セス・クック・リースの生涯

マーチン・ウェルス・ナップ

「彼らは如何にしてカナンに入ったのか」(ドュアン・V・マクセイ編)からの抜粋。

セス・C・リースは一八五四年八月六日、インディアナ州ハミルトン郡のウェストフィールドに生まれた。昔ながらのクエーカー出身で、その祖先は何代も友の会の会員だった。彼の幼年期と青年期の間、その教会の霊的命は低調だった。礼拝は形式的で、命に欠けることがしばしばだった。また、奉仕にはほとんど力がなかった。彼の性質はとても活発でエネルギッシュだったので、活力に満ちた敬虔さが教会に欠けていたせいで、彼が無鉄砲で不敬虔な者になってしまったのも驚くにはあたらない。十九歳の時、大いに敬虔で強力な信仰復興者であるカルビン・プリチャードがウェストフィールドで集会を開いた。無思慮なクエーカーの少年は深い罪の自覚を覚えた。守られてきた良心的な少年期を思い出して、またその影響のおかげで、彼は神の方に引き寄せられた。彼は自分の経験についてこう述べている。「当時、『改悛席』や『悔悟票』は、われわれの集会では用いられていませんでした。しかし、『天から遣わされた聖霊』と共になされた説教の終わりに、神の民の祈りを願う者は全員立ち上がるようにという求めがなされました。大会衆がひどく驚いたことに――ほとんど全員が私のことを個人的に知っていました――私は自分の足で立ち上がりました。当時、私が回心するとは全く思いもよらないことでした。事実、救いを受けることができるとは私は少しも思っていませんでした。『大変な問題を起こしてしまったぞ』と自分に向かってつぶやいたのを、私ははっきりと覚えています。それ以上の求めはなにもありませんでしたし、私が踏み出した一歩について私に話しかける人はだれもいませんでした。次の日の晩になされた同じような招きでも私は立ち上がりました。そうした理由はなによりも、昨晩そうしたからです。しかし今や、私の気持ちは大いに真剣でした。そこで、初日の夜に別の招きがなされて、クリスチャンになることを心から願う者は全員立ち上がるようにという求めがなされた時、私は他の大勢の人々と一緒に速やかに応じました。公的にも私的にも私に対してそれ以上の話はなにもありませんでしたが、愛する聖霊は二日目の朝に昼の集会に出るよう私に示してくださいました。私が集会所の庭に入ると、隣人が『来て私と一緒に座るかい?』と尋ねてきました。そして返事を待たずに、私が子供の頃から慣れていた席よりもずっと前の席に連れて行ってくれました。会衆の上に御霊が下って、集会が証しと告白の集会になった時、私はじっと座っていられなくなりました。集会は続いていましたが、奇妙な力が私に臨み、私は自分の足で立ち上がって自分が酷い罪人であることを告白しました。私が立っていた時間は三十秒もありませんでしたが、座った時、私は聖徒になっていたのです!天全体が私の魂の中に下ってきたかのように思われました。その時まで、祈ろうとしたことはありませんでした。一滴も涙を流したことはありませんでした。今や私の目は泉となり、私は大泣きしました。万物の様相は一変しました。草の葉や、水の滴や、森や野の鳥はどれも、喜びで踊っているように思われました」。

回心後すぐにセス・C・リースは宣べ伝え始めた。彼は大成功を収め、インディアナ州とオハイオ州の様々な場所で集会を開いた。しかしすぐに御霊は全き聖めの必要性を彼に確信させた。彼は述べている。「デイビッド・B・ウプデグラフやドゥーガン・クラーク博士のような人々の務めの探る光の下で、私は自分の経験の欠け目を痛感しました。何度も何度も私は集会から森や郊外に駆け込んで、昼も夜も、数時間ものあいだ泣いて神に叫びました。生来の罪に対する認罪の苦しみは、目覚めた罪人として耐え忍んだ何物をも大いに上回るものでした。ある時、この『古い人』からの解放を熱心に叫び求めた後、すなわち苦悶の数時間の後、私はどこまでも沈んで行くような感覚に満たされ始めました。まるで死にかけているかのようでした。それで私は主に『そうです』と言い始めました。『そうです!そうです!アーメン!アーメン!アーメン!』。過去も現在も将来も、未知のものも、私の名声も、私のすべては神の祭壇の上に行きました。私は『なかなか死なない』者でしたが、『確かに死んだ』のです。ついに私の魂の中に、静かな感覚、聖なる静けさ、死のような沈黙、甘く穏やかな『第二の安息』がゆっくりと流れ込み始めました。そして私は自分が全く聖められたことを知ったのです。聖霊が内に来てくださって、私のあらゆる疑いを一掃し、ご自身で私を満たしてくださったのです」。

彼の「ペンテコステ」のすぐ後、神はこの友の会の奉仕者に大きな活躍の場を開かれた。オハイオ州、ミシガン州、ロードアイランド州で牧師をしていた時、彼は驚異的成功を収めた。二年間、彼はインマヌエル教会のロードアイランド地区の働きを指揮した。それ以降、彼はペンテコステ的福音宣教に全く打ち込んだ。彼は広く旅をして、神は彼が宣べ伝えるこの強固な真理を至る所で尊んでおられる。彼はポーツマス野外集会の総理である。この集会はその昔ながらの単純さと使徒的力で有名になった。彼は「理想的なペンテコステの教会」の著者であり、この本は神の民の間に広く流布している。

去る六月(一八九四年)に彼の妻であるフルダ・A・リースが亡くなったのは彼にとって痛手であり、それから回復する手段はなにもないものだった。しかしその大きな悲しみにもかかわらず、彼は全き救いの働きを推し進め、ポーツマス、メリック、国立公園、レイク山公園、ピットマングロブ、オーシャングロブのような多くの野外集会で説教をした。

去る九月(一八九四年)、オハイオ州シンシナティで開かれた集会において、国際聖潔連盟の常設組織のために、彼は総理として働くよう選ばれた。この連盟が組織された目的は多くの人々に全き救いの福音を届けることであり、この働きを世界のすべての地域で遂行することが計画されている。

リース兄弟は、話すことにおいても執筆においても、常に活発に主の働きを行っている。神は数千もの魂を助けるために彼を祝福しておられる。どうか神が兄弟をご自分のぶどう園の働きのために長く保ってくださいますように。(マーチン・ウェルス・ナップ記)

出典「ペンテコステのメッセンジャーたち」(マーチン・ウェルス・ナップ著)