第四章 信仰の起源

チャールズ・プライス

私は消極的な説教や書き物が断然嫌いである。話し手や著者が病について論じるだけでは十分ではない。私の魂と精神を満足させるには、私を治してくれなくてはならない。何が間違いかを指摘するのは簡単である。だが、何か正しいのかを私は知りたいのである。時として、これは人が思うより少しだけ難しい。しかし、最終的にうっかりミスを正して、真理の道に立ち返る時、もしかすると、神の摂理により、その間違った道がわれわれに祝福という遺産を残してくれているかもしれない。

何年か前のこと、私は定期的に訪れる山岳地帯への訪問の途にあった。その山岳地帯のへりはアラスカの岩礁に面していた。このグレイト・ホワイト・サイレンスの地を訪れた人が迷子になった。私は彼に、位置が分かる谷に戻る小道について話した。二時間後、彼は私の野営地に戻った。彼は私に、「私は混乱していて全く動転しています」と言い、「方角がはっきりするまで、優しく同行していただけないでしょうか」と求めた。私はそうした。その地方と小道を知らない人が、そこを一人でさまようのは危険だったからである。数週間後、私はその感謝している人から手紙を受け取った。その手紙の中でこの人はとりわけこう述べていた、「正しい道にあることがわかるのは素晴らしいことですが、間違った道にいた後、正しい道に戻ることは、その幸いさを増倍させます」。

これは何と真実なことか!ほころんでいるつぼみや、柔らかな新緑をわれわれがありがたく思うのは、雨降りの後である。穏やかな青空の一日をわれわれがありがたく思うのは、嵐の雲が過ぎ去った後である。本書を通して、信仰の勝利の完全な結果を見たことのない親愛なる神の子供たちを導いて、聖書の明確な教えと究極的勝利に立ち返らせることができるなら、私の心は幸いだし、祈りをもって書かれた本書はその使命を果たしたことになる。

特にあなたに見てほしいのは、あなたはそれを生み出せない、ということである。あなたはそれを増すことはできないし、造り出すこともできない。それは神ご自身によって分与され、息吹きこまれるものである。自分の家の中に座して信仰を持つために苦闘しても、何かが起きるとは限らない。また、自分の希望や願いを自分自身の力で信仰に転じることはできない。信仰を得ることができるのは、ただ主からである。なぜなら、御言葉が明らかにはっきりと述べているように、信仰は二者のいずれかだからである。信仰は神の賜物であるか、御霊の実であるかのいずれかなのである。

コリント人へのパウロの手紙が述べているように、「さて、いつまでも残るものは信仰、希望、愛です。しかし、その中で最も大いなるものは愛です」。愛は最も大いなるものかもしれないが、それが最初ではないことは確かである。愛には信仰が先立たなければならない。あなたの窓の外を見て、向こうの木を見よ。何と均衡が取れていて美しいことか!ただ神だけが木を造ることができる。その折れ曲がった枝々は美しい。どの葉もそれ自体が小さな世界であり、その小さな葉脈は神が供給される命を運ぶ。神の供給は、木が自然界の中で持っているものをすべて木に与える。地表の下には、根という一大組織が隠されている。根はまったく見えないが、それでも、根がなければ木は死んでしまう。まったく命を失ってしまう。

信仰は命である

根は、地上の麗しい緑樹に比べると、醜くて硬い。それでも、緑樹がそこに立っているのは、一つにはこれらの根のおかげである。さて、この木の頂点を「愛」と呼ぶことにしよう。あなたはそれを見ることができる。それに触れることができる。その香りを楽しむことができる。その美しさを見ることができる。木がそこにあるのはその背後にあるもののおかげである――それを生じさせているものが隠されているのである。それは根である。さて、「その根とは信仰の根である」と私は言おうとしている、とあなたは予想しているかもしれない。だがそうではない!信仰は根の中に流れ込む命である。命はただ神だけが生み出して与えることができる神秘的特質である。植えても決して、決して成長しない根もある。

あなた自身と、あなたの内的性質が、この根である。あなたの感覚や、命そのものの表れに対するあなたの近づき方は、人々には見えない表面下に埋まっている。この世が見るのは、ただあなたが生み出すものだけであって、あなた自身ではない。イエスが「その実によって、あなたたちは彼らを見分けることができる」と言われた時、それは何を意味したのか?あなたは彼らを見分けることができる。生み出された実は、その木が実際には何なのかを示す指標なのである。

繰りかえそう。この木の根は信仰ではない。根は命を生み出さないが、命は根を生み出す。この命とは信仰である。それは素晴らしい卓越した特質であり、神の御心の賜物であってわれわれを支えてくれるものである。この命もしくは信仰は、われわれが結ぶ実によってこの世に明らかになる。差し伸べられた愛の手によって、神からの恵みと美によって、われわれの生活という木の上で日毎に明らかになる。

この木が自分に流れ込むこの命を造り出そうともがくなら、それは何と愚かなことだろう。木がなすべきことは、ただ神の法則にしたがって機能することだけである。命がそこにあるので、木は結ぶ実によってこの命を自然に現す。また、美を現して、それをこの世界に与える。

信仰もそうである。愛は世界で最も偉大なものかもしれないが、信仰は必ず最初のものでなければならない。信仰がなければ神を喜ばすことはできない。しかし、「自分には信仰がある」とあなたは私に言う。「それをどこで得たのか?」と私はあなたに尋ねる。私は木から赤みがかったリンゴをもぎとった。そのリンゴがその小さな心の奥底から証しするのが、私には聞こえる。「自分には赤みがかった頬がある」とそれは私に告げる。「とてもおいしいですよ」と、それは私の耳にささやく。「その香りをかいでみて」とそれは私を誘う。「自分にはたくさんの気高くて美しい特質がある」と、それは証しする。そこで、「それをみなどこで得たのか?」と私は尋ねる。

枝からか?葉の覆いや、雨や太陽からか?確かに、どれも正しい。しかし、私は知っている。下方に隠れた組織があって、目には見えないが、根が神からの何かを受けていたのである。それは地表のどの木もかつて自分で生み出せなかったものである!

無神論者と神

しばらく前のことだが、私が導いていた集会の中に一人の無神論者が座っていた。彼は極めて頑固でひねくれていた。彼はあるホテルの部屋に一人で住んでおり、その孤独さのせいで彼の頑固で批判的な不信仰な性質は助長される一方だった。その晩、私は「理解できないことを理解する」という題目で説教した。信じられないことを信じること、人知を超えた神の愛を知ることは可能である、と私は宣言した。翌朝、彼は私の部屋にやって来て、会見を求めた。彼はどちらかというと議論好きだったので、「私には議論する時間はありませんが、私に示せる心からの率直な質問が何かあれば、喜んでお答えします」と私は彼に言った。

彼は言った、「私には全く何の信仰もありません。私は聖書を信じていませんし、神がおられるのかどうかもわかりません。自然界やこの宇宙の中に、ある秩序の法則があるのはわかりますが、何がそれを生じさせているのか、あるいは、それがどこから来たのか、私にはわかりません。さて、プライス博士、昨晩のあなたの説教は私の思考に難題を突き付けました。私が知りたいのは、『一ドルも持っていない人がどうして一ドル費やせるのか?一台も車を持っていないのに、どうして車を運転できるのか?何の信仰もないのに、どうして信じることができるのか?(神がおられると仮定して)何の信仰も持っていない人に対して、どうして神はその人に信仰を行使するよう要求できるのか?このような状況のどこが正しいのか?』ということです。」

「あなたは正直な人で、真理を知りたいと思っていますか?」

「真理とは何です?」が返答だった。「どんな種類の真理のことでしょうか?私は真理を求めて生涯を費やしてきましたが、決して真理を見いだせませんでした。」

私の居室の壁には、ゲッセマネの園のイエスの絵が掛けてあった。絵の中の彼は両手を組んで、祈りのうちに両目を天に向けていた。私はその絵のところに歩いて行き、しばしの間、何もしゃべらずにその絵を見ていた。彼もその絵を見ていることに、私はフト気がついた。ようやく私は彼の方に向いて言った、「彼こそ真理であり、道です。彼こそあなたの命であり信仰です。『自分にはない』とあなたが言っているものを、彼は豊かに持っています。あなたはそれを精神、思考、知性の中から得ようとしてきました。彼の恵みの川があなたの心の中を流れる時、彼はそれを生じさせることができます。彼が来られたのはそのためです。彼が来たのは人々を自由にするためです……あなたの疑いのような疑いから自由にするためです……恐れや不安から自由にするためです……不信仰から、そして罪から自由にするためです……。」

「私にはおとぎ話のように聞こえます」と彼は遮った。「それを信じられるなら結構なことですが、信じられないことを信じるよう、どうして人や神は人に要求できるのでしょう?」

彼は去って行った。一週間後、彼は私のところに来て、手を差し出した。彼の顔を見た時、奇跡が起きたことがわかった。彼の心の中に罪の赦しの自覚が生じただけでなく、神の麗しさと愛の現れも生じて、それが彼をキリスト・イエスにある新創造としていたのである。千年期にイバラの代わりにミルトスの木が生じるように、この人の生活の中に内住の神の臨在の証拠が生じていたのである。

「何が起きたか分かりますか?」と彼は言った。「私は主に、『もし存在しておられるなら、ご自身を現してください』と告げたのです。私は主に、『そもそも存在しておられるなら、ご自身の臨在を啓示する何かを行ってください』とお願いしました。私は主が私のそばにおられることに気づきました。神が存在しておられること――救う方が存在しておられることを私は理解しました。これが分かったのは、自分の知性によってではなく、自分の心によってでした。そこで主に、『私には信じるための信仰が全くありません』と告げたところ、主は私にご自身の信仰を与えてくださり、私は信じました。この御業がなされたのです」。

そうではないだろうか?これが神の救いの道である。「御子を受け入れた者たち、すなわちその御名を信じる者たちに、彼は神の子供となる力を与えられた」。私が祭壇への招きをするとき、私はすべての男性、すべての女性に、自分の心と命をキリストに明け渡すよう招く。われわれは信仰によって救われる以上、すべての人が信仰を受けることができると私はどうやって分かるのだろう?私が招く人がみな永遠の命を見いだせるとどうやって分かるのだろう?信仰を持っている人もいれば、全く信仰に欠けている人もいるかもしれない。人々があなたの言うことを信じていたとしても、その事実は彼らが信仰を持っていることを意味しない。この信条や、心の飢えを、罪の赦しの経験的知識に転換する信仰を持っていることを意味しないのである。

それにもかかわらず、「誰でも望む人は来なさい」と私は叫ぶ。なぜなら、すべての誠実な人が必要とする信仰を主は分与してくださることを、私は知っているからである。ヨハネによる福音書の一章一二節を私は引用した。「御子を受け入れた者たち、すなわちその御名を信じる者たちに、彼は神の子供となる力を与えられた」。次の節も引用しよう。こう述べている、「この人々は、血すじによらず、肉の意志によらず、また人の意志によらず、ただ神から生まれた(すなわち、再生された)のである」。

聖霊は罪人に自分の罪を認めさせられるが、この同じ聖霊は、罪人に十分な認罪が与えられたら、今度は自分の救いを認めるのに十分な信仰が与えられるよう配慮される。しかし、自分自身の中にこの信仰を持っている人は誰もいない。「恵みにより、信仰を通して、あなたたちは救われたのです。これはあなたたち自身から出たものではなく、神の賜物です」とわれわれは告げられているのではないだろうか。貧しく、みすぼらしい、惨めで、無知な、不信の人類は、そのように不信仰な堕落した心では、救い主を受け入れるどころか、救い主を信じる十分な信仰を育むことも発達させることも決してできない。だから、聖霊は救い主の必要性に関する確信を分与するだけでなく、救い主を受け入れるための信仰をも分与されるのである。

キリストを自分の救い主として受け入れたのは自分の信仰である、と決して思ってはならない。「自分の行動が自分の贖いの基礎だった」と決して言ってはならない。サマリヤの道ばたの井戸の脇で女に語られた水を分与してくださるのは、イエスである。あなたが背負っている重荷の下に愛の御手を置いて、それをあなたの疲れ切った体から持ち上げてくださるのは、イエスである。ボロボロの打ち砕かれた心に天の喜びの油を注いでくださるのは、イエスである。母親のような手で優しく触れて、しわを伸ばしてくださるのは、イエスである。あなたを夜の暗闇の中から連れ出して、ご自身の輝かしい素晴らしい日の中にもたらしてくださるのは、イエスである。

「ああ、この御方はイエスです。確かに、この御方はイエスです。
 確かに、この御方は私の魂の中におられるイエスです。
 なぜなら、この御方の衣の裾に触れたら、
 この御方の血が私を健やかにしてくれたからです!」

これを歌い、叫べ。近くにいる人にも遠くにいる人にも、これを宣言し、これを告げよ。この御方の血――この御方の恵み――この御方の御力――この御方の赦し――この御方の信仰を!

生ける信仰

いつわれわれは自分の愚かしい不要な葛藤をやめて、信じるようになるのか?いつわれわれは、自分にはない信仰を見いだそうと試みる非聖書的な精神的・知的堂々巡りに終止符を打つのか?というのは、神からそれを得ない限り、われわれは決して信仰を持てないからである!信条を抱くことはできても、聖書的信仰を行使することに全く失敗するおそれがあるのである。信条は信仰である、と考える過ちに数千もの人々が陥ってきた。そうではない。信仰が信条を含むことに間違いはない。しかし、「悪魔も信じている」のである。信条は冷たく――知的なものである。人が知的領域を進んでいる間は、信条は機能する。多くの罪深い人々が聖書を信じているが、そのような信条は彼らを救わない

信仰は生きているものである。それは進んで機能して、その圧倒的な行進の前から魂の敵を一掃する。この世のありったけの信仰が必要なのだろうか?否!それが神の信仰なら、からし種一粒ほどの信仰で十分である!そのとき、山々は移されるのである。罪に病んだあなたの魂は主の栄光を見る。しかし、それは神の信仰でなければならない。それは神から来なければならない。神がそれを分与しなければならない。そして、神はそうしてくださる。これが私の信じる恵みの福音である。

イエスが共におられなければエリコの道はエリコの道にすぎない。イエスが共におられるなら、それは救いと癒しの輝かしい大路である。その岩々ですら彼の栄光を叫ぶ。イエスが共におられなければ、その塵は薄汚く、その涙は痛々しく、その盲目さはあまりにも暗い。しかしイエスが共におられるなら、その塵は恵みと栄光の花々を育み、その涙は真珠に転じ、その盲目さと暗闇は光に変えられる。エリコの道を変容させる奇跡にはイエスの臨在が必要なのである。

あの盲人は砂の中に座って、「自分は癒される――自分は見えるようになる――自分は見えるようになる――今信じることができさえすれば、自分は癒されて見えるようになる。そうならこうなる!」と自問自答しなかった。否。彼はナザレのイエスが通りかかられるのを聞いたのである。彼は叫んだ、「イエス様!イエス様!私を助けてください!どうか私を助けてください、自分ではどうしようもないからです!」。これに対してイエスが語られた言葉を忘れてはならない、「あなたは私にどうしてほしいのか?」。「あなたはどうしたいのか」ではなく、「あなたは私にどうしてほしいのか?」と仰せられたことに注意せよ。「あなたの道を行きなさい。あなたの信仰があなたを健やかにしたのです」とイエスが仰せられたのは事実である。「あなたの信仰」とイエスは仰せられた。その盲人はこれをどこで得たのか?誰がそれを彼に与えたのか?もしそれが常々彼の信仰だったのなら、イエスがその道に来られる前にどうして彼は癒されなかったのか?もしあなたが私に時計をくれるなら、それは私の時計になる。しかし、私はそれをあなたからもらったのである。書いている間も私の心の中には信仰がある。しかし、自分がそれをどこで得たのか、私にはわかっている。確証からではない――意志からではない――信条からではない――知的把握力や理解力からではない――イエスからである。イエスはわれわれの信仰の創始者であり、完成者である。ああ、比類ない恵み!ああ、神聖な愛、全く卓越した愛!こうして天の喜びが地上に下って来たのである!

昔、地面に植えられた一粒の小さな種があった。それはドングリだった。しばらくして、その種はその小さな外套を脱いで、母なる自然の腕の中に抱かれた。それは、養われて成長するためだった。長い冬の夜のあいだずっと、母なる自然はその小さな種を温めてきた。そして、春の太陽が昇った時、その小さなドングリの実は喜びと楽しみではじけて、成長し始めた。すると、ある人がやって来て、大きな重たい岩をその小さな種の上に置いた。その種は心配し始めて、「日の光が見えるところに自分の小さな頭を伸ばすことは絶対に無理なのではないだろうか」と恐れて心配した。その種は、葉っぱの花飾りを自分の髪のためにかぶること、そして、美しく丈夫な木に育つことを願った。

ある日、そのか弱い両手がその岩に触れた。その手はとても小柄で、柔らかい、小さな手だった。その小さな成長中の木はひしひしと無力感を覚えた。その木は、自分の心と命の敵であるその岩を動かそうともがくことも、試みることもしなかった。ただ成長し続けた。ある日、その岩が持ち上がって、道から押しのけられた。そして、葉の茂った両手が喜んで拍手した。誰がその岩を持ち上げたのか?その種だろうか?否!かつてこの世の誰も複製できなかった、この種の内側にある何かである。その岩を押しのけたのは神の力だったのである。

私の友よ、あなたは小さな種である。あなたもまた、神のために何か気高くて美しいものに成長することができる。人々や天使たちが驚くほど、信仰の力があなたの生活の中に現されることが可能である。しかし、その戦いが終わって、勝利が勝ち取られた時、「私が主によって成し遂げたことを見てください」と言ってはならない。むしろ、十字架の麓にひざまづいて、「神の恵みと神の信仰が私によって現されるとは、素晴らしいことではないでしょうか!」と言え。