私の心の鐘が鳴っている。私の主はわれわれのすべての必要を満たせることを、私は知っているからである。恵みの倉は溢れるほど満ちており、その量はとても豊かなので、われわれのこの心や知性では想像できない。われわれは地的・時間的限界を相手にしているが、神は無限で永遠のものを相手にしておられる。神は常に溢れるほど与えてくださる。使徒は「この御方はすべての人に気前よく与えてくださいます」と述べた。神の恵みは尽きることがなく、その無尽蔵の供給に不足はない。
それにもかかわらず、このような霊的貧困が存在するとは、悲劇だと思われないだろうか?これは、啓示・認識された真理の欠けた輪を見いだせるよう、祈って御顔を求めるようわれわれを促す問題ではないだろうか?確かに、神は十分に持っておられ、その十分さは神の約束によって裏付けられている。そうである以上、われわれが悲しみと欠乏の中に居続けるようなら、間違いなく、どこかで何かが欠けているのである。
この恵みの経綸では、神ご自身の臨在への扉は開かれており、われわれは一つの結論に達せざるをえない。すなわち、信仰は、それによって望んだものを所有する、本質もしくは力なのである。信仰は望んでいるものの実体であり、見えないものの証拠である。これは霊感された御言葉の中でも、信仰の何たるかの定義に最も近いものである。その潜在的力にもかかわらず、信仰は触ることのできない日用品である。その重さを量ることはできないし、容器の中に閉じ込めることもできない。物理学の領域で、一つの包括的文章によって、エネルギーを定義しようとするようなものである。
原子はそれ自身が一つの宇宙であると、われわれは教わっている。こんなにちっぽけな「宇宙」の中に含まれている潜在的力はとても凄まじいので、一般人の知性はそれに困惑する。しかし、それを定義しようとすると、諸々の困難の中に飛び込んでしまう。信仰もまたそれに似ている。知らぬ間に信仰が魂に臨むのを感じることが、これまで度々あった。そしてついには、理性に状況を任せていたなら、言ったり行ったりするのが憚られていただろうことを、あえて言い、行うようになったのである。おそらく、信仰は一粒のからし種のような小ささで到来したのだろうが、それは言葉や行いを通して圧倒的な力で流れ、ついには主の力ある御業を見て人々が驚いて立ち尽くすようになったのである。
一つのことを私は確かに知っている。それは、私には信仰を生み出せない、ということである。混ぜたり、一緒にしたりすることによって、聖書的信仰という一粒のからし種になるような材料や特質は、私の内には――あなたの内にも――ない。そうである以上、信仰がないのに結果を生じさせようとするのは愚かなことではないだろうか?湖を渡りたくて、船以外に向こう岸に辿り着く方法はないことがわかっていながら、船なしで渡ろうとするのは愚かなことではないだろうか?私が求めるべきは船であって――湖の向こう岸ではないのである!船を手に入れよ、そうすれば船があなたを向こう岸に連れて行ってくれる。
信仰によって受け取るもの、信仰によってしか受け取れないものがある。これに関して御言葉の中に曖昧さは少しもない。それどころか、御言葉は真理を明確に告げ示す。さて、われわれに「湖」を渡らせてくれる信仰を、われわれはどこで得るのか?この問いへの答えは、積極的な確かなものである!聖書の中には、信仰を神の賜物として、御霊の実として述べている箇所がある。しかし、信仰が賜物であれ実であれ、信仰の源・起源は同じままである!信仰は神から来る。信仰に他の源はない。なぜなら、それは「神の信仰」だからである。
霊的な能力を混ぜ合わせることで信仰を得られる、と仮定してみよ。そのような状況として、あなたは人生の諸々の試練を挙げたいかもしれない。あなたは信仰を持っている、と仮定してみよ。さて、われわれはみなその力について知っている!それを持つのは危険ではないだろうか?われわれがこちら側の岸にいることを神が望んでおられる時でも、湖を渡るのにそれを用いることができる、と仮定してみよ。今朝、われわれの間のすべての苦しんでいる人たちを起き上がらせるのに十分な信仰を、あなたや私が持っている、と仮定してみよ。もしそのような力が使えたなら、自分が神の御旨に逆らって、神の計画を台無しにしていないかどうか、どうすればわかるのか?
隠れた危険性
しばらく前のこと、ある婦人が病気の幼子を私のところに連れてきた。その子は愛らしい小さな幼子で、絵のように可愛い静かなはにかみ屋だった。しかし、深刻な病が彼女の小さな体に取り憑いていた。この小さな少女の父親は、自分の大事な娘を愛していたが、主に対して反抗的だった。何年ものあいだ、彼の妻は彼が明け渡すよう祈ってきたが、彼はいつも言い訳をしてきた。われわれは一緒に祈った。三回、この小さな少女は祈りのために連れてこられた。信仰があれば、彼女は癒されていただろう。しかし、彼女に信仰はなかったのである!
母親が祈りに行った。後で彼女は私に電話をかけて言った。「プライス博士、神は私の夫を取り扱っておられるように感じます。夫は私たちの小さな少女をとても愛しているので、主は娘を通して夫の心に届くことができると思います。あなたがもう一度祈ってくださる時、夫も一緒に連れてこれたら素晴らしくないでしょうか?娘のために夫をひざまずかせることができれば、おそらく、夫は間もなく自分自身のために祈るようになるでしょう」。
次に彼らが祈りのために家に来た時、父親も一緒に来た。彼は礼儀正しく、優しく、自分の小さな少女を案じていた。しかし、私が父親に祈ることを求めた時、父親は「いいえ、私は偽善者になりたくありません」と言った。
聖霊は父親を諭すよう私を導かれた。「兄弟、ひざまずいてください。一緒に主を見上げようではありませんか。もしあなたがそうするなら、私は信じていますが、あなたがこの小さな少女を家に連れ帰る時、この子は救い主の御手の接触によって癒されているでしょう」。父親は驚いて私を見て言った、「あなたは本当にそう信じているのですか?」。そうです、と私は父親に告げた。すると、この人はひざまずいたのである!甘美なスカーフがこの小さな少女の体を覆った。イエスの癒しの力である。そして少女は、感謝と感恩の祈りのうちに期待のこもった目を神に向けて上げた。父親が自分の心を探って明け渡しているあいだ、救い主はこれらの御言葉を父親に語られた。その御言葉は再生されていない心に平安をもたらしたのである。
私が十分な信仰を持っていて、思いのままにそれを使えたと、仮定してみよ。そのような信仰は、必要な時に分与される信仰ほど多くの栄光を主の御名に帰していただろうか?父親の飢え渇いた心に与えられた罪の赦しの知識については言うまでもない。
何年も前のこと、私がブリティッシュコロンビア州のバンクーバーで集会をしていた時、ある出来事が起きた。その出来事のために、私は主の御前に心を開きつつ、ほぼ一晩中起きていた。その晩、数百名のために私は祈った。その集会中、救い主の甘くて素晴らしい臨在がひしひしと感じられた。多くの弱って疲れ切った体が、主の御手の接触によって新たにされた。彼らは痛みや病から解放されて、十字架の麓にひざまずいた。私は第一バプテスト教会の牧師であるガブリエル・マギーレ博士の方を向いて言った、「今晩、主は信仰を分与しておられます。主の力が癒しのために臨んでいます」。彼は、「自分の人生でこれほど神の力の動きを感じたことはありません」と応えた。
一分後、われわれはある人の頭の上に一緒に手を置いた。真空のような感覚が私に臨んだ。とても空しく感じたのである。主の臨在は私と共にあったが、その人のために祈るための確信も信仰も私にはなかった。そして、その人に何も起きなかったのである!私は再び祈った。すると、とても空しく感じたので、私は叫んで「あなたはつい先ほどまでとてもすばらしくご自身を現しておられたのに、なぜ今はまるで去ってしまったかのように思われるのですか」と主に尋ねそうになった。そうする代わりに、私はその人の方を向いて言った、「兄弟、どうしてあなたはここにいるのですか?あなたはどなたですか?あなたがこの壇上に来た目的は何ですか?」。
彼は青ざめた。そして告白したのである!「私は専門家の催眠術師です」と彼は私に告げた。「この集会の力は催眠術の力です」と彼は述べた。彼はそのことで他の人々と議論して、自分を実験台にすることに決めたのだった。自分で直接調べることを望んだからである。彼は公の集会の機会を捉えて、神癒運動全体を暴くことを計画した。さて、この人は本当に病気だった!癒しを必要としていた。しかし、彼のための信仰を私が持っていたと仮定してみよ。この人を癒していたら、悲惨な結果になっていたのではないだろうか?というのは、思い出してほしいのだが、信仰が無力のとき――それは信仰ではなくなるからである。動きを伴わずに動くことはできないように、それ以上に、結果を伴わない信仰はありえないのである。
時としてわれわれが「信仰」と称するものは、信頼にすぎない。われわれは主に信頼する。しかし、信仰には足と翼と力がある。救いのための信仰を持てなかった人は救われない。その人は主に信頼して、いつの日かキリストのもとに行くことを約束できるかもしれない。しかし、救いのための信仰を得る時、それは救われていることを意味するのである。
いま私が話したこの人の事例がそうだった。その晩の間に与えられた信仰がいかなるものだったにせよ、それは私から去ってしまった。しかし、それは他のだれかのために祈る時までのことだった。次の人は神の摂理と御旨により、神だけが与えられる祝福を神から受ける用意ができていた。そういうわけで、われわれが祈った次の人は女性だったのだが、集会全体の中で最も顕著な奇跡の一つになったのである。
全く信仰に欠けているクリスチャンは一人もいない。信仰はその心の中に賜物、実として植え付けられている――その信仰はあなたの救いを維持するのに十分な信仰である。主に従って、主の目に喜ばしいことを行うのに十分な信仰である。しかし、その信仰を永らえさせるには、あなたは絶えず主に拠り頼まなければならない。太陽を拒むなら光を保てない。神の信仰を得ないかぎり、あなたは神を信じる信仰を持てない。こういうわけで聖書は「恵みにより、信仰を通して、あなたたちは救われたのです。これはあなたたち自身から出たことではなく、神の賜物です」と述べているのである。
恵みと信仰は大いに密接に関係しているので、両者を分けることはできない。その不思議さは次の事実に存する。すなわち、多くの時、「自分は全く無価値である」とわれわれが感じている時に、信仰が分与されるのである。それは決して功徳の所産ではない。この信仰の賜物は、恵みという美しい花ではないだろうか?人生という荒海を静めるこの信仰は、操縦士は最後までわれわれの面倒を見てくださると教えて、心を幸いにしてくれる。この無上の持ち物は、われわれが何かを与えたり行ったりしたから臨んだのだろうか?
この信仰――それが私に与えられたのは、私が主の衣の裾に触れて、痛みや苦しみを超越するためである――を受けたのは自分の言動のおかげである、と一瞬でもあえて言えるだろうか?試練の時にあなたが持っていたこの信仰――その時、開いた墓の横で、幻のうちに天が開かれたのである――悲しみのあまり、哀れな心は痛み、砕けそうだった時、天使の音楽が心の中に鳴り響いたのである――は、どんな形で臨んだのか?また、どんな理由で臨んだのか?素晴らしい十字架を調べたところ、恵みがその使命と命の務めを果たす時、なぜ恵みが信仰に対して微笑むのか、その理由を私は部分的にではあるが理解し始めたのである。
なんという人だろう
弟子たちと主はガリラヤ湖にいた。この湖は穏やかだったが、嵐が来たため大波になった。同じ湖、同じ湖水、そしておそらく――同じ日だった!ひどく恐れた弟子たちは、荒れ狂う嵐と激しい風によって恐怖に打たれた。あなたや私でも同じだっただろう。生活の光景はなんと速やかに変わることか!笑いが涙の中に呑み込まれ、幸いな心が悲しみの冷酷な手で絞め殺されるのに、長い時間はかからない。嵐と凪のこの出来事が起きたのは、弟子たちのためだけではない。その出来事を通してあなたや私の心に語りかけることを神が望まれたからでもある。
とうとう弟子たちが眠っているキリストを起こした時、キリストは弟子たちに一つの質問をされた。あなたはそれをよく覚えているだろう!それは、「あなたたちの信仰はどこにあるのか?」という質問だった。信仰はどこにあったのか?渡っていた湖の底に落ちてしまったのか?嵐に乗って飛んでいってしまったのか?船に打ち寄せる水の霧になって雲散霧消してしまったのか?彼らの信仰である御方は、常に彼らと共におられた。彼らの間違いは、嵐の現実はわかっていたものの、この御方が共におられる現実を忘れたことだった。彼らの信仰である御方は遠く離れてはおられなかった。「わたしなしでは、あなたたちは何もできません」というわれわれの主の御言葉を思い出せ。
それから、イエスは舟のへさきの方に進んで行かれた。彼は嵐を見据えて、激しい嵐に向かって命じられた。波はそれに従い、風は吹くのをやめた。イエスが語られると、弟子たちは御力を前にして畏怖の念に打たれた。弟子たちの信仰はどこにあったのか?あなたは知らないのだろうか?わからないのだろうか?それはあなたや私のそばにあるのと同じように、彼らのそばにあったのである。なぜなら、私はあなたに断言したいのだが、嵐の現実は主が去られたことを意味しないからである!欠乏はあなたが見捨てられた証拠ではない。それは奇跡へと導く扉かもしれない!「この人はなんという人だろう、風も海もこの人に従うとは」。
ペテロがこの船の中に立って、波に静まれと言うのを、あなたは想像できるだろうか?私にはできる――ただしそれは、海の主がその奇跡のための信仰を分与して、それが御旨にかなっている場合の話である。麗しの門のところにいた人を、崇高な霊的勇敢さにより、確信をもって癒したのはペテロだった。その人は癒され、ペテロとヨハネに従って宮の中に入り、道すがら神への賛美を叫んだ。「私が持っているものをあなたにあげよう」とペテロは言った。そして、自分がそれを持っていることを実証した。しかし、彼はそれをどこで得たのか?彼は上の部屋から出て来たばかりだった。この上の部屋の中に、麗しの門の傍での癒しの隠れた秘訣があったのである。
神の分与の事実をペテロは大いに自覚していたので、彼はこの癒しに続けて行った説教の大部分を、自分はいかに弱く、自分の救い主はいかに強いのかを述べることに費やした。癒したのは彼らではなく、彼らの力でもなかった。彼らの主だったのである。
この真理は、信仰を心から思いに移そうとするわれわれの哀れな儚い試みとは、なんと異なっていることか。信仰を、分与された恵みから冷たいものに、知的同意や信条に変えようとする試みとは、なんと異なっていることか。魂の窓を通して天から差し込む光の中にではなく、意志という聖くない通路の中に信仰を探そうとする試みとは、なんと異なっていることか。歩こうと悪戦苦闘している身体障害者と、それによって歩くための信仰を求めて祈っている身体障害者との間には、大きな違いがある。私の心は知っている。このような信仰が与えられるのは、魂が神の御前で待っている間であり、神の約束に信頼して安息する静かな麗しい姿勢を取っているときなのである。われわれの騒々しい悪戦苦闘という乱気流の中にあるときではない。私は言う、主を待ち望め。主の中に安息せよ!忍耐強く主を待て。そうすれば、主がそれをかなえてくださる。
ガリラヤ湖の青い波よ、押し寄せよ!荒れ狂う風よ、うなりを上げて吹け。大嵐よ吹け!私の無力さと思しきものを、お前は笑っている。揺れる船の中に立とうとする私の努力を、お前は嘲っている。「お前の信仰はどこにある」とお前は私に尋ねている。私の状態を嘲っている。私の信仰である御方は遠く離れてはおられない!しばらくの間、彼は眠っておられる。ご自身に信頼することを私に教えるためである。彼は眠っておられる。それは自分の力に信頼する代わりに、彼の約束と彼の臨在の力に信頼するようになるためである。然り、私の信仰である御方は遠く離れてはおられない。私はこの御方を見て微笑む。なぜなら、その御声が私のこの哀れな心に囁いて、「暴風や嵐のさなかでもわたしは安息できるのですから、あなたもわたしにあって心地よく休めます」と私に告げているからである。