第二章 すべての奮闘がやむまで

チャールズ・プライス

主な困難の一つは、信仰は神ご自身によって心に分与されるもので、受け取ることしかできないことを、われわれが理解しそこなってきたことである。あなたには信仰があるかないかのいずれかである。あなたは信仰を造り出せない……信仰を完成させることはできない。約束を信じていたとしても、それと同時に、それを適用するための信仰を持っていないおそれがある。しかし、われわれは信念によって適用しようとする習慣を培ってきた。信念は精神的性格のものであること、そして、ある経験を信じ込もうとするなら形而上学的領域の中に入り込んでしまうことを、われわれは忘れていたのである。

しかし、信仰は霊的なものである……温かくて活力がある……それは生きており、脈打っている。信仰が主によって心の中に分与される時、その力に抗うことはできない。人が信じて義とされるのは心によってである。心に信じることは、われわれと主との間の交流の扉を開き、こうして神によって分与された信仰が可能になる。

われわれのほとんどにとって、信仰の観念は信じようと苦闘する結果になっている、というのは事実ではないだろうか?もしかすると、そのような苦闘により、われわれは堅く信じる境地に最終的に至ったかもしれない。しかし次に、祈り求めたものを受けなかった事実にとまどうのである。このような信念は霊感された御言葉が信仰と呼ぶものでは必ずしもないことを、われわれは理解しなければならない。後の章で、この警告の正しさを疑いの影が少しもなくなるほど証明する、多くの御言葉をあなたに示そう。

神の御言葉によると、われわれに必要なのはからし種一粒ほどの信仰だけである。この信仰があれば、この世が「信じられない、不可能だ」と言うことが起きる。われわれが導いた諸々の集会の間、聖書の物語が目の前で実演されるのを、われわれは何度見てきたことか!

マタイによる福音書十七章は、対比を示す章である。それは高みに登り、それからどん底に落ちる。この章は、からし種、絶望と変容の山々について告げる。しかし、この貴重な御言葉を通して、聖霊は信仰というこの偉大な主題に関して、あなたや私になんという教訓を与えてくれることか。変容の山の頂上から、われわれの祝された主は降りてこられた。天の門から降りてこられた。そこでは、栄光のそよ風が主の頬に口づけし、天使たちは光の織機で織られた衣で主の肩を包んだ。主は聖なる交わりと励ましの場所から、人の敗北とおそらく絶望の場所へと下られた。栄光の山の麓に谷があって、それを縫って人の困惑という小道がうねっていたからである。

そこに病があった。打ち砕かれて血を流している心がそこにあった。障害に遭遇して、霊も心も打ち砕かれた一人の父親がそこにいた。説教者たちもそこにいた。彼らは処方箋どおりに行った。悪魔を叱責した。われわれが何度もしてきたように、叫び、うめいた。しかし、彼らが祈り求めたことは決して起きなかった。あなたや私と同じように。

その時、イエスが語られた

その時、イエスが語られたのである!ああ、万能の輝かしい御言葉!神聖な権威ある比類ない御言葉!イエスの場合、何の苦闘もなかった。心砕かれた父親の祈りをかなえるのに、うめきや、長く激しい戦いは何もなかった。イエスは語られた。悪魔は逃げた。幸いな少年は、父親の腕の中に抱かれて、すすり泣きつつ神への感謝を言い表した。幸いな父親は少年を抱きしめて、涙が滲んだ愛と崇敬の眼差しで、その前から悪魔が逃げ去った人の顔を見た。

すると再びイエスは語られた!敗北に関する弟子たちの質問に答えてイエスは仰せられた、「それはあなたたちの不信仰のせいです。まことにわたしはあなたたちに言う、もしあなたたちにからし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここから向こうの場所に移れ』と言うなら、そのとおりになります。そして、あなたたちにできないことは何もないでしょう」。なんという宣言だろう!われわれに必要なのは、一粒のからし種のような信仰だけなのである。この信仰さえあれば、山々はわれわれが近寄るとき恐れおののくのである。

イエスが何を言われたのか、あなたは理解しているだろうか?彼が与えることのできる信仰は、最小の分量でも、悪魔の力の最大量よりも大きくて強いのである。ダビデとゴリアテの経験は、魂の領域においてだった。一粒のからし種が山に対して戦いに出かけ、それをほふった。しかし、これには彼だけが賜物として与えられる信仰が必要だった。

この弟子たちは信じていたのだろうか?確かに信じていた。彼らはイエスを信じていた。その諸々の約束を信じていた。神癒を信じていた。さもなければ、あの日、彼らは癒しの集会を開こうとしなかっただろう。あなたや私が癒しの奉仕やわれわれの教会の集会で信じてきたのと全く同じように、彼らは祈り、懇願した。しかし、何も起きなかった。イエスによると、彼らに必要なのは信仰だった――車に満載された信仰ではなく、ごく小さな信仰だった―― 一粒のからし種のような信仰だった。それだけで十分なのである!それだけが必要だったのである……ただし、それが本当に信仰であるならばの話だが。

私の会衆の一人の女性が、ある晩、「癒しを受けるのに必要な、御言葉に対する信仰は十分に持っています」と私に言った。残念ながら、私は彼女にこう告げなければならなかった、「もし私に一粒のからし種のような信仰があったなら……私の主の信仰と同じくらいの信仰があったなら……今晩、イエスの力ある御名によって、もっと偉大な奇跡がどれほど起きていたことでしょう!」。

真剣にこの問題に直面しようではないか。開いた、明け渡された心で、「光と真理を送って、われわれをこの聖なる山に導いてください」と聖霊に求めようではないか。信仰の祈りだと思う祈りを祈ったのに何も起きないなら、自分が信仰だと思っていたものは全く信仰ではなかったことは明らかではないだろうか?「一粒のからし種のような信仰は、功を奏することもあれば、効を奏さないこともある」とイエスは言われただろうか?「信仰は効き目のある時もあれば、効き目のない時もある」と告げられただろうか?御言葉を読んでほしい。彼の宣言は明確、簡潔、平易である。あいまいな点はいっさいない。それは、永遠の神ご自身の御口と御心から発した、事実の平易な叙述である。誰が神以上の権威をもって語ることができよう?

この信仰が働く時はいつでも、また、それが働いている所ではどこでも、われわれはもはや昔日のように、哀れな病んでいる人々の周りに立って、何時間も叱責、命令、要求、苦闘、嘆願を続ける必要はない。とりなしの祈りが必要な場合もあるかもしれないが、信仰の行使においてはそうではない。とりなしの祈りと心の祈りが信仰の働きに先立つかもしれないが、神の信仰が分与される時、嵐はやみ、魂の中に大いなる静けさと深い確固たる平安が臨む。感謝と賛美の声が唯一の音となる。病を去らせたのはわれわれの信じる力ではなく、むしろ神が分与された信仰であること――その全き理解が魂中に広がる。そして、われわれの魂の中に朝――輝かしい朝が臨む。この朝の中で信じることが可能になる……この朝の中で愛することが可能になる……この朝の中で確信を持つことが可能になる……しかし、ただだけがこの朝を送ることができるのである。主だけがそうすることができる。われわれは癒しを信じることができる……われわれの祝福された贖い主とその癒しの力を信じることができる……しかし、ただ主イエス・キリスト、この御方だけが、われわれを勝利の山頂に引き上げる御業を行えるのである。

真の道

多くの人々が犯している過ちは、自分自身の信じる力を、神からの信仰と混同していることである。座って、「自分は癒される、自分は癒される、自分は癒される」と何度も繰り返すことは、非聖書的であるだけでなく、霊的にきわめて危険である。このような霊的に不健全な過程が少数の神経症患者の助けになる場合もあることを、私は認める。しかし、主が語られた山々を移すことは決してできない。車イスに乗った身体障害者のことを私はよく覚えている。彼の事例は、われわれが折りに触れて接触する他の人々の真相の、最も良い実例である。彼の周りに何十人もの人々が群れをなして、彼をその車イスから立ち上がらせるために、自分たちの力であらゆることをしていた。祈りと、涙ながらの命令や叱責がなされた。彼を歩かせるために、あらゆる真摯な努力が注がれた。

私が彼と静かに話した時、彼はとても誠実な心で、「私は信じようと懸命に努力してきました」と私に告げた。「自分には信仰がふんだんにありますが、今は、どうしたらいいかわからなくて途方に暮れて困っています」と私に教えてくれた。信仰とは実際のところ何なのかに関して、彼が完全に間違っていることに、私はすぐ気づいた。「自分は癒される、と信じられさえすれば、自分は癒される」と彼は思っていたのである。これを彼は苦闘して行おうとしていたのである。

彼は御言葉の約束を信じた。奇跡を成し遂げるイエスの力を信じた。とても、とても多くの事を信じた――今日の疑いと恐れの時代にあって、信じることは素晴らしい、輝かしいことである――しかし、彼は無理なことをしようとしていたのである。奇跡の業を、「それは成る」と知的に信じる自分の能力に基づかせようとしていたのである。

私は彼に、私がかつて訪問した家の物語を話した。その家はイエスが水をぶどう酒に変えられた家だった。それらの水がめの前に立った時、この不肖な私の心に聖霊が語ってくださったことの中から、私は彼に話した。「主がガリラヤのカナでなさった奇跡に関する聖書の物語を、あなたは信じますか」と私は彼に尋ねた。「信じます」と彼は私に言った。カナでのあの午後に思いを馳せた時、私は聖霊の臨在の温かい光を感じた。

これが、その日私が受けた教訓である。弟子たちだけでなくイエスの母もそこにいたが、「水がぶどう酒に変わる」と彼らが信じるだけで、その水はぶどう酒に変わっただろうか?それには神聖な口から発せられた命令が必要だったのである!神ご自身の御手による接触が必要だったのである。彼らは水がめを水で満たすことはできた。縁まで満たすことはできた。水がめを指定の場所に運ぶことはできた。彼がするよう言われたことをすることはできた。

彼は無理なことをするよう決して人に求めたりされない。その力を彼は自ら蓄えておられるのである。

神にはすべてが可能である。しかしマルコ(九・二三)は、「もし信じることができるなら、信じる者にはすべてが可能である」とわれわれに告げる。イエスがここで述べておられる信仰は、知的信仰や精神的黙認ではなく、心で信じることである。これが信仰である。これはマタイが告げる、気が触れた少年の記事からわかる。この記事についてはすでに触れた。マタイによるこの記事では、「もしあなたに一粒のからし種のような信仰があるなら」とイエスは言われた。他方、マルコが記録した物語では、「もしあなたが信じるなら」となっている。だから、マルコが言う「信じること」とマタイが言う「信仰」とは同じである。これが私の要点である。これが、神の御霊が私の哀れな目に見せてくださっているものである。この信仰は知的なものではなく、霊的なものなのである。それはもっぱら心に属するものである――知性に属するものではない。正真正銘の聖書的信仰は、「それはなされたと見なす」われわれの能力ではなく、神によって人の心の中に分与される「それはなされた」という深い実感である。

そこで、私は車イスの老人に私の物語を話した。朝の太陽の微笑みと口づけによって一輪の花が開くのを、あなたはこれまで見たことがあるだろうか?その日、その親愛なる老人の顔を見た時、私はそこに一輪の花を見た。その老人は家に帰って、「ナザレのイエスがあなたの人生のエリコの道を通られる」という知らせを天使の声が自分の魂の中にささやくまで忍耐して待った。

数晩後、彼は車イスに乗って戻って来た。私は彼に会った。「私は今晩歩きます」と彼は宣言した。彼の目に暗さはなかった。丘の上に太陽が昇ったからである。薄明かりという、暗闇と光の間の戦いは必要なかった。太陽の光が地に口づけしたからである!車イスから彼は立ち上がって、祭壇まで歩いて行った。それから、崇敬と賛美と礼拝の念でひざまずいて、感謝の心を注ぎだした。ただ神からのみ来る信仰のゆえに感謝したのである。

主の訪れ

郵便配達員が私の家の扉にちょうど着いたところだった。彼は一通の手紙を残していった。その手紙を私はあなたと分かち合いたい。それは或る女性の物語である。私は長年、私の魂の救い主であり私の体の癒し主である私の主に仕えてきたが、その年月の間に見てきただれよりも、その女性には障害があった。初めて彼女に会った時、彼女は哀れっぽく祈りを求めた。「私を癒してください」と彼女は私に求めた。私には癒せなかった……私にはそれがわかっていた。命令、叱責、嘆願という一連の手続きを経ることもできた……しかし、私はそうしなかった。私は山の麓にいる一人の弟子にすぎなかった。われわれの主に降り来ていただくことがわれわれ二人には必要だとわかっていたのである。

私はイエスと、倒れた者を立ち上がらせるイエスの力を信じていた。私は彼の約束を信じ、彼の御言葉の上に立っていた。しかし、十年間両手で這いずり回り、腰から下が効かない女性の顔を見た時、私の心は私にこう告げた、「『彼女は癒された』と信じる以上のことが必要である。理性を凌駕するあの信仰を分与していただくことが必要である。心で信じるというあの霊的資質が必要である。それは、精神的な知的肯定では決して得られない」。彼女にもこれが必要なことが、私にはわかっていたのである。

だから私は、イエスに触れるよう彼女にお願いした。忍耐強く主を待ち望むよう、彼女に乞うた。彼女の時が来る。そう私は心に感じた。イエスは決してしくじらないことを私は知っていた。しかし、イエスだけが成し遂げる力を持っておられることをしようとするわれわれの愚行のせいで、われわれはこれまで何度彼の御業を妨げてきたことか。それで毎日、彼女の夫と友人たちは彼女を集会に運んできた。毎日、彼女は主の御顔を求めた。毎晩、彼らは彼女の不自由な体を持ち上げて、祈りがなされる古い木の椅子の上に置いた。

数日が過ぎた。霊の中で彼女は宮の階段を登り、主の幕屋の中に入った。彼女は明け渡しと犠牲の祭壇を通り過ぎ、ある晩、至聖所の中に入った。なんという晩だったことか!それは日曜日だった。人の手が印刷したプログラムに癒しは載っていなかった。しかし、ナザレのイエスが通りかかられる時、神は不思議なことを行われる。聖霊はわれわれの形式や儀式や計画を超えてわれわれを高めることができる。

その日曜の晩の奉仕では、麗しい霊が充満していた。夫に連れて来られた祭壇の下に彼女は寄り掛かって祈った。ひざまずけなかったからである。すると、イエスが来られた。イエスは彼女にご自身の幻をお与えになった。彼女は一本の道の端に彼を見た。彼は微笑まれた。心という平野を突っ切って信仰が川のように流れるのを、彼女は意識した。それが起きる前に、彼女にはそれがわかったのである!その方法やわけはわからなかったが、神が神の御子の信仰である信仰を吹き込んでくださったことが、彼女にはわかったのである。まさにその瞬間、救い主はご自身の信仰を私の心にも分与してくださった。私は壇上のメソジストの聖職者の方を向いて言った、「今晩、私たちは主の栄光を見るでしょう」。われわれは確かに見た。主の御手が彼女の上に置かれた時、彼女は真っ直ぐになった。彼女のしなびた肢体は、それについて述べるよりも速く、正常な大きさに成長した。彼女は自分の足で立ったのである!歩いたのである!イエスの愛の御腕に運んでもらう以外に、もはや運んでもらう必要はなかった。

十字架の下に罪人たちが流れ込んで救い主を求めた!建物は幸いな心が発した賛美で鳴り響いた。そして、屋根の垂木は

「ただイエスだけが、ただイエスだけが、
 満足を与えることができる。
 重荷はすべて祝福となる、
 わが主は近いことを知る時に。」

というメッセージで轟いた。

ただイエスだけ

この物語を告げる理由は、信じようとする人の努力と神の賜物である信仰との違いをあなたに理解してほしいからである。ナザレのイエスが通りかかって、困窮している心に信仰の言葉を語ってくださるのを待つ方が、癒しを信じる自分の信念をイエスだけが与えられる信仰と誤解するよりも、遥かに優っているし、より聖書的である。

率直に言って、人々が初めてあの哀れで無力な女性を祈りのために連れてきた日、私は三つのことに気がついた。彼女には信仰がないことが私にはわかった。自分にその信仰がないこともわかった。また、イエスだけがその信仰を持っておられることがわかった。だから、われわれの任務はイエスに近づくことであることは明白だった。自分の問題や心配を祈りによってイエスに持って行くことは、われわれの特権である。また、この世から離れて交わりの聖所の中に入る権利が、われわれの相続財産の中に含まれている。この聖所に天は下って来る……われわれの魂はそれを出迎える……そして、栄光があわれみの座を飾るのである。

これがわれわれのしたことである!即座に自分の知性や意志を働かせることもできた。命令し、勧め、嘆願することもできた……そして彼女は、他の人々がしてきたように、信仰の代わりに意志の力によって、立ち上がろうともがくこともできた。しかし、そうしなかった……それに優る甘美な道がある。それは神の道である!聖書の道である。貴人がカペナウムからカナまで歩くのは長い道のりだった。しかし、イエスに会った後、彼はその旅を悔やまなかった。

もしかすると、その道は献身の山を越える険しい道かもしれないし、心の明け渡しという谷を通るかもしれない。しかし、希望がわれわれの足に力を与える。そして、われわれがその道をイエスと共に歩む時、道中の労苦は無に等しいように思われる。なぜなら、イエス、イエスだけが、山々を移せる信仰の与え主であり、分与者だからである。私はわれわれの姉妹の手紙をあなたと分かち合いたい。

親愛なるプライス兄弟へ
ローレル、オンタリオ、一九四〇年十月十二日

 クリスチャンとしてご挨拶します!ああ、ハレルヤ、イエスのおかげで喜びの鐘が私の心の中に鳴り響いています!

 私の体になされた偉大な奇跡の新たな記念日が近づくにつれて、私の夫と私の思いと熱意は、特別にあなたに向かいます。神に感謝すべきことに、一九二四年十月十九日のあの晩、祝されたキリストが私たちのところに来て、御力と御臨在を有り難いことに私たちに現してくださいました。

 なんと素晴らしいものをキリストは私たちに与えてくださったことか!キリストは、ご自分の弟子であるあなたを用いて、私の魂を救うだけでなく、私の体をも癒してくださいました。本当に私は哀れな状態にありました。そうではないでしょうか、プライス兄弟?私は霊的にも肉体的にも大きな必要を抱えていました。霊的に、私は救われていると思っていましたが、実はどっちつかずの態度を取っていました。主のものがありすぎてこの世を楽しむことができず、この世のものがありすぎて主を真に喜ぶこともできなかったのです。

 あなたが純福音を説いてくれたおかげで、主の真の喜びが私の心の中に臨みました。私の夫にも臨んでとどまっています――私たちの多くの罪はイエスの清める血によって洗い流された、という確信と共に。この点に関する私の状態をあなたはよくご存じでした。私があなたの集会に連れて来られた時の私の無力さを、あなたはご自分でご覧になれたからです。私は歩くことも立つこともできませんでした。イスに座る時、普通の方法で自分の足を床の上に休ませることすらできませんでした。無力な十年ものあいだ、私の忠実な夫の腕に運ばれて、絶えず苦しんでいました。すると、その時、イエスは再びエリコの道を歩んで、あなたの集会中、私の道に来てくださいました。ああ、そうです、私がこれを話すのをあなたは何度も聞いてこられました。しかし、私はもう一度あなたに話したいのです。私の夫や私にとって、この物語は決して色あせることはありません。それはイエスだからです。親愛なるイエスだからです。

 これについてあなたに話す時、私の心は溢れ流れます。涙も流れます。イエスの愛が私を溶かして、賛美と感謝のうちに御前にくずおれさせるからです。そうです、イエスは病んだ体を今日も癒してくださいます!この福音を語り続けてください、プライス兄弟、私たちの周りには多くの病んで苦しんでいる人々がいるからです。神の御言葉は私たちに告げています。イエスは、大昔この地上を歩まれた時、足なえ、盲人、らい病患者、あらゆる種類の病を癒された、と。彼は、私たちが生きている今の時代にも、全く同じことをしてくださることを、私たちはよく知っています。彼の御力は衰えていません。彼がカルバリで負われた、血を流す癒しの傷は今もあります。

 一九二四年十月十九日土曜日、イエスは私の無力な足で私を立たせ、痛みなしで歩けるようにしてくださいました。そして、喜びのうちに私を帰路に送り出してくださいました。本当に、私の夫も私もそれ以来喜んでいます――イエスにあって喜んでいます!健康、力、活動の十六年間でした。この年月のあいだ、肉体的に本当に試されることが何回かありました。骨折や信仰上の様々な試練がありました。しかし、たとえあなたがよくご存じだったとしても、私はあなたに再び申し上げたいのです。神の約束は色あせることがなく確かです。私たちの神がすべての栄光をお受けになりますように。イエスがパリで――そこで私たちはあの福音集会中、偉大な癒し主を見いだしました――私たちを引き受けてくださってからというもの、私の夫も私も、いかなる種類の治療も少しも受けたことがないからです。

 イエスへの感謝と賛美のうちに、プライス兄弟、この偉大な御業であなたが果たした役割のゆえに、私たちはあなたにも再び感謝したいと願います。パウロのように、あなたは天の幻に対して不従順ではありませんでした。あなたは決して妥協せず、イエスは今日も病人を癒してくださることを省かずに、全真理を宣言されたからです。

 私の夫も私も体は良好です。私たちの医者であるイエスに、すべての栄光と賛美がありますように。錠剤も塗布薬も決して必要ありません。約束は十分です。ハレルヤ!イエスは決して、決してしくじりません。

 私たちはあなたのために祈り続けます。あなたが常に聖霊によって導かれますように。過去の年月よりもさらに偉大な奉仕のために上から油塗られて、キリストの計り知れない富を宣べ伝えますように。

 私が書いているあいだ、聖霊がどれほど私を温めて、神の力が私を奮い立たせて満たしてくださっていることか。ハレルヤ!イエスは生きておられます!どうしてわかるのでしょう?神に感謝すべきことに、彼は内側に生きておられるからです。クリスチャンとしての心からの愛をみなさんにお送りします。あなたに絶えず感謝している、イエスにある友より。

ジョンソン兄弟姉妹