第七章 これを容易にすることを神は願っておられる

チャールズ・プライス

私は信じている。キリストのもとに行って、「あなたの信仰を分け与えてください」と求めることの方が、自分自身の信仰を高めて生み出そうとすることよりも容易である、と。御言葉を思い起こさなければ――御言葉から離れようものなら、われわれは道に迷ってしまう――御言葉を誤って解釈してしまう大きな危険性がある。主はご自分のもとに来た人々の信仰について多くの事例で述べておられることを、われわれは認めなければならない。人々に信仰があったがゆえに、主はご自身の麗しい方法で人々を誉めることも時にはあった。私の疑問は、彼らが信仰を持っていたかどうかではなく、彼らはどこで信仰を得たのか?ということである。

サムソンには力があった。その力で彼は全く超人的な力ある偉業を達成した。しかし、彼はどこでその力を得たのか?彼は、われわれが霊的な方法で成るよう勧められているものを、肉体的な方法で示す見本だった。「主にあって、またその力によって強くなりなさい」。パウロは、自分は強い、と宣言した。それでも、彼は絶えず自分の弱さを認めていた。しかし、彼は「私は私を強めてくださるキリストを通して何でもすることができます」と宣言した人ではなかっただろうか?

奇跡的に全く魚がとれなかったあの素晴らしい出来事を、あなたは覚えているだろうか?早朝の薄暗い夜明けがガリラヤ湖の青い水面を静かに覆いつつあった。弟子たちは自分自身の力で一晩働いたが、何もとれなかった。彼らが岸に向かって引き上げようとした時、ガリラヤの見知らぬ人の輪郭が緑の丘を背景にして浮かび上がった。彼は不漁だった人々が来るのを待っていた。すると、その声が響いた。

「子供たちよ、何か食べるものを持っていますか?」。彼らは何も持っていなかった。彼らはくたくたになって働いた長い夜の労役から戻ってくるところだった――手は全く空っぽだった。彼にはそれが分かっていた。小魚一匹とれなかったことを彼は知っていた。長いあいだ暗闇の中で労苦した報酬に見合うものは何も与えられなかったのである。そこで彼は、反対側に網を投じるよう、彼らに告げた。

彼らが従った時、彼らの目は驚きで大きく見開かれたにちがいない。魚が網にかかる感触があったのである。彼らは網を引くことができなかった。イエスの指示に従ったところ、たちまち多くの魚がとれた。自分の努力で一かけてとった魚よりも多くの魚がとれたのである。素晴らしい物語だ、とあなたは言うだろうか?確かに。しかし、この物語の最も素晴らしい箇所に私はまだ来ていない!この物語全体の中で最も信じ難い素晴らしい部分は、イエスが次に語られた御言葉である。

何という気前よさ!何という慈愛と優しさ!「あなたたちが今とった魚を持って来なさい」と彼は仰せられた。誰がそれらの魚をとったのか?「あなたたちがとった」とイエスは言われた。しかし、私は再び問う、「誰がそれらの魚をとったのか?」。誰がとったのか、あなたも私と同じく知っている。それはイエスだった。しかし、彼は「あなたたちがとった」と言われた。このように彼はわれわれの信仰、愛、あれやこれやのことを――まるでわれわれの功績であるかのように――ご自身からではないものとして話されるのである。

キリストの完全さ

マルコ五・二七~二八は、この偉大な真理の美しい絵図をわれわれに与える。アレキサンダー・マクラーレンは言う、「この物語の主要部分は、不完全な信仰の純粋さと力、そして、そのような信仰に応答してこれを強めてくださるキリストの憐れみ深いなさりようを示す、この絵図であるように思われる」。この女を見よ。彼女はイエスが通り過ぎるのを許した。その後、おずおずと尻込みしつつ、群衆を掻き分けて、彼の衣に触れる場所に進んで行った。彼の衣には何か特別な魔法がかかっている、と彼女は信じていたのだろうか?

衣に触れた後、彼女は群衆に紛れようとしたことだろう。彼女の近づき方は、われわれが習慣的に「信仰」と称してきたものを彼女が持っていなかった証拠である。彼女は彼に「御言葉を一言ください」とは頼まなかった。しかし、哀れな無知の状態のまま、彼女は主に近づいて触れた。すると、癒されたのである!直ちにである。その癒しと奇跡を成就した功績はキリストにあることを、この記録は述べている。

この物語が伝える使信は、全く次の事実にある。すなわち、このような癒しは、自己の働きによって完全な信仰を育むことには全くよらないのである。むしろ、イエスに触れることによるのである。イエスはわれわれの信仰の創始者であり完成者である。そして、あらゆる良い完全な賜物の与え主である。

もう一度マクラーレン博士の言葉を引用しよう:信仰の力と活力は、信条の包括性や明確さでは測れない。最も肥沃な土でもしぼんだ不毛な穂を実らせるかもしれない。また、土の層がごくわずかしかない渇いた砂の上でも、華やかなサボテンが花開くかもしれない。そして、新鮮なアロエが水分を貯えた枝を伸ばして、それらが熱に耐えるのを助けるかもしれない。無知がどれくらいひどければ、イエス・キリストに対する真の確信を損なうのか、われわれにはわからない。しかし、われわれ自身はと言うと、次のことを感じている。すなわち、自分の視界が何と狭いのか、また、結局のところ、キリスト教圏の大勢の人が何とわずかしか神学上の真理を知らないのか、また、われわれの間の意見の相違が何と大きいのか、また、われわれは聳え立つ壁――自分の貧弱な能力では乗り越えることも見通すこともできない――に何とすぐに直面してしまうのかを感じているのである。しかし、次の事実をわれわれは喜ぶべきである。すなわち、無知によって曇らされている信仰でも、キリストはそれを受け入れてくださるかもしれないのである

これが話の要点である。キリストは不足しているものを与えてくださる。必要を満たしてくださる。イエスが変容の栄光の場面から山の麓に降りて来た時、彼は哀れな不幸な父親と無力な弟子たちの一団を見いだされた。弟子たちは、神の御子の信仰によってしかなしえないことを、自分たちの信仰によってなそうとしていた。父親は正直にこう言った、「主よ、信じます。私の不信仰を助けてください」。この弟子たちは苦闘し、叫び、叱責し、悪魔を追い出そうとしていた――しかし、効を奏さなかった。現代もこの光景が何度も何度も繰り返されてきたのではないだろうか?しかしイエスが歩いて登場された時、雰囲気は何とたちまち見事にすっかり変わって一変したことか。

その嵐の中から静けさが生じた。その大嵐の中から麗しい平和が生じた。イエスはこの状況の支配者だった。幸いなのは父親だった。この父親はその日、優しい同情心を持つ御方が近づいてくださるのを見た。この御方の心は思いやりによって突き動かされており、神の愛で溢れていた。最も大事なのは、イエスに語りかけることである。自分の苦闘をやめて、とりなしから彼に対する信頼と確信へと向きを変えることである。そうすれば、彼だけが与えられる信仰を分与してもらえるのである。

二十数年以上、私はいくつもの集会を導いてきた。それらの集会では、病人や苦しんでいる人のために祈るための高い場所が設けられていた。この務めに私の主は私を召されたのであり、この召しに私は心を尽くして応じてきた。主に栄光と賛美がありますように。盲人の目が開かれるのを私は見てきたことをここに記す。神の力の奇跡によって足なえたちは立ち上がり、麻痺している人たちは自分の車イスや簡易ベッドから立ち、癌や腫瘍はわれわれの素晴らしい主の癒しの力によって溶け去ったのである。

しかし――私が何に気づいたかお分かりだろうか?偉大な癒しの奉仕には、どの場合も、数晩に及ぶ献身と祈りの時が先立っていたのである。群衆が癒しを求めて前に押し寄せた時、集会は厳しい困難なものになった。彼らが癒しよりも癒し主を求めた時、甘い主の臨在が敵のを打ち破った。そして、主の臨在の陽光が、心を捉えていた氷のような感情を溶かし去った。自己憐憫や自己愛に促されてわれわれは主の足下に行くかもしれない。しかし、われわれの見解はすっかり変わってしまうのである―― 一度そこに行くなら――遂に主にまみえる時に!

貧乏人と金持ち

貧しくて困窮している者はとても多くの良いものを与えられてきたが、富んでいる者は空手で送り返されてきた。数年前、手足の不自由な人が集会に連れてこられた。彼を連れて来た人たちは、「この人は世の中で大いに信頼されている人で、地域社会の中でもその善良な生活と働きで知られている人です」と私に告げた。彼は良い生活をしている人で、疑いなく、主を愛していた。しかし、人々がその障害のために祈った祈り方のゆえに、彼は集会から一度ならず立ち去らなければならなかったのである!「この人が信仰によって立ち上がって歩きますように」という人々の嘆願に応えて、この人が懸命に立ち上がろうとする姿を、私は今でもありありと思い起こすことができる。何回も私は彼のイスの横にひざまずいて、彼を縛っている力を叱りつけた。数日経っても、彼が癒される兆しは皆無だった――祈りに対する応答は天から何もなかった。ある午後のこと、人々は彼を車イスに乗せて建物の隅に連れて行った。彼は人々に「私たちを二人だけにしてください」と頼み、それから、今も私の記憶に残っている言葉を発した。

「自分はとんでもない失敗者です」と彼は告げた。「私がここに来た時、主を信じる自分の信仰は強いと思っていました。しかし、自分の心の奥底を覗いた時、自分には告白したいことがあることがわかりました。私は何と哀れで、惨めな失敗者だったことか。人々はのことを文句を言わずに苦しみを担う人と目してきましたが、その事実を私は霊的に誇っていたのです。人々は私のことを、たとえ負わなければならない十字架があったとしても決して文句を言わない人と目してきました。私は自分の評判を誇るようになりました。今、私はわかります。自分の美点と称していたものは、私の主から見ると、自己義認だったのです」。

彼は両手で顔を覆って泣いた。この哀れな、手足が不自由な人には、大きな哀愁が漂っていたので、私の目にも涙があふれた。私は両手を差し伸べて彼の頭の上に置き、祈り始めた。私は彼の癒しのために祈った。私が祈っていると、彼が私を止めた。「プライス博士」と彼は言った。「私が必要としているのはイエスであって、癒しの必要性はその半分もありません。私はイエスの臨在に大いに飢え渇いています。私の人生の他の何ものにもまして、私はイエスをもっとよく知りたいのです。私のこの自己を義とする心の中に、彼がご自分の臨在と愛を洪水のように溢れさせてくれさえすれば、たとえ日々をこのイスで過ごしたとしても私は満足です」。それで私は、この手足の不自由な人が建物の隅から立ち去るのを見送ったのだった。

彼は静かに立ち去った。人々が彼を車イスに乗せて建物から連れ出した時、私の心は彼に同行した。家に帰る道すがらずっと、私の心は彼のために詩歌を歌っていた。

「救い主よ、救い主よ、私のささやかな叫びを聞いてください。
 他の人たちをあなたが呼んでいる間、
 私を通り過ぎないでください!」

砕かれて深く悔いている心を、主は蔑まれない!自己の終焉に達することは何と甘美なことか!われわれが一晩中労苦しても何もとれなかった後で、主が身を低くして岸辺でわれわれを待っていてくださるとは、何と素晴らしいことか!「あなたたちの網を船の側に投げなさい」とわれわれに語りかけてくださる御声は何と恵み深いことか!それはわれわれの喜びが満ちるためである。船のどちら側が右なのかを決めるのは何か?もちろん、船が進む方向である。あなたの船がイエスに向かって進んでいるなら、あなたはすぐにどちらが右側かわかるだろう。そして、このナザレ人を船に迎えることを願うなら、この船は空っぽでなければならないのである。

数日後、私はマンチェスター博士と連れだってその建物を後にした。マンチェスター博士はマッキンリー大統領の葬儀をした人である。公会堂の扉のところで、この人が車イスに座って、夕方の集会のために扉が開くのを忍耐強く待っていた。午後の集会は終わった。マンチェスター博士は、この手足の不自由な人の顔を見て、立ち止まった。そして、この人の方に歩いていったので、私も後に続いた。「あなたは祈ってもらうために来たのですか?」と彼は尋ねた。

「祈ってもらって、癒しを受けるためです」が返答だった。この人はどこか様子が変わっていた。その声――その口調――その目――その表情が、栄光を反映していたのである。何かが起きたことを私は知った。「話してください」と私は言った。「何が起きたのですか?私の兄弟よ、あなたが何らかの経験をされたことが私には分かります。その経験はとても素晴らしいものなので、それが何なのか私にはわかりませんが、その栄光を感じることはできます」。

そこで彼は、彼がイエスと共にいたことを、私に話してくれた。彼はあの晩を祈りのうちに過ごした――とりなしのためだけでなく、賛美と礼拝のためである。彼は私に言った、「朝の四時頃、主の臨在を感じて、圧倒されてしまいました。イエスが特別な方法で私の部屋におられることがわかったのです」。自分が主を崇めてどのように賛美し始めたのかを、彼は私に告げた。彼は言った、「その時、神の命が注ぎ込まれるのを感じ始めました。何かがイエスから私に移ったのです。自分の心と思いの中から霧が晴れたかのように感じました。その時、自分の葛藤は終わったことを知りました。そして、甘美な聖なる平和が私の魂を包み込んだのです」。彼はわれわれに言った、「今、私は承知しています。もう一度来て、主に従い、油を塗ってもらうなら、イエスから力が流れて来て、神の命を与えられ、健康で力強い状態に回復されるのです」。

マンチェスター博士の顔を見ると、彼の両目が涙を流していることに私は気づいた。その時、彼は言った、「この人はどうして今晩まで待たなければならないのですか?」。

「待つ必要はありません」と私は答えた。「偉大な医者が今ここにおられます。ナザレのイエスが通りかかっておられます」。

一瞬でそれは成就した。車イスからこの人は立ち上がった。彼は走って飛び跳ね、この解放のゆえに主を賛美した。それは神の力の奇跡だった。雪道にいる彼の周りに、人々が集まってまず賛美し、それから祈った。救われていない心は砕かれ、流された悔悟の涙はおびただしかった!一度ならず私は、山の麓で苦闘している弟子たちの一団と同じ状況を経験した。ああ、私の心はどれほど証しできることか。無力なわれわれのただ中にイエスご自身が歩いてやって来られる時、状況はすっかり変わってしまうのである!

あなたの祈りはかなえてもらえる

あなたの祈りはかなえてもらえることを、あなたは知らないのではないだろうか?あなたの重荷や心配を主の足下に置いても構わないこと、悲しみや心配の重荷を負って屈む必要はないことを、あなたは知らないのではないだろうか?私は祈っている。どうか神よ、この文章を読んでいる数千もの人々が、自己努力という小道を放棄する地点に達して、自己努力こそ神に対する確信と信頼を損なう疑いと恐れへと彼らを導いてきたものであることを悟りますように。

信仰は聞くことにより、聞くことは神の御言葉(the Word of God)によることを、あなたは知らないのだろうか?私のギリシャ語聖書では、「神の御言葉(a word of God)によって聞くこと」となっている。教会の集会で演奏されるオルガンによる音楽を聴くための耳よりも素晴らしい耳がある。年を経た素晴らしい聖書の朗読を聞くのに用いる耳とは別の耳がある。聖書が朗読される時、話しているのは人の声の抑揚だけではない。というのは、聖書の御言葉を聞いても、神の御声を聞かない人々がいるからである。聖書は、それを通して神が語られる書である。しかし、すべての人がその御言葉の中に御声を聞くわけではないのである!

信仰は聞くことにより、聞くことは神の御言葉(a word of God)による。この私の心に向かってイエスに語りかけてもらうなら、諸々の疑いは曙の翼をかって飛び去る。この私の哀れな心に向かってささやかな一言をイエスに息吹き込んでもらうなら、天が地にもたらされて、彼の素晴らしい真理の光により恐れは影のように消え去る。「彼を私のもとに連れてきなさい」と彼に言ってもらうなら、信仰――神の信仰――彼の信仰――が到来して、私の哀れな心は「主よ、見えるようになることを求めます」と叫ぶ。私の上に愛と臨在をイエスに息吹いてもらうなら、山々は揺れ始め、山々を保持していた礎はその指を緩める。

信仰はこのようにして来るのである!人の観念という経路を通してではない。人の理解力という道に沿ってではない。理解するための精神的能力や、確証するための知的能力によってではない。月に向かって自分の指を差し伸べて、それを得るためにもがき呻いても無駄である。しかし、イエスに語りかけてもらうなら、魂は高く上げられるのである。イエスからのささやかな一言には、人の言葉についての辞書の中に収められているすべての言葉に匹敵する価値がある。

今日エリコの道にいる盲人のバルテマイにも、イエスがこの道を通りかかられるなら、希望がある。「希望」と私は言った。然り、希望である――希望以上のものである。なぜなら、イエスがわれわれの無力な叫びを耳にされる時、彼はわれわれを通り過ぎることはないからである……彼が語られる時、希望の火が灯り、それは遂には炎となってあらゆる疑いや不信仰を燃やし尽くし、神聖な麗しい信仰の温もりが魂に癒しをもたらす。

ああ、主よ、語りたまえ!困窮した無力な状態の中で、われわれはあなたに心を向けて声を上げます。御言葉を語りたまえ――われわれに必要なのはただそれだけです。われわれは自分の信仰と努力という壊れた水ためで信じようとしてきました。しかし、その水は失敗しました!

「救い主よ、救い主よ、私のささやかな叫びを聞いてください。
 他の人たちをあなたが呼んでおられる間、
 私を通り過ぎないでください!」