第一章 緒言

セス・C・リース

少なくとも六千年のあいだ、ペンテコステ教会とはいかなるものであるべきか、神はご自分の考えを持っておられた。地獄と罪の仕業によって人類が破滅・荒廃するのを最初にご覧になった時から、この廃墟の中からご自分のために何を引き出せるのか、神はご存じだった。彫刻家は、のみと木槌で大理石に触れる前に、自分の彫刻を明確に思い描く。画家は、筆でキャンバスの面を塗り始めるずっと前に、自分の絵を思い見る。建築家は、まだ線を一本も引かず、仕事をまだ少しもしていない時から、自分の建物を心に抱く。このように、神は最初から恵みの可能性を教会、花嫁、小羊の妻の中にご覧になっていたのである。

純粋な真の男ならだれでも、自分の妻となるべき女性に何を望むのか、自分なりの考えを持っている。北極を指す磁針のように、妻の心は夫に対して誠実でなければならない。他の男と戯れたり、昔の恋人にみだらな視線を送ってはならない。他のすべての男から離れて、夫に対して忠実でなければならない。気高い男なら、自分に相応しくないおそれがある妻を、自分の家族、父や母や愛する者たちの所に、連れて行くことさえしないだろう。妻は純粋で誠実であるだけでなく、夫の人生の諸々の秘密に完全にあずかれなければならないし、夫の喜びだけでなく悲しみをも、夫に同情しつつ、夫の苦難の時も勝利の時も、共有できなければならない。

このようにキリストも、どのような花嫁を持ちたいのか、ご自分の考えを持っておられた。彼は、永遠にわたって自分の連れ添いとなるべき妻の性格に関して、自分の願いをきわめて強く表明された。この結婚式を祝うために、輝かしい準備が今なされつつある。染みのないキリストが御腕に抱いて栄光の王宮の大広間に伴われる妻は、彼の考えにかなう者でなければならない。

もし神の見解がわかるなら、もし何事でも神の御思いを見いだせるなら、諸教会がどう思っているのか、あるいは、信仰箇条がどう言っているのかは、われわれにとって少しも重要ではない。各派のたわごとなど何でもない。「主はこう言われる」に刃向かえるものなど何もない。教会に関する御旨に関して、神はわれわれを暗闇の中に置き去りにはされなかった。この問題に関するキリストの願いや願望についての明快な理解を、神はわざわざわれわれに与えてくださった。そして、キリストがご自分の教会の中にご覧になることを願っておられるものは何であれ、素晴らしいことに、十字架の力により達成可能になったのである。

使徒行伝二章に、「理想的なペンテコステの教会」の特徴が明確に述べられているのがわかる。どうか愛する聖霊がわれわれの目を油塗ってくださり、この書に示されている真理を見せてくださいますように。