第十三章 生ける御言葉

チャールズ・プライス

イエスがユダヤのベツレヘムに生まれる前、昔の敬虔な人々は書き記された御言葉に目を向けた。選ばれた少数の人に神が超自然的な方法でご自身を啓示されたのは、彼らが霊感された聖書を記して、他の人々がこのように与えられた書き記された御言葉を読んで、その光によって歩むためだった。御言葉が肉体となって、われわれの間に宿る日がやって来た!書き記された御言葉が神の御思いだったように、生ける御言葉はこの御思いの化身となった。この御思いは、受肉の奇跡を通して、われわれの主であり救い主であるイエス・キリストにあって表されたのである!

こういうわけで、イエスから発せられたすべての感動的な決定的御言葉は次の真理に満ちている。「私が来たのは彼らが命を持つためであり、それを豊かに持つためです」(ヨハネ一〇・一〇)。彼が語られた御言葉は霊であり命だった!彼は「世に来た、すべての人を照らす光」(ヨハネ一・九)だった。なぜなら、「神は光であって、神の中に暗闇は全くない」(一ヨハネ一・五)からである。また、彼に従う者は暗闇の中を歩くことがなく、命の光を持つからである!

われわれは彼が語られた御言葉を読んで、それを麗しいと見なしてきた!彼がなさったことについて読んで、それを素晴らしいと述べてきた!われわれはそうしてきた――しかし、ああ、われわれの目が神が定められた彼の務めの目的を見ることができますように。そして、彼の贖う恵みの豊かさをわれわれの心に抱くことができますように!この生ける御言葉――肉体となった御言葉――の啓示する光が無ければ、書き記された御言葉を正しく読むことは決してできない。かつてわれわれの間に住むために来られた御言葉は、今やわれわれの内に宿るために来ておられるのである!

永遠の歴史の中で神が超自然の――無限で永遠の――領域の四隅に御手を伸ばされたあの日は、われわれにとって何と幸いな日だったことか。その日神は、栄光と恵みと愛と憐れみとまことをすべて一つにまとめて、受肉の奇跡により、それを一人の処女の母親の両腕の中にピンクの産着に包んで託して、その名をイエスと呼ばれた。彼は失われた世をその諸々の罪から救うことになっていたからである!

彼はわれわれの命である。癒しである。力である。印刷されたページの言葉ではない。この書き記された御言葉についてのわれわれの誤った解釈ではない。肉体となった言葉である――生ける御言葉である――かつてわれわれの間に宿られたが、今では生ける御言葉である神の御言葉である――この御方はわれわれの内側に住んでおられる!これは彼である御言葉であり、われわれもそうなることができる御言葉である。なぜなら、彼が内側に住んでおられるからである。彼の神聖な命の流れにより、われわれは栄光から栄光へと変えられるからである。われわれが目覚める時、われわれは彼に似た者になるのである!

多くの人が彼の二、三の御言葉を取り上げて、それを巡って素晴らしい説教を作り上げた。彼は大部分、一つの理想となった――われわれの生活の模範、われわれの行いの見本となった。さて、それはそれで全く大いに結構なことだが、神がキリスト・イエスにあって上に召しておられる高い召しの水準には確かに届いていない。彼が話されたことは、彼がいかなる者であるかの神聖な啓示だった。彼の言行は、偉大な力強い目的――それは彼ご自身である――の外面的現れ、燦然と輝く栄光にすぎなかった。

パウロは彼について知るための知恵を叫び求めなかった。飢え渇いた心の底から彼は、「すべてのことを損失と見なしています。(中略)それは私がとその復活の力とを知るためです!」と叫んだ。このキリストとの生き生きとした合一こそ、われわれの生活に必要なものである。「彼に似た」者になろうとする奮闘をわれわれはやめなければならない。最終的に王である彼の御前に出る時、あなたは王の伝記を読むことに長時間費やす必要はないのである!

サマリヤの井戸の脇にいた女は、神を礼拝するべき山はどれなのかについて大いに心配した。ユダヤ人が言うようにエルサレムの山々なのだろうか、それともサマリヤ人が主張しているようにサマリヤの山々なのだろうか?イエスは彼女に言われた、「あなたたちがこの山でもなく、またエルサレムでもなく、父を礼拝する時が来ます。まことの礼拝者たちが霊と真理の中で父を礼拝する時が来ます。父はそのように礼拝する者たちを求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者たちは霊と真理の中で礼拝しなければなりません」。

キリストはわれわれの命である!

キリストご自身が道である。真理である。である!クリスチャンの心に言い尽くせない喜びをもたらすのは、この事実を精神的に理解することや知的に同意することではない。われわれの霊に押し寄せる彼の神聖な力と命の奔流を経験的に理解することである。それはキリストに明け渡された命が、キリストご自身である世の光と共に、霊で満ち溢れることである!

全被造物は約束された解放を求めて呻いている。被造物は神の子たちの現れを熱心に待ち望んでいる……。被造物は腐敗の束縛から解放されて、神の子供たちの栄光の自由の中に入る(ローマ八・一九~二三)。

最終的にわれわれの水差しが壊れる時、彼の光は真昼の太陽の光よりも明るく輝き渡る!世の光であるイエスが啓示される。彼の明け渡された子供たちを通してイエスが現されるのである!

かつて神の臨在と力は木の契約の箱によって象徴されていた。その時代は去った。はご自分の律法をわれわれのの中に書き記された。受肉したキリストは従順な子らの生活の中で王座についておられる。叫び声がすでに内側から湧き起こり始めている。そして遂にこの叫び声が発せられる時、この世というエリコの壁は崩れ落ちるのである!エリコの住人の顔に驚きと恐怖の表情が浮かんでいたように、この世は神の子らの現れに驚嘆して立ちすくむだろう。

現されるのは彼らではなく、キリストである!書き記された御言葉はこれを明らかにしており、すべての型や影がこれを告げている!古の預言者は、まるで望遠鏡を覗くかのように、これを啓示によって見た。そして、明快な言葉で主の勝利と神の子らの現れの栄光を述べた。預言者ヨハネは、寂しいパトモス島で、主の日に御霊の中にいた時に、これを見た。人の霊の中で燃えさかるこの啓示は、外側から生じるいかなる栄光や顕現よりも無限に優っている。なぜなら、この光が輝くのは内側からだからである!神ご自身がご自身を解き明かされる。神はそれを明らかにしてくださるのである!

イエスに関する約束は、彼が将来何をなさるのかだけでなく、彼が将来何になられるのかをも含んでいる。彼の恵みの奇跡は、彼がわれわれのために何をなさるのかだけでなく、彼がわれわれの中で何になられるのかでもある。彼が来て、それによってわれわれが救いを見いだせるようになる計画を示しておられたなら、それは確かに素晴らしいことだっただろう。しかし、彼が死んでこの救いとなられたことを理解するのは、言い尽くせないほど貴いことである!人が救いを受け入れて救い主を拒絶するなどということがありえるだろうか?キリスト抜きのキリスト教などというものがあるだろうか?御霊無しで霊的になれるだろうか?こういうわけで、われわれの教会の諸々の儀式は何の役にも立たない。しかし、人はそれらの儀式を彼の素晴らしい内住する臨在の代わりにしてきたし、自分の傷ついた霊のために儀式のうちに聖所を見いだそうとしてきた。往々にして、それによって人は栄光の王の入場に対して扉を閉ざしてきたのである!

われわれの主の務めと生涯の中で特に際立っている一つの真理は、恵みと神の事柄を知る知識とが増進・成長する特権である!その霊の中に生けるキリストが住んでおられた使徒パウロは、この同じ輝かしい真理を宣言して、われわれに進み続けて成熟に至るよう勧めた。この成熟は人の理解力が進むことではない。預言に関するわれわれの知的知識の増し加わりでもない。そうではなく、キリストご自身を知る知識が妨げなく流れ出ることである。これは、彼を受け入れるためのわれわれの霊的能力に比例する、心の理解力をわれわれに与える。

クリスチャン生活の成長は、実際のところ、彼の命がますます現れるようになることである。天然の世界で花嫁の個性が花婿の中に失われるように、キリストの花嫁もそうである!キリストの花嫁は文字通り神の性質にあずかる者となる。「私を信じる者(私の中へと信じ込む者)は、その人の最も内なる部分から生ける水の川々が流れ出る」。復活の命のこの神聖な流れの大波は、体、魂、霊を覆う。そして、われわれの誉むべき主は、われわれが律法の呪いの下で受けてきたものを、すべて無効にして、完全に撤廃される。この備えには癒しが含まれる。これは癒し以上のものを意味する。それは健康ずっと続くことである。それは神の命がわれわれの内に絶えず働くことを意味する。

キリストはすべてである

ああ、彼の牧場の羊たちは、状況や環境の力によって無残にも打ちのめされている。どうか彼らが今一度、「私に来たれ!」と言っておられる良き羊飼いの声を聞けますように。何と無数のカルトの軍勢がわれわれを取り巻いていることか。そして、彼らは何と執拗に自分たちの独断主義や私的解釈を告げていることか!神霊治療家たちは自分たちの製品を宣伝している。そして様々な方法が売られており、われわれの主の贖いの犠牲がなおざりにされているほどである。

昔の時代、パリサイ人とサドカイ人は、当局に受け入れてもらうために、人々に何という要求を課したことか!人々は、与えたことがわかる場所で、十分の一をささげることを要求された。公に祈らなければならなかった。するべきことやしてはならないことがあった。律法主義で彼らは人々を縛り、祭儀主義の鎖で人々を奴隷にした。しかしイエスが来られた時、彼は彼らの伝統的信条を一掃された。彼らの確立された先入観を覆された。彼らの安息日の掟を軽視して、人々を癒された。今日であれ当時であれ、人々は御手の接触を必要としていたからである。彼の優しい訴えは、苦しんでいる、罪深い、抑圧された人々の心と霊に向けられていた。

「私に来たれ!」と彼は言われた。それだけだった。人々は自分の頭を彼の胸の上に横たえるべきだった。この門やあの扉をくぐり抜ける必要はなかった。イエスが来られたからには、ただ一つの扉しかないからである。ただ一つの命しかなかった。ただ一つの救いしかなかった。その救いは救い主によるものである!直接、人々は彼のみもとに行った。彼から、彼の功績の無限の泉から――人々の中に――流れが及んだ。命、健康、力、喜び、平安!彼は人々のすべてだった!人々は彼以外に何も必要としなかった。自己を義とするニコデモであれ、哀れな傷ついたマグダラのマリヤであれ、彼は永遠の供給の無限の源だった。彼の内に人々は自分たちが必要とするものをすべて見いだしたのである!

われわれは何と知的になろうとしてきたことか!何ともったいぶった語句や意味のないつまらない言葉で、われわれの祝された主のパースンを覆ってきたことか!それから、何と賢くて巧妙そうに見えるもので、われわれは自分自身の井戸を掘ってきたことか。しかし、その結果見いだしたのは、その水が「マラ」(苦い)ことであり、われわれは決して満足しなかったのである。われわれは自分のために壊れた水ためを造ったが、見よ、水は漏れてしまったのである!

「遠国」では、われわれが御父の家で享受している安息と平安の甘さを、放蕩息子は決して理解できなかった。人を豚小屋の中にとどめておくなら、たとえその人に「幸福、幸い、善いもの等を得る方法」についての百科事典や教科書を与えたとしても、その人を取り巻く悪臭の中からその人を決して引き上げられないし、その人の心が渇望している平安をその人の最も内なる部分にもたらすこともできない!また、人がおとなしく座って、外の世界の美しさに関する講義――少しばかり厳しい叱責が混じった講義――に耳を傾けたとしても、何の役にも立たない。なぜなら、自分自身が苦境の中に陥っているからである。そう、ただ一つのことだけが必要である!放蕩息子は、あなたや私と同じく、心の中で決意して、「立ち上がって父のもとに行こう!」と宣言しなければならない。それから、長血を患っていて、群衆を掻き分けて自分の主の傍らに行ったあの女性のように、われわれも専門用語を使って口論している人々を掻き分けて行かなければならない。様々な集団を掻き分けて進まなければならない。そうするなら遂には、永遠の平和である御方――主イエス・キリストご自身――とあいまみえるだろう!その素晴らしい御顔からの日の光は心を温め、われわれの霊の扉は開いて「世の光」の流れを内側に招き入れるのである!

受け入れた者はみな

彼は言われる、「私にあなたの貧弱な、傷ついた、役に立たない命を渡しなさい。そうすればその代わりに、あなたに私の命を与えます。私にあなたの弱さ――人に対する人の非人道性と罪深い状況の冷酷さとによってボロボロに傷ついているあなたの弱さ――を私に与えなさい。そうすれば、私はあなたに私の勇気、力、能力を与えます。私が死んだのは、あなたが生きるためです。そして今、あなたが自己であるものに対して全く死ぬ時、私はあなたの内に生きます!私は神の御旨に明け渡しました。これはあなたのためです。そして今、あなたは――徹底的かつ完全に――私を通して御父の御旨に明け渡すことができるのです!」。

われわれは不従順によって神から離れた(アダムにあってすべての人が死ぬ)。そして、従順によって立ち返る(キリストにあってすべての人が生かされる)。われわれは創造者――われわれの造り主――の直接的顧みと保護に立ち返る!神の輝かしい永遠の最高地点――終わることのない国――には、太陽の必要はなく、月も必要ない。小羊ご自身がその光だからである!天を照らすこの光は霊を照らす光である。われわれは「薄明かり」ではなく、この光を求めるべきである。

この最終的分析により、われわれは行うよう散々教わってきたものの大部分を投げ捨てる――もしくは脇にやる――ことができる!太陽が明るく輝いているのに、どうして自分のちっぽけなロウソクに明かりを灯そうとするのか?われわれの天の父は重力と月の引力によっていともたやすくそうするよう定められたのに、どうしてわれわれは自分で海を押し戻そうとするのか?一般に広く認められている神の御旨は、彼の羊が癒しの泉をあれこれ探しながら、盲目的迷信の中をさまようことではない。神の願いは、彼の幼子たち一人一人がご自身と直接接触して、キリストとの合一の生活を送ることである。すべての人が御父のもとに来ることである。

しかし――この件は何と悲惨に見えることか!彼はご自分の民のもとに来られたのに、彼らは彼を受け入れなかった。彼は暗闇を照らす光である。しかし、暗闇はそれを理解しない。彼はすべての預言の言葉の成就だった。しかし、預言の学徒は彼を認めなかった。彼は必要を抱えている民に声をかけられたが、彼らは彼に対して耳をふさいで、迷信やおとぎ話に従って行った。彼はご自身を、多くの人のための身代わりとしてささげられたが、人々から蔑まれ、拒絶された――悲しみの人で病を知っていた。

彼がベテパゲの広く伸びた木々の下に立って、こう言われたのも無理はない。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた者たちを石で打つ者よ。雌鶏が自分のひなを翼の下に集めるように、何度わたしはおまえの子たちを集めようとしたことか。しかし、おまえたちは応じようとしなかった!見よ、おまえたちの家は荒れ果てたまま、おまえたちに残される。なぜなら私はおまえたち言う。主の御名の中で来られる方に祝福あれ、と言うまで、今から後、おまえたちは私を見ることはないからだ」(マタイ二三・三七~三九)。

彼らの盲目的無知と迷信により、彼らは彼の言われたことが分からなかった。その意味についてはなおさらだった。彼は、私はパンである、と語られた。しかし彼らに思いついたのは、幾世紀も前に荒野の焼け付く砂の上に天から下ったマナのことだけだった。彼は生ける水の川々について語られた――その水は彼ご自身だった――しかし彼らに思い描けたのは、水ためから汲んだ水を石造りのいわゆる祭壇の上に注ぐことにすぎなかった。人は――今日も――単純に彼を受け入れる以外のことなら何でも喜んでするのである!

栄光の泉

を受け入れることは、自己に対する権利を彼に明け渡すことを意味する!キリストの統治に対して開く心は、彼の臨在の現実の中に入る。これは言わば、心の中に獅子と小羊が共に臥すことである。われわれは天上で彼と共に歩む。彼が語られると、その御声の響きはとても素晴らしいので、鳥たちは歌うのをやめる!

彼の神聖な内住という生ける、脈打つ現実が、天の栄光の噴水のように、われわれの最も内なる部分から湧き出る!これは努力によるのではなく、ただ流れる。それは天然のすべての繊維に浸透する。真珠の門が開くのを待つまでもなく、われわれは感嘆と愛と賛美の中で我を忘れるのである!

人の霊が無条件降伏の旗に駆け寄る時、肉は降参し、命の主が統治者となられる。キリストはすべてのすべてである。そしてわれわれの存在全体にわたって、キリストはかつてそうだったすべてのものに、今やわれわれの中でなられる!われわれは彼の命、癒し、救う恵み、力から飲む。彼の完全な愛はすべての恐れを追い出す。そしてわれわれは、唯一の知恵ある神、神と人との間の真の仲保者、人なるキリスト・イエスとして彼を知ることを学ぶのである!

彼の中にわれわれは完全を見いだす。そして、われわれは苦しい乞い求めをやめて理解する。彼を見いだすことは命と平安であるだけでなく、絶えざる保証をもたらすことを理解する。この神のキリストが内に住んでいる人は、キリストの至福、祝福、天の喜びを知り、神の御座から発する命の水の川々が自分の最も内なる部分から流れる特権にあずかる。そして、その究極的運命は神へと流れ戻ることである。

万一、途上で出会う試練が厳しくても、人の業績ではなく――あの信仰――こそ十分なものであることをわれわれは学ぶ。愛によって働く、主イエス・キリストの信仰こそ十分なのである。肉体的困難であれ、物質的困難であれ、霊的困難であれ、この信仰はすべての困難を克服する。この十全性はただ内住のキリストの働きによる。なぜなら、キリストにあってキリストを通して、われわれのすべての必要は満たされるからである。