第十二章 生ける水

チャールズ・プライス

日中の暑さと労苦の後、われわれは寝ることで安息と休養を得る。この睡眠の中から、われわれは目前の任務のための新たな力と共に目覚める。死の中からわれわれは目覚める!われわれの栄光の主について、「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、死ぬなら、多くの実を結びます」(ヨハネ十二・二四)と述べられている。

主の死の中から永遠の命という輝かしい収穫が花咲いた!主ご自身が眠った者たちの初穂となられた。死なくして復活はありえない。主がわれわれに復活の命を分与されるのは、われわれが主のために生きるためではなく、主のために、われわれが喜んで死んで主にわれわれの内で主の復活の命を生きてもらうためである。

堕落した状態にある人類の中には住めないことを神はご覧になった。命の木から食べることによって人が堕落した状態で永遠に生きることのないよう、死が臨まなければならなかった。王の布告が発布された、「罪を犯す魂は死ぬ」。キリストが彼の民の中に住むことができるのは、ただ新創造においてだけだった。そのとき、神の御霊は人と呼ばれている実体の領域の中に再びご自身の住まいを定められる。それゆえ、予型としての旧約の諸々のいけにえと、一度かぎり永遠にささげられた、その本体としての新約のいけにえは、われわれを死の中にもたらすだけでなく――死を通して――主の復活の力にももたらす。

主がわれわれのためにカルバリの十字架の上で苦しまれたのは身代わりだった。主がこの呪われた木の上で死なれたのは身代わりだった。主はわれわれをご自身と共に十字架に連れて行き、それから、十字架からご自身の墓の中に連れて行かれた。そして墓を通って、われわれは主と共に最初の復活節の夜明けと、主の温かい永遠の光とを迎えたのである。主の最初の降臨の時、宿屋に主のための場所はなかった。受肉前の主の栄光は天を満たしていたが、それにもかかわらず、主が人の姿を取って、受肉の奇跡により、処女の母親から生まれた時、宿屋に主のための場所は見つからなかった。すでに満室だったからである!それと同じように、今日、主が内住のキリストとして降誕される時代、誰が自分の体を主の宮にして、主にこの土の器の内側に住んでもらうことを願うだろうか?もし満室なら、主はご自身の住まいを定めるための場所を見いだせないのである!

主の来臨は命、光、健康をもたらすことを理解できてさえいれば、われわれは自分の利己的な肉的願望や目的に占有されるあまり、主を追い出してしまうようなことはなかっただろう。われわれの病と悲しみを担われた方は、来て、われわれにご自身の平安、安息、喜びを与えてくださる。

主が来られる時、主は地に信仰を見いだされるだろうか?一歩進めて――主はわれわれである「地」の中に信仰を見いだされるだろうか?われわれが自分の行いをあまり気にせず、聖書解釈に関する自分の哀れな論争を忘れて、自分の存在を大きく開いて栄光の主に入って来ていただくなら、栄光の世界の天使の合唱団による喜びの歌が再び始まるだろう。このような明け渡しにより、天全体が喜ぶだろう!あなたは主のために余地を設けるほど、主を信じているだろうか

内側から外側へ

主は郵便屋のように、御父からの贈り物を持って来て、それをわれわれの戸口に置き、それから歩き去ってしまわれるのではない!聖書を郵便注文の目録のように用いようとする人もいる。彼らは自分の欲しいものを与えてくれるよう御父に願った後、天使の使者が自分たちにいろいろなものを持って来るのを期待する。自分自身の願いが満たされて、自分たちの必要が自分たちの願う方法で満たされるのを期待する。キリストがもたらされる光は外側から中を照らすのではない。内側から外に向かって照り輝くのである!主は賜物を分け与え、それを管理・運用される。主は文字どおり光を「与える」のではない。主光なのである!主は健康を分与するのではない。主健康なのである。主の内住を常に覚えるとき――いま肉体にあって生きているこの命を、われわれは、われわれのためにご自身をささげて、今われわれのうちに住んでおられる神の御子の信仰によって生きていることを悟るとき――われわれは主との生き生きとした合一の中にもたらされる。

来臨するキリストのために、御霊により、われわれの内側に余地が設けられるのである!われわれの明け渡しと自己に対する死に応じて、キリストの光、命、愛がわれわれの存在のあらゆる部分に浸透するのである!おそらく、この造り変えは最初のうち、霊的なものでしかないかもしれない。おそらく、この造り変えはわれわれの霊の内側に住んでおられる御霊によってなされるだろう。御霊はわれわれに光と理解力と落ち着いた深い平安をもたらしてくださる。御霊が内側に住まわれる時、この平安は常に生活に満ち溢れる。

主の恵みのこの経験の後、われわれの生活の中にそれが現れ始める。主のあわれみの杯が溢れて、肉体が主の復活の命を感じ始めるのである!これは奮闘ではなく安息である。苦悶ではなく平安である。キリストが内側に住んでおられること、そして、主がまつりごとを肩に担っておられることを意識するとき、われわれは主の御前で幸いな静けさにもたらされる。御声を聞くことができさえすれば、主の御声は優しい口調で「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とわれわれの耳に何度囁いてくださることか。

「そうです、私はこれを信じます!」と人は言うかもしれない。「これ」を信じるだけでは十分ではない。過ぎ去りし過去に犯したわれわれの問題は、まさに「これ」だった。主はご自身真理として受け入れるようわれわれに求めておられるのに、われわれは教理を真理として受け入れてきたのである。キリストのうちに健康、美徳、救いの力があることを「知る」だけでは十分ではない。われわれはキリストに内側に住んでいただく必要があるのである!キリストはご自身とは別に美徳を分与したりはされない。癒しの奇跡は決して癒し主から切り離せないのである。

われわれの哀れな病んだ体と生活が造り変えられるのは、ただわれわれの暗闇が主の光の中に飲み尽くされることによるのである!主は――われわれの健康として――われわれの病を征服される。主は――われわれの力として――われわれの弱さを飲み尽くされる。われわれは主にあって強い。なぜなら突きつめて考えると、主はわれわれを強くするのではなく、ご自身の力をわれわれに賜るからである。主の臨在がこれをなす。われわれがなすのではない。イエスのうちにがあり、他のだれのうちにも無い!キリストとアダムが共に住まうことはない。第二のアダムが入って来られる前に、最初のアダムは出て行かなければならない。光が来る時、暗闇は一掃される。

偉大な医者

病に見舞われると、多くの人は往診してくれる医者に電話をする。医者がする最初のことは、可能なら、何が問題なのかを突き止めることである。結論に達すると、医者は処方箋を作成する。この処方箋こそ患者が待ち望んでいるものである。医者は小さな空白のメモ用紙を取り出して、それに処方箋を書き記す。すると、だれかが薬局に行って、小さな黒い錠剤を持って戻って来る――あるいは処方箋にあるものは何でも持って戻って来る。患者は処方箋に信頼する。その錠剤に効果があると期待する。患者が医者に信頼を置くのは、医者は治療法を知っている、と願っているからにほかならない。また、医者が処方箋を記す時、医者はそれについて確かに知っているはずである、と思っているからにほかならない。そして、患者は小さな錠剤を飲むと、ベッドに身を沈めて、錠剤が効くのを待つ。

主イエスの場合、なんと異なっていることか!効力は彼の処方箋にあるのではない。様々な行いにあるのではない。「癒しを受ける方法」を知ることにあるのですらない。主イエス・キリストご自身のパースンにあるのである。彼はわれわれが病と罪深い不純な状態にあることをわかっておられる。唯一の治療法は聖潔であることをご存じである。われわれもこれを知っていたが、聖くなろうともがく過ちを犯してきた。の他に聖潔はない。聖潔をわれわれの心の扉に置き、それから立ち去って、それをわれわれの生活の中で用いるようわれわれに要求するようなことを、彼はなさらないのである!

われわれは祭壇に行って聖潔を求めて祈り、時として飛び跳ねて、「主を賛美します、御業がなされました」と言う。しかし、主は聖潔をだれにもお与えにならない。主がわれわれの聖潔なのである。主の聖潔がわれわれの生活に溢れる時、われわれは真に主にあって聖められるのである!「しかし、あなたたちがキリスト・イエスにあるのは神によります。キリストは神に立てられて、私たちへと至る知恵と義と聖と贖いとになられました。誇る者は主を誇れ、と記されているとおりです」(一コリント一・三〇、三一)。

神癒においても同じように、われわれは「錠剤」を飲まない。「今、あなたはこれこれのことをしなければなりません。そうするなら主は癒しの力でもってあなたに触れてくださいます」と、患者に処方箋を作成したりもしない。これはわれわれ自身の義によって正しくなる問題ではないし、自分自身で覚悟して用意を整える問題でもない。というのは、ヤコブ五・十五に「その人が罪を犯していたなら、それも赦されます」とあるからである。全く無価値な状態にある――そして罪の中にすらある――衰弱した哀れな患者に必要なのは、全く明け渡した状態で主のもとに行くことである――イエスを招き入れることである!

大切なのは主が賜るものではなく――主がどんな御方かである!主は復活の命である!知恵である!義である!癒しである!主はかつて捕らわれ人を虜にして引いて行かれたように、これを再びあなたや私の内になしてくださる!古の時代に効力が主から長血を患っていた婦人に流れたように――もう一度再び――われわれもこの輝かしい流れの癒しのぬくもりを感じることができる。この効力はわれわれが主のために行うことにあるのではない。この効力はわれわれから主へと至るのではない。主からわれわれを通して流れるのである!

われわれの勝利

したがってこれが、必然的に自己に対する死が必要な理由である。主の主権と頭首権を認める必要があるのである。アダムの中に――堕落の前――永遠の命があった。神は彼を生ける魂に創造されたのである!アダムが命の創始者との関係を断った時、彼の上に死の判決が下された。そして、罪と死のための処罰を受けるために、最高のいけにえが必要になった。われわれの祝された主は人の姿を身にまとい、アダムの呪いの下にあった人性をことごとくご自身と共に死に渡すこと――十字架の死に渡すことを選ばれた。彼は地獄の中に下って行かれた。しかしその後、彼は高きところに昇って――輝かしい復活の命の中に入られたのである!

この途方もない贖いの御業が成就されたので、「人々よ、罪深い道から立ち返って、主イエス・キリストを信じよ!」という叫びが島々や諸大陸に鳴り響いた。彼を自分の救い主として受け入れて、人々は救われたのである!彼を自分の贖い主として認めるとき、人々は贖いの中に入る。彼は人々の死をご自身と共に墓の中に携えて行き、暗い墓から勝利のうちに出て来られた。彼の御声が時の回廊の中にこだました――「わたしは復活であり、命です。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きます。また、生きていて、わたしを信じる者はだれでも、決して死にません」。

復活の命を得るには、われわれは受け入れるために「信じ」なければならない。彼から離れて復活の命を持つことはできない。これは偉大な基礎である!永遠の最重要事項である!他の道はない。われわれはを受け入れなければならない!彼を受け入れるなら、自己の命は去らなければならない。なぜなら、一つの体の中にふたりの主人はありえないからである。双頭の生き物は常に奇怪である。相反する二つの支配の下では、争いと徹底的絶望とが絶えない。自己を明け渡して、われわれの救いの君としてキリストに王座についていただく時、贖われた子供は「魂よ、お前は何年分もの物を貯えた。楽にして、食べ飲みして楽しめ」ともはや叫ばなくなる。むしろ、「私にとって生きることはキリストです!」「私はキリストと共に十字架につけられています。にもかかわらず私が生きているのは、私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。そして今、私が肉体にあって生きているその命を、私は神の御子の信仰によって生きます。この御方は私を愛して、私のためにご自身を与えてくださったのです」と叫ぶようになる。その時、あの輝かしい神の命の流れとうねりが生じる。これはもがきではない。安息である。力である。癒しである。力である。破壊的な爆発力ではなく――彼の命と喜びと平安の抗えない力である。

人々は愚かにも、「懸命に奮闘努力して、うめき懇願しなければならない」「神が私たちの主であるキリスト・イエスにあって上に召してくださる召しにふさわしく生活しなければならない」と思っている!川は山を流れ下るためにもがくだろうか?海が大きな両手を開いて受け入れてくれる所に穏やかに流れて行く時、川の水は懸命に奮闘努力するだろうか?われわれは川床にすぎない。彼の命が川である。彼はわれわれを通して流れ、常に与え、分与し、放射し、注ぎ込む。そしてついには、われわれの命はキリストと共に神の中に隠されるのである!われわれの性質は彼の輝かしい神の性質によって造り変えられるのである!われわれの病、苦しみ、痛み――彼の神聖な愛の温かな流れの中で、これらのものは支配し続けられるだろうか?

神の解放により、われわれは神が愛情溢れる方であるだけでなく、厳しい方でもあることに気づく。しかし、神の厳しさの中には常に愛がある!神はわれわれが近道をするのを許されない。神の命令は「徹底的にほふれ!」である。他の道はない。この明け渡しは部分的なものであってはならない。無条件でなければならない!自分のすべての道で、われわれは神を認める。それは神がわれわれの道を導けるようになるためである!もしわれわれがこれをたんなる便宜のためや、癒しを受けるためにするなら、われわれの祈り求めるものが多くのとき差し控えられることに何の不思議があろう?

医者は好きこのんで「高慢な肉」に切り込むわけではない。それを完全に除去せざるをえないのである。その後、癒しの効力が体のすべての傷に臨む。ツロとシドンの海辺から来た婦人を題材にする時、浅はかな考えの持ち主は「イエスは彼女を冷淡に扱った」と断言するかもしれない!イエスの御言葉は彼女を深く刺し貫いたにちがいない。「イエスが語られたことのせいで、彼女の霊は傷ついた」と人は自然に予測するだろう。しかし、イエスの御業をもっとよく見るなら、彼の見かけ上の厳しさは愛の中に浸されていたこと、そして、彼の愛に満ちた優しさとやさしいあわれみに満ちていたことがわかるのである!神の性質が臨むようになるために自分の中からアダムの性質を取り除くことに近道はないことがわかるのである!

勝利への道

ゲッセマネの園の木々の張り出した枝々の下で、われわれの主は「もしできるものなら、この杯をわたしから去らせてください」と叫ばれた。そして続いて、ご自身を神と御父の目的・御旨に完全に明け渡して、「ですが、わたしの意志ではなくあなたの御旨がなされますように」と彼は締めくくられた。復活への唯一の道は、この園を通る道だった。墓に対する勝利に至る唯一の道は、十字架の道によるものだった。主はわれわれをこの場所に連れて来なければならない!主は「わたしが生きるので、あなたたちも生きます」と言われた。しかし、われわれの死がわれわれの中に宿る主の復活の命に先立たなければならないことを、われわれは全く確信しているのである!

われわれのアダム的性質の良さそうな面でさえ、悪いとわかっているものと共に放棄しなければならない。イサクは約束の子だったが、神の命令にしたがって「放棄」しなければならなかった。この愛情深い父親の心からの叫び――その存在の奥底から絞り出された叫び――があなたには聞こえないだろうか?イサクは約束された彼の子ではなかったか?にもかかわらず、主は「その子をいけにえの祭壇の上でほふりなさい」と仰せられたのである。彼の「良い」イサクをほふれ!約束の子ですらほふれ!と仰せられたのである。しかし、ここに神を信じる人がいた。そして、それが彼の義と認められたのである。なぜなら、彼は自分の良い、生きた供え物を連れて、彼と共に山頂に登ったからである。彼の従順により、そして彼の従順を通して、啓示が臨んだのである!茂みの中にいる雄羊が啓示されたのである!それは身代わりを示す啓示だった。その身代わりは神が備えられたものであり、それゆえ神に受け入れられるものだった。それは驚くべき経験への門を開いた。その経験はあまりにも並外れたものなので、われわれの祝された主の贖いの計画だけが、主の内住のために人を清めることができる。これは「すぐによくなる」式の方法によるのではない!雑誌や新聞で自分の薬を宣伝して、「一定量服用して、一定の時間たてば治りますよ」と約束する「やぶ医者」がいるように、似非宗教指導者たちもいる。彼らはいわゆる神癒のための敬虔な方法や方式を持っていると言うが、それは神の方法とは異なるものであり、にもかかわらず治ると約束する。ただ一つの道しかない!その道とはキリストである!歴史の中に何度も、われわれは言葉の混乱や、扇動家たちが様々なことを叫ぶ時のがなり声を見いだす!このような混乱が支配した場所は、なにもバベルの塔だけではないのである!

生ける道

イエスが地上を歩まれた時代、パリサイ人たちは「見よ、ここに真理がある!」と叫び、サドカイ人たちはそれに反対して「違う、ここにある」と言った。ギリシャの哲学者たちは「自分たちは真理を持っている」と長いあいだ言ってきた。しかし、われわれの祝された主は、「わたしは道であり、真理であり、命です。だれもわたしによらずに御父のもとに来ることはできません」と宣言して、彼らをみな黙らせた。今日も、これに変わりはない。彼はわれわれの道である。われわれの真理である。はわれわれの命である!他の道はない!他の命はない!他の真理はない!「太陽が見事に軌道を巡る所ではどこでも、イエスは統治される……」と歌うのは大いに結構なことである。

これはある程度真実であり、これが見事に成就される日は遠くない!しかし、これよりも遥かに、われわれの心は絶えずこう歌っているべきである。

キリストは私の内に生きておられます。キリストは私の内に生きておられます!ああ、なんという救い――キリストの内に生きておられるとは!」

肉は死ぬ。そして、アダムの性質は十字架につけられなければならない。全き明け渡しに達するには、少しばかり痛い目に遭うかもしれない。しかし、この地点にわれわれの主は御霊と真理によりわれわれをもたらされるのである。そしてその後、主は身を低くしてこの土の器の中に宿れるようになるのである。

試みの下にある人が「自分にはこの十字架を負えません!」と叫んだ。すると神の声が「あなたは私にこの十字架を取り去って欲しいのか?」と応えた。超自然的に呼び覚まされた理解力によって、もしこの十字架が取り去られるなら、さらに辛い十字架、そしておそらくは不慣れな十字架がその代わりに臨むであろうことを、彼女は示された。そこで、この十字架を取り去るよう彼女は求めなかった。しかし、すぐに、「さあ、それをわたしに委ねなさい」という同じ甘い御声が臨んだ。そして、委ねたとき、光が射したのである!――神ご自身が立ち上がって行動される、という啓示の輝かしい光が射したのである!下で、永遠の御腕が支えていたのである。そしてあの永遠の命の高潮と共に、十字架となったのである!

明け渡しはなんという特権だろう!主の足下に自分をすべてささげるよう招かれているとは、なんという祝福だろう!主の理解力と比べたら――われわれの理解力はなんと貧弱だろう!キリストご自身によって成就された神の御旨という光に照らして見るとき、われわれのアダム的意志はなんと不完全だろう。愛する人よ、近道はありえない!霊感された御言葉は、「だれでも他の道をよじ登ろうとするなら、その人は盗人であり強盗である」と宣言している。なぜなら、主イエス・キリストこそ神に至る唯一の扉だからである!だれも彼によらずに御父のもとに行くことはできない!回想してこう証しするのはなんと甘美なことか。

「私は友を見いだしました。ああ、なんという友!私が彼を知る前に、彼は私を愛してくださいました!彼は私を愛の紐で引き寄せ、そうして私をご自身に結びつけてくださったのです!」

われわれは「御父はキリストにあるわれわれをご覧になる」と――教理的に――語るのが大好きである。しかし私の心には、「御父はわれわれの内におられるキリストをまずご覧になる」という真理が囁かれているのである。