信仰は二つのもののうちの一つである。神の賜物か御霊の実のいずれかである。これに疑いは少しもない。理性の回廊を調べるなら、必然的にこの同じ答えに至るだろう。もし「一粒のからし種のような」信仰に山々を移す力があるのが真実なら、このように強力な武器を神はわれわれに任せて持たせると、あなたは思うだろうか?神の定めによらずにそれを持つことは、クリスチャンがそれによって神との調和・交わりの中を歩むことのできる案配や体系をすべて壊すだけでなく、あなたや私のような弱い人々の手にわれわれを滅ぼしかねない道具を渡すことになる。
私が言っているのは、われわれは信仰を物質的顕現のためにしか使わなくなるだろう、ということではない。その霊的反動は祝福ではなく呪いとなり、成長の助けではなく妨げになるだろう、ということである。一度ならず、私は信仰を行使しようと努力してきたし、祈りに対して願いどおりの答えを得ようとしてきた。しかし、その結果、続いて起きた出来事の光に照らしてわかったことは、願ったとおりに祈りがかなえられなくてずっと良かった、ということだった。
こういうわけで神は、各自が神の御旨と調和して歩むのに必要な量の信仰を、各々の人に賜るのである。その量を超えて信仰が分け与えられることはない。この教訓は私にとってあまりにも麗しいものなので、それは私の心の中に、私が愛し仕えている主に対する感謝と賛美の歌を呼び覚ます。信仰が分与されない時、私には神の御旨がわからないかもしれないが、信頼して待つ。神が最善を目指して自分の人生の中に働いておられることを知っているので、私は幸いなのである。
われわれは、神が見えない時でも神に信頼し、理解できない時でも神に拠り頼まなければならない。しかし、この信頼を信仰と呼ぶ間違いを犯さないようにしようではないか。信仰は、その度量と力に応じて、働き、動き、作用し、物事を成就する。もちろん、各々に信仰が与えられており、その信仰によってわれわれは自分を神の子供と呼ぶ。また、われわれは信仰の賜物・分与を受けており、その信仰のおかげで自分が死から命に移ったことを日々自覚する。
われわれが地上の日用品を量るように、信仰は神の量りで量られている。一度ならず、われわれの祝福された主は小さな信仰や大きな信仰について話された。弱い信仰や強い信仰について述べられた。われわれが信仰の賜物あるいは信仰の実を必要とする時、それは主によって分与される。それはわれわれの意志ではなく神の意志が、地上で、われわれによって、それが天でなされているようになされるためである。われわれの願いが神の御旨に反する時が多くある。多くの時、われわれのキリスト教世界はジョージ・ミュラーの生涯を、神を信じる人の心に宿る信仰の力を示す、終わりの日における一つの例と見なしてきた。その生涯は、祈りに対する奇跡的応答の素晴らしい連続だった。しかし、彼の伝記を読み終わったとき、あなたは次の事実に気づかなかっただろうか?すなわち、彼は自分が神の御旨の中心にいることを知っていたのである。飢えた幼子たちの口には食物が必要であり、小さな孤児たちの体には服が必要だった。ミュラーは信じていた。自分をこの務めに召された主は、すべての必要を満たしてくださる、と。だから、必要が生じた時、信仰が与えられたのである。
疑いに対する奮闘、苦悩、戦いは全くなかった。分与された信仰の現れしかなかったのである。
信仰は賜物である
彼は熱烈な効果的祈りを信じる熱心な信者だった。何度も、彼は自分のとりなしの務めの深遠さを示す。彼は言う、「多くの人々の祈りがかなえられない理由は、根気強く祈り続ける価値を学んでいないからである」と。しかし、危機に直面する時はいつでも、彼は自分の必要をそのまま主に告げて、「それは成就した」と信仰によって単純に見なしたものだった。彼の書き物を信じるなら、それは女性が電話の方に歩いて行って、食料品店に電話をかけ、必要なものを届けてくれるよう依頼するのとほぼ同じくらい単純だった。このようにミュラーは神に祈ったのである!
あなたはそのような信仰を自分自身で持てるだろうか?神の御霊の賜物や油塗りから離れて、そのような能力を持てるだろうか?自分が持っていないものを行使しようとすることは、霊の領域では行き過ぎに通じる。そして、しばしば、自分が持っていない信仰を用いようとすることは、自分が持っている神に対するなけなしの信頼をなくす結果になる。信仰の分与という言葉で私が言わんとしていることを、描写することにしよう。
主はご存じだった
数年前、私はオレゴン州のメドフォードにある長老教会で集会を導いていた。ある午後、主は癒しの集会を開くようわれわれを導かれた。その場所は混んでいて、多くの人が外や窓台の所に立って建物の中を覗き込んでいた。その中の一人に、松葉杖を頼りに歩いている身体障害者の小さな少年がいた。私の心はこの小さな子供のために痛んだ。その子の青い両目には哀愁感が漂っていて、心が騒いだからである。静かに私は自分の心を主に向けて、この小さな男の子を癒すための信仰を主に求めた。
すると、舞台を横切って、一列に並んだ子供たちが祈りを求めてやって来た。その子供たちの大部分は親に付き添われていた。一人の小さな少女が私の前に立った。彼女の母親は泣いていた。私は少女の頭の上に両手を置いて祈った。
何も起きなかった。しかし、集会の雰囲気が変わったように思われた。どんよりとした重苦しい空気が私の上に重くのしかかった。私は再び祈った。すると、この感覚はさらに強まるように思われた。私は泣いている母親を困惑して見つめた。母親はすすり泣いていた。とうとう母親は、ヒステリー気味に、「どうしてイエス様は娘を癒してくださらないの?」と叫んだ。
「あなたはどこで礼拝をしていますか?」と私は尋ねた。「私はメソジスト教会に通っています」が母親の返答だった。
私は母親をしげしげと見つめた。すると私の心の中にある疑いが湧いた。まさにその時、主は私の横にいた人々の一人に見分けの賜物を与えてくださった。その人はこの女性に、「あなたはかつて神秘主義やオカルトにはまっていたことがありますか?」という質問をした。
「あります」と母親は告白した。彼女の小さな少女は、そのメソジスト教会に通っていなかった。母親自身、数ヶ月間、そこに行っていなかった。母親は毎週、ある心霊主義者の降霊会に出席していたのである。それで私は、なぜ私の主がご自身の祝福と信仰を差し控えられたのかがわかった。
母親は魂の苦しみの中で叫び続けた、「イエス様は他の人々を癒されました。私の小さな娘も癒してくださるよう、イエス様にお願いしてください」。
私は言った、「姉妹、カルバリでイエス様が血を流して成就してくださった救いについて、何かご存じですか?」。
彼女は言った、「かつては知っていました。しかし、自分の人生に悲しいことが起きて、神の御手を少しばかりさらに強く握る代わりに、神に背を向けてしまったのです」。私の求めに応じて、彼女は「私は今ここで自分の心をキリストにささげます。どうか私のために祈ってください」と言った。彼女は私に続いて明け渡しの祈りを繰り返した。そして私はこう述べて祈りを終えた。「私は私の救い主であるイエス様に信頼します。そして、私のすべての罪のための贖いである血の約束を求めます」。
私の心の中に、そして、彼女の心の中にも、天からの栄光の波が押し寄せてきた。私が自分の手を彼女の小さな少女に伸ばした時、身体障害者としてのその子の日々は過ぎ去ったことを私は知った。少女は自分の足で跳ね起きた。癒されたのである!それから、私は体の不自由な哀れな少年を見つめた。そして、手をその子の方に差し伸べて、祈りのために窓をよじ登って講壇のところに来るよう手招きした。少年は来なかった。その代わりに、松葉杖を外に残して、窓を通り抜けた。その少年もまた癒されたのである。
聖霊はこの集会でこのように責任を負ってくださったので、それに匹敵するものを目にすることは滅多にない。人々が癒されただけでなく、多くの人々が救われたのである。講壇の下の通路に、一人の親愛なる老婦人がやって来た。その老婦人は何年も車イスに乗っていたが、飛び跳ね、叫び、神を賛美した。救い主が人々と一緒に通りを歩かれた時、人々がしたのと同じようにである。なんという集会だったことか!人々は救い主を崇め、天使たちは喜ぶ、なんという時だったことか。
さて、その少女の癒しのための信仰を私が持っていたと仮定してみよ。この少女の頭の上に私が最初に両手を置いた時、彼女は良くなって去ったと仮定してみよ。少女の母親は、それを降霊会は主の秩序の一環である印として受け取っていただろうし、その時から心霊主義――これが神からのものだとは私は信じない――の中にますます深く巻き込まれていただろう。だから、理解力に欠けた状態で祈った時、信仰と確信の霊は私から引き上げられたのである。なんと空しく感じたことか。その後、母親がイエスを自分の個人的な救い主として受け入れた時、信仰が分与されて御業がなされた。癒されようともがく代わりに、「私たちの信仰の創始者であり完成者である」イエスを見つめるとき、人生はなんと甘く豊かなものになることか。
幸いな朝
数年前のある三月の朝、私は心の中にナザレ人の愛と臨在を感じつつ家を出た。私はある哀れな女性のために祈るための途上にあった。その女性は正気を失って、そのような患者のために設けられた施設の中に閉じ込められていた。今でも私は、彼女の夫が失意の中から絶望のうちに叫んだ時の、そのすすり泣きが聞こえる。災いが――突然何の前触れもなく――稲妻のように一瞬のうちに美しい家庭を襲った。神だけが彼らの希望であり、それを彼らはわかっていた。私はこの女性のために是非とも祈りたくて、主は祈りを聞いてかなえてくださると確信しつつ出かけて行った。彼女はとても無力な状態で、悪霊に捕らわれていた。私がようやく彼女の部屋に着いた時、彼女は自分のものではない声で冒涜的で卑猥なことを叫んだ。
その朝、われわれの祈りに対する目に見える応答はなかった。しかし、この哀れな取り乱した人は私の外套の襟をつかんで、かすれ声で「諦めてはなりません。そうする代わりに、イエス様だけが施せる癒しを求めて恵みの御座にすがり続けましょう」と言い張った。そこで、私は私の教会に祈るよう求めた。また、他の教会にも求めた。われわれはこの哀れな患者の解放のために一日中祈ることで合意した。また、二人以上の祈りの戦士が、この女性が解放されるまで祈り続けることを決意した。
午後四時頃、教会の祭壇近くで祈っていると、私は主の御霊が自分の上に臨むのを感じた。その油注ぎの衝撃力の下で、私は立ち上がり、感動と主の臨在の栄光で震えつつ、「私たちの祈りは聞き届けられました。私たちの願いは間もなくかなえられます」と宣言した。私は電話の所に行って、その女性の夫に「勝利を得たことを私は確信しています」と告げた。われわれは勝利を得たのである!翌日、短い祈りと油塗りの後、彼女は勝利のうちに起き上がった。そして、家に行って、敬愛する夫や子供たちのもとに再び戻った。悪霊が彼女の体を去った瞬間を私は知っていた。悪霊が彼女の哀れな魂を手放した瞬間を私は感じていた。
あの勝利の瞬間、主イエス・キリストの信仰が与えられた――解き放たれた――ことを私は知っている。私はその信仰を自力で解き放つことはできなかった。もし私が、神の御旨に対する限られた理解しかない状態で、そうすることができていたなら、彼女は私が最初に祈った時に癒されていただろう。しかし、全知なる主が愛と恵みによって分与してくださる信仰を私のうちに解き放たれるまで、この癒しの奇跡は起きなかった。われわれが持っているこの信仰は一粒のからし種のようなものである。ある女性が先日私に「どうか私のために祈ってください。私には十分な信仰があります」と言った。彼女が言わんとしたことを私はわかっている。われわれはそのような言い回しを何度も何度も耳にする。私はこう答えた、「姉妹、それほど信仰があるなら、どうしてあなたは病気なのですか?」。彼女は怪訝そうに私を見つめた。そして、少し考えてから、「一粒のからし種」のような信仰を求めて祈るために去って行った。
過去を回想して執筆している今も、私は霊の中に立っている。私は私の主が私を導いてくださった道を振り返っている。カナダと合衆国での諸々の集会の光景が見える。それらの集会では、神の恵みにより、たった一月のうちに一万人もの人々のために祈る特権に私はあずかった。心に堅く刻み込まれた諸々の経験がなければ、そのようなことはだれにもできない。ある集会では、雰囲気は張り詰めた困難なものかもしれない。祈りは空しく思われ、勝利をもたらそうとする努力も失敗したように思われるかもしれない。すると、栄光の波と聖霊の力の奔流が観衆全員を天の門に引き上げるのである。
そのとき、私は天のそよ風が私の頬にキスするのを感じた。そして、観衆が霊の中で引き上げられて、「これは私にとって天のようです」と実際に歌うのを私は見た。このような集会で私が強調したのは次の偉大な真理だけだった。すなわち、人自身は「空中の権」の前では無力であり、主ご自身の臨在と力の顕現と証拠がなければならない、という真理である。
救い主は「わたしなしでは、あなたたちは何もできません」と言われた。時々、われわれは愚かにも、「ああ、私にはできます。私には信仰があるからです。私は信仰を用い、行使し、信仰によって物事を成就することができます。なぜなら、『信仰があるなら、山々を移すことができる』と御言葉が述べているからです」と答えてしまう。そのような答えに対して私は言おう、「先に行って、試してみなさい。そして、結果がどうなるのか見てみなさい」と。
信じる者にはすべてが可能である。しかし、あなたが何を信じているのかが重要である。恵みと神聖な分与がなくても、自分は山々を移せる力を持っている、と信じることは実に危険である。自分自身の力で、そしておそらくは自己の義に基づいて、そのような企てを試みた多くの人々を私は知っている。しかし、喜びではなく悲しみが彼らの分け前だったのである。
聖職者の娘
あなたがイエスを信じる時――この場合は別である!あなたが彼の臨在と約束、彼の力、彼の恵み、彼の力強さを信じる時、あなたは勝利の大路を行進しており、かなえられた祈りという丘々に向かっている。あなたは減少し、彼は増し加わらなければならない。自己が少なければ少ないほど、彼はますます増し加わる。自己の命が自己の精神と高ぶりと共に十字架につけられればつけられるほど、ますます彼の命の復活の光はあなたの魂と体に力と健康を分け与える。
私が決して忘れないだろう一つの集会がある。その集会は数年前にウィニペグの競技場で開かれた。集会中、われわれの親愛なる友人である聖公会の大執事が手伝ってくれた。彼はその集会に自分の聖職者の一人である、ホッブスという名の敬虔な牧師を連れて来た。この親愛なる兄弟には一人の娘がいて、その娘はきわめて有名な病院から死ぬために家に送られていた。人に関するかぎり何の希望もなかった。
そこでこの二人の牧師はこの女性を集会に連れてきた。その時、彼女はとてもひどい苦痛の中にあったため、鎮静剤を打っていた。彼女は生きるために鎮静剤を打たなければならなかった。その苦痛と痛みは耐えられないものだったからである。彼女は大きなイスに座っていた――枕が彼女を囲んでクッションになっていた。場内は人々で満ちていただけでなく、主の臨在にも満ちていた。
集会の終わり頃、私は常ならぬ――しかし今では慣れ親しんでいる――感覚が自分の心の中に臨むのを感じた。私は文字どおり彼の神聖な臨在によって溶かされた。私は近くに座っている奉仕者の方を向いて言った、「主はこの場におられます。主は今晩奇跡を行ってくださると思います。その奇跡はこの集会を御力の現れで揺り動かすでしょう」。こう言うやいなや、この病気の女性のための信仰が分与されるのを私は感じた。
私はぐずぐずしていなかった。大執事の横に歩み寄って、この牧師の娘のために共に祈るよう彼に頼んだ。彼は私の手を握って言った、「兄弟、私はこの集会にイエスの臨在を感じることができます。これまでの人生でかつて感じたことがないほどの臨在です。彼は今晩この奇跡を行ってくださると私は感じます」。イエスはそうしてくださったのである!この少女の哀れな、弱った、病気の体の上に、神の御手が置かれ、彼女は永遠の御腕の中で安息したのである。彼女の頬がたちまち健やかになるのをわれわれは見ることができた。彼女は死なずに生きた。今も彼女はわれわれの素晴らしい主の御力の証しとして生きている。
一年後、その同じ建物をもう一度訪問した時、私はあの晩主が私に訪れてくださったまさにその場所に立った。そこに立った時、私は自分がそこで何をしていたのか、そして、主が私の哀れな心に欠けていた信仰を私に分け与えてくださった瞬間、何が起きたのかを思い出した。こういうわけで、信仰は神の賜物である、と私は言っているのである。あなたがその信仰を持っていないのは、それを意のままに使うのではなく、主がそれを賜ってあなたに所持させる目的のために用いるためである。
繰り返そう。主は、幸いな御旨にかなうすべての事に必要な信仰を、われわれに与えてくださる。この信仰はまず与えられ、その後、御霊の実として成長する。しかし、山々を移す信仰――この信仰は奇跡的な力で病を追い払い、あらゆる壁を一掃する――については、私の見解は依然としてこうである。すなわち、このような信仰が可能になるのは、それが分与される時だけであって、また、それが救い主の御旨である時なのである。
それゆえ、イエスに全幅の信頼を置け。あなたの助けはただ彼からのみ来るからである。主の胸にひたすら寄り掛かれ。あなたが彼に触れる時だけ、あなたは主の臨在の甘さを味わえるからである。あなた自身の霊的達成の力を信じるよう悪魔に騙されてはならない――カルバリの人なしではあなたは何もできないからである。
信仰が差し控えられても彼に信頼せよ、そして、信仰が与えられたら彼を賛美せよ。「彼はすべてを益にしてくださる」ことを覚えよ。われわれのすべての必要を満たす彼の気前よい備えだけでなく、彼の制限して差し控える御手もなければ、あなたも私も道すがら大失敗や間違いを犯していただろう。今日あなたにとって良く思われることも、明日になると悲しみの服をまとうかもしれない。あなたに対するご自分の道を彼に進んでもらう方が、常に彼に対して自分の道を押し通そうとすることよりも、どれほど優っていることか。
これが私のメッセージである。それはイエスである!ただイエスだけである。あらゆる良い完全な賜物の与え主であるカルバリのキリストは、あなたの信仰の創始者また完成者でもある。あなたを手放さないこの愛の中で喜べ!あなたのことをあなたよりも良く知っておられる友なる御方の臨在の中で幸いであれ。そうするなら、人生最大の労苦に見舞われる日も、あなたは歌うだろう。
「道中ずっと、私の救い主は私を導いてくださり、 私がうねり道を歩むたびに励ましてくださる。 試練に遭うたびに私に恵みを与えてください、 命のパンで私を養ってください。 たとえ私の弱々しい歩みがよろめいても、 また、私の魂の渇きがいかばかりでも、 私の前にあるその岩からほとばしる、 見よ、喜びの泉が私には見える。」
神の信仰であるこの信仰を持つことに優る喜びはない!