすることは、ほとんどの場合、賢明なことではないし、信仰が実際にはない場合、決して許されることではない。信仰があったとしても、二重の声で証しできる方が遥かに優っている。その二重の声とは、一方は賛美と感謝という耳に聞こえる声であり、他方は肉体的症状という耳に聞こえない声である。

信仰―― 一粒のからし種ほどの重さの信仰――には、断固たる意志や決意に満ちた心以上に効力があることを覚えよ。太陽が光と熱を伴わずに輝くことはないように、真の信仰が結果を生じないことは決してない。これを理解して、その正しさを信じるとき、われわれが誤って信仰と称しているものは何なのか?なぜなら、真の信仰が結果を生じないことは決してないからである。私の心は次のことを納得している。すなわち、神の子供たちの多くは信仰と信条の違いを見ることに失敗しているのである。癒しを信じることと、癒しのための信仰を持つこととは、全く別の問題なのである。

こういうわけで、こんなにも多くの困窮した信者たちが、主の約束と御言葉に基づいて主のもとにやって来て、自分が癒されたことを何度も何度も何度も確認しようとするのである。

われわれの困難

ここにわれわれの困難がある。信仰は心の中に神が与えてくださる恵みなのに、われわれはそれを心の状態にしてしまったのである。兄弟たちよ、われわれの態度と実行は何度も何度も間違っていたのである。神の偉大な恵みと真理という黄金の陽光がわれわれの心と思いに溢れて、幸いな聖霊の力によってわれわれが神の愛の備えを見る時、われわれの奮闘やもがきは終わり、われわれの生活は神の平安の衣で包まれる。この幸いな時に、われわれは理解する。われわれが信仰を受けることができるのは、神がそれを賜る時だけであることを。もはやわれわれは、信じようと愚かにも奮闘したりしない。人生というガリラヤ湖の上に、嵐の代わりに甘美な麗しい静けさが生じるのである。

弟子たちは奮い立っていきりたち、荒れ狂う嵐を静めようとすることもできただろう。しかし、イエスが発した三つのささやかな言葉により、風は暴風からそよ風になり、海は母親の腕の中で泣き叫ぶ子供のようにしばしの間すすり泣いた後、静まって自然の胸の中で眠りに落ちた。イエスが三つのささやかな言葉を発すると、風と海は彼に従ったのである!弟子たちは信じることを決意して、無数の命令や叱責の言葉を発したが、嵐はそのような弟子たちを前にして笑っただろう。嵐は自分の方が弟子たちよりも強いことを知っていたからである。

イエスが発した三つのささやかな言葉……彼の神聖な御手による一つの接触……すると稲妻の閃光の間に、千年間に及ぶわれわれのあらゆる奮闘や精神的努力が成し遂げる以上のことが達成される。彼はそれをとても簡単にしたかったのに、われわれはそれを難しくしてしまった。哀れな困窮した魂が、信仰とおぼしきものを行使しようと懸命にもがいているのを見るとき、私の心はどんなに痛んだことか…それはそのような方法では成就しないことを、私は心の奥底で知っていたからである。さらに、得ることを切望してもがく過程やその結果によっては信仰は働かないことを私は知っていたのである。

そのような時、何かを述べるのはとても困難だった。それは確立された体系や方法を放棄することを意味したからである。長年のあいだ、不必要に信仰の行使と結びつけられてきた或る諸々の顕現を廃止することを、それは意味した。また、それは次の結論に達せざるをえないことを意味した。すなわち、誠実な努力の道の終点に達しても、受けることを祈り求めて努力を重ねてきたものを受けないなら、自分の魂や心構えに何か問題があったのであり、さもなければ勝利が勝ち取られていたであろう、という結論である。

われわれのどこが間違っていたのか?どうして、不安の中でとまどい困惑して立っている人々がこんなにも大勢いるのか?この人々はついには、おそらく、心という園の中に疑いが入り込んで、イエスへの信頼の扉を静かに閉ざしてしまうのである。

自分はその答えを知っていると思う!何が間違っていたのか発見したと、私は確信している。こんなにも多くの人がどこで道を見失ったのか、いま私にはわかる。なすべき唯一のことは、「分かれ道まで私たちを導いて戻してください」と御霊に求めることである。その分かれ道で、盲目さゆえに、われわれは本道を外れたのである。そうするなら今一度、われわれは王の恵みの大路を歩むことができる。そして、聖書は真実であり、イエスは決してしくじらないことを、われわれは自分の心と経験で証明することができる。これを覚えよ!もし失望や失敗があったなら、それはわれわれの責任であり、この御方の失敗ではない。この御方は今日、御父の御座の前でわれわれを擁護してくださる方なのである。