クリスチャン経験は一大冒険である。われわれは決してその歩みや経験の最後に達することはない。今日われわれが登る山頂がいかなるものでも、少し先には登るべき別の山頂が常にある。未来は過去よりも壮大である。まだ探検したことのない理想郷の野辺や栄光の草原があるからである。この偉大な真理は、主イエスに従う者にこのような課題を突き付ける。彼の指導の下で――彼は決してせかしたり強制したりなさらないからである――人の目には見えない世界の門のすぐ近くまで霊の中で登る特権にわれわれはあずかる。そして、われわれはキリスト・イエスを通して、人知を超えた神の平安によって保たれる。その時、聖書がとりわけ明確に述べている一つのことにわれわれは直面し始める。霊の事柄は御霊の思いによってのみわきまえられると、聖書ははっきりと述べている。人の有限な思いでは、無限のものだけでなく、無限のものに関するものも理解できない。その理由は、これらは二つの明らかに異なる領域だからである。主ご自身から離れて、一方から他方へ至る門はない。われわれの救い主によらないかぎり、人が神を理解したり神に近づいたりできる方法はない。
彼はご自身について言われた、「わたしは門です。わたしによらなければだれも御父のもとに来ることはできません」。もし精神という門を通して、知性という道に沿って、霊の領域の中に入ることが人に可能だったなら、人はすぐに天に達するバベルの塔を建てていただろう。また次にわかるのは、人は神ご自身を退位させようとしていただろうということである。事実、これこそまさに人が行おうとしてきたことである。「昔の宗教」に代わるものを提供している現代の哲学者はほとんどみな、神を人間化し、人を神化しようとしている。自分の有限な知性で無限のものを理解しようとする試みに挫折したため、彼らは御霊に関するもの、神の力に関連するものをすべて物質化しようとしてきたのである。
その結果は何か?人の限られた有限の理解力のゆえに、人は「信仰による、恵みによる救い」を行いによる救いに変えようとしてきた。自分が何者なのかよりも自分が何を行うのかを強調しようとしてきた。したがって、人の目から見て、性格が「十字架」となった。この十字架の上で自己は磔にされ、卑しい本能は苦しんで身もだえるが、死ぬことは決してない。その結果、その上で救い主が死なれた十字架は、人にとって不必要な時代遅れのものになった。
これはみな、私が今述べようとしていることに照らして見るとき、とても重大である。どうして天然の人は、御霊の他のすべての実は神に帰しているのに、信仰だけは有限な知性の産物にしてしまったのか?非常に多くのクリスチャンにとって、信仰とは依然として約束や真理を信じる自分自身の能力のことであり、時として、絶え間ない確認の過程によって疑いや不信仰を追い払おうとする自分自身の葛藤に基づくものなのである。
つい先日、ある奉仕者が信仰とは何かを説明するのを私は聞いた。彼が言うには、信仰はわれわれの生活のあらゆる面を発達させるのに必要な要素だという。これに私は同意する――いずれにせよ、ある程度までだが。われわれが路面電車に乗る時、われわれは信仰を行使している、と彼は言った。われわれは電車を信じており、運転手を信じており、線路に沿って乗り物を進ませる力を信じているというのである。
彼はわれわれの日常生活に関連する多くのものについて述べて、自分が述べたことはわれわれの信仰の現れであることを支持する、多くの家庭的な例を用いた。彼はこう質問して締めくくった、「もし私たちが運転手を信じているとするなら、私たちは神を信じるべきではないでしょうか?」。
彼が述べた信仰は全く新約聖書の信仰ではなかった。それに関係すらしていなかった。イエスが語られた「山を移す信仰」は「運転手を信じる信仰」が成長したものであると言うことは、私には馬鹿げたことである。この世が「信仰」と解釈している精神をあなたがどれほど養い育んでも、それはイエスが遠い昔に紹介された信仰へと成長することは決してない。正直になろうではないか!われわれもまた、まさにそれをしようとしてきたのではないだろうか?
「それは成就した、と私は信じることにします。それは成就したと信じられれば、それは成就されるのでしょうか?」とわれわれは言ってこなかっただろうか?約束を見つめて、それから、自分の精神力を尽くして、自分自身の信じる能力によって結果を生じさせようとしてこなかっただろうか?しばらく前のことだが、ある哀れな、欺かれている人がいた。彼はまぎれもなく自分の主を愛していたのだが、神を信じる自分の信仰を証明するために、蛇の入った籠の中に手を突っ込んだ。数週間彼は健康を害して、生死の境をさまよった。彼は無事回復したが、これは残念な出来事だった。真のクリスチャン経験と、神との聖書的歩みに対する多くの人の確信を大いに損なったからである。彼はまぎれもなく神を信じていた。しかし、彼が信仰と称していたものは、罪深い自惚れの香りを帯びていたのである。
数年前のある日のこと、私はインドの敬愛されている霊的指導者であるパンディータ・ラマバイの秘書の一人と長時間会話した。彼女は私に、どのように「コブラがムクティにやって来た」のかの物語を話してくれた。そしてそれに続いて、家や学校にいた少女たちを訪れてくださった聖霊の素晴らしい栄光に満ちた訪れについて話してくれた。ある晩のこと、何匹ものコブラが現れて、その集落にいた少女たちの多くに噛みついた。疑いなく、数瞬の間、少女たちは大いに恐れた。しかし素晴らしいことに、主の御霊はこの緊急事態のための信仰を分与してくださったので、うめきや苦悶の叫びの代わりに、勝利と賛美の大きな叫びが天に立ち上った。致命的だったにもかかわらず、噛まれて死んだ少女は一人もいなかったのである!全員癒された。少女たちを切り抜けさせたのは、分与された神の信仰だったのである。
信仰を信じる信条はあるが、信仰は信条以上のものである!山の上に岩が一つあるかもしれないが、山はこの岩以上のものである。この岩が「自分は山である」と言い張るなら、私はそれに向かって、「あなたは自惚れすぎです」と言う。強調すべき真理はこれである。人が自分の知力で造り出した材料を、霊的な薬用るつぼの中で混ぜても、それで信仰を造り出すことはできないのである。やや多めの確信と、追加の一つまみの信頼を、やや強めの信条に混ぜても――これに少しばかり他のものを加えたとしても――山を移す信仰はできない。あなたが自分自身の無力さを悟って、主に全く拠り頼むようになる時、あなたはこの分与された恵みの現れに最も近い所にいるのである。
神の愛
ガラテヤ五・二二は、信仰は御霊の実であると述べている。今はこれを信じ始めるべき時ではないだろうか?血で洗われた心と命という木に成長する他の恵みの実を見よ。まず、愛がある。われわれが愛するのは誰の愛によってか?自分の心の中に起きたことのゆえにさらに清められて甘さを増したわれわれ自身の愛によってだろうか?否、断じて否!聖霊によって心の中に注がれた神の愛によってである。心の各部分を満たす神の素晴らしい愛によってである。この神の愛を持つとき初めて、自分の敵を愛することが可能になる。
ステパノが残忍で不正な人々によって石打ちにされた時、何が彼に「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫ばせたのか?効果を求めてこう言ったのではない!危機に際して英雄を気取ったのでもない。聖霊によって彼の心の中に注がれた神の愛のゆえに、彼は自分を呪う者たちを、自分を殺す者たちへの純粋な愛によって、祝福できたのである!「そのように行動するのは馬鹿げたことだ」とこの世は言うかもしれない。これは再生されていない人には馬鹿げているが――クリスチャンにはそうではない――恵みによって神の性質にあずかる者となっておらず贖われていない人には、これは馬鹿げたことである。
それは真の愛だった――神の愛がステパノの心を通して湧き出して、恵みの源から川のように流れたのである。これはカルバリの苦しみの中で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」と語られたわれわれの救い主に実に似ていないだろうか?愛のゆえにイエスはこう仰せられたのである。神の愛のゆえである!地上をしばし訪問されたイエスの中にあった天の愛だったのである。
ステパノとイエスが実際に同じことを言ったのは偶然ではなかった。ステパノは自分の主の真似をしようとしていたのではない。また、人々が努力して真似するよう、イエスはご自身をたんなる見本として示されたのでもない。実は、彼らが同じことを述べたのは、両者がこの同じ愛を持っていたからである。それは両者の心の中にある神の愛だったのである。イエスがそれを持っておられたのは、彼は神だったからである。ステパノがそれを持っていたのは、彼が自分の心の中に神を持っていたからである。
人の愛は発達させることができる。その質と量を増すことにより良くすることができる。しかし、たとえ人が百万年生きたとしても、人はそれを神の愛に匹敵するほど良くすることは決してできない。われわれはどのようにして神の愛を得るのか?神がそれを与えてくださるのであり、御霊がそれを分与してくださるのである。これは神の愛に言えるだけでなく、神の信仰にも言える。
山々からの喜び
次に喜びである!喜びは、ガラテヤ人への手紙でパウロが述べている、御霊の二番目の実である。その重要性が二番目なのではない。血で洗われた心の中に御霊が育んで可能ならしめるこれらの恵みの一覧表の中で二番目なのである。この喜びとは何か?この喜びの発現や表れは、環境や状況によるのだろうか?この喜びが経験の領域の中で働くには、他の多くのことが喜ばしくなければならないのだろうか?
数年前、私はある地区の野外集会の語り手だった。その地区では、人々の多くがとても貧しかった。ある晩のこと、集会の直前に、私は人々から遠ざかるために自分の車を運転していた。説教のために講壇に登る前に、少しのあいだ黙想する機会を持つためだった。最新の自動車で数マイルの距離を走るのに、あまり時間はかからない。すぐに、私は野営地から五マイル離れた所にいた。森林地区を通った時、私は四人の子供を連れた男女が森から出て来て道を歩き始めるのを見た。彼らはみな裸足で、自分たちの靴を手で運んでいた。つまり、彼らは幸運にも靴を持っていたのである。四人の子供の中で一番年上の子供だけが靴を履いていたのである!
私は車を止めて、彼らに挨拶した。微笑みながら、しかし明らかにはにかみながら、彼らは乗車を申し出た私の誘いを受け入れた。彼らは野外集会に行くところだった。野外集会の門の所で、彼らは草の上に座って自分の靴を履いた。たった数分で、彼らは私の車で三マイル旅した。その道は徒歩だと一時間以上かかっただろう。次の晩、私はたまたまこの道を再び通り、彼らを車に乗せた。そうなったのは、私が毎晩その近所にいて、一緒に車で集会に行くよう彼らにお願いしたからだった。
道すがら、遠慮や気恥ずかしさがなくなってからは、彼らは証ししては歌い、歌っては証しするようになった!彼らの喜びは満ち溢れていて、それは私の魂にとって一服の清涼剤だった。そのおかげで私はよりよく説教できたのである!彼らは、コンクリートの道で靴の革がすり減るのを防ぐために、自分たちの靴を手で運んだ。彼らはヨブが所有していた有名なダチョウのように貧しく、山々の何マイルも後背に住んでいた。しかし彼らは、大邸宅に住んでいる多くの人や、この過ぎ去り行く世のものをありあまるほど持っている多くの人よりも、遥かに富んでいたのである。
野外集会が終わりに近づいたある晩のこと、私は父親に言った、「おそらく、私の兄弟よ、主があなたにさらに良い大きな家を与えてくださる日が来るでしょう。ご存じのように、主は時として、私たちを霊的に繁栄させてくださるだけでなく、物質的にも繁栄させてくださいます。聖書はこう言っています……」。兄弟は私を遮った。父親は幸せそうな微笑みを浮かべて、歌い始めた。
「テントでも小屋でもかまわない。 彼処には私のための宮殿がある。 たとえ故郷から離れていても、それでも私は歌う、 神に栄光あれ、私は王の子である、と。」
このささやかな人々は父親がこう歌うのを助け、彼の良妻もこう歌った。歌い終わった時、父親は山育ちの年を経た自分の頭のもじゃもじゃの髪の毛を掻いて言った、「プライス兄弟、私を幸いにするために、私は大きな家を持つようになる、と私に言う必要は全くありません。もし主がそれを私に与えてくださるなら、私は主に感謝するでしょう。しかし、私の心の中には、この世の有り金を全部もらったとしても売りたくないものがあるのです。それは聖霊の喜びです」。
これが私の言わんとしていることである。朝起きた時、「今日は喜びに満ちた日になるでしょう。私は今日、大いに幸いでしょう。多くの喜びを持つことを心に決めたからです」と言っても仕方ない。喜びがあるかないかのいずれかである。この世の人に持てるのは人工的喜びであって、それは環境にもてあそばれ、状況に支配されるものである。しかし、クリスチャンは聖霊によって分与された喜びを持つことができ、人生のどんな状況下でも喜びの現れを楽しむことができる。この喜びは周囲の状況によらないし、環境に左右されることもない。それは神の賜物なのである!
平安、全き平安
それから、平安である。ああ、神を愛するすべての人の心の中に神が植え付けてくださるあの麗しい平安の甘さよ!イエスが「わたしの平安をあなたたちに与えます!」と仰せられた時、それは弟子たちにとってなんと素晴らしい日だったことか。それはこの世が知る平安ではない。なぜなら、そのような平安は偽物の、弱々しい、もろいものであり、問題という風が吹けば、いつでも嵐の中に呑み込まれかねないからである。
神が与えてくださるこの平安は、人の理解力を全く超えている。それはとても深いので、水面でどんな問題が起きても決してそれに影響を及ぼせない。それはとても神聖なので、何人の手も決してそれを奪い去れない。この平安は魂の奥底に据えられているのである!この平安は、ピラトの大広間にいた吠え猛る群衆の前で、イエスがその法的権威によって「保たれた平安」と同じものである。
あなたに問いたい(なぜなら、われわれが真理を認識して受け入れることが必要だからである)。あなたに再び問いたい。「あなたはこの平安を造り出せるだろうか?心構えを切り替えたり、見通しを変えることで、あなたはそれを生じさせられるだろうか?神だけが与えられる平安をあなたは育めるだろうか?」。あなたも私もその答えを知っている!嵐のただ中で、愛の御腕の中に憩え。そして、「平安、全き平安、たとえ周囲で悲しみが荒れ狂うとも。イエスの懐には静けさしかない」ことを知れ。それは御霊によって分与される、神の平安である。われわれがなすべきは、それを受けることだけである。これがキリストを中心とする命――キリストと共に神のうちに隠されている命の麗しさである。
信仰も同じである。神は玩具として信仰を賜るのではない。それは、われわれを滅ぼすために働く玩具ではないし、御旨に反して働く玩具でもない。神は私の必要を知っておられる。あなたの必要も知っておられる。まっすぐ歩む者たちに良いものを差し控えたりはしない、という約束を神は与えてくださった。それゆえ、われわれはこの約束に安息する。そして、主がわれわれの内に住んでおられるように、われわれも主の内に住む。
主が臨在しておられること――主は理解して、顧みてくださっていること――を知るだけで、私はこの喜びを十分に知ることができる。神を愛する者たち、すなわち、御旨にしたがって召された者たちには、すべてのことが共に働いて益となることを知るとき、この喜びは永遠に湧き出るようになる。それから、われわれは安息を知るようになる。自己に信頼するのではなくキリストに信頼するようになるとき、この安息が生じる。なぜなら、われわれは自分の心配をすべてキリストに委ねるようになるからである。
私はあなたに保証しよう。あなたの人生の中で御旨が進展していくとき、信仰が必要な場合にそれが差し控えられることはない。なぜなら、あらゆる良い完全な賜物の与え主は、われわれの信仰の創始者であり完成者でもあるからである。