第二章 再生された人々からなる教会

セス・C・リース

理想的なペンテコステの教会は再生された人々から成る。その構成員に未回心者は一人もいない。さらに、再生に関する神の定義は人の定義とは異なる。人が聖書的に再生されることは、尋常ならぬ畏怖すべきことを伴い、通常考えられている以上のことを意味する。新約聖書が示す霊的誕生は、たんに手を挙げたり、紙に署名したり、記章をつけたり、儀式に参加したり、いわゆる「教会」なる団体に参加したりすることによって生じるのではない。

聖書が示す再生は、深く強烈な認罪と、躊躇せず「世と肉と悪魔」を拒否する悔い改めの後に生じる。これにより、外側の生活の諸問題はすべて正される。昔ながらの認罪がさらにあり、それに続いて昔ながらの回心が生じ、その結果、昔のように叫ぶ者が起きていれば、聖霊のバプテスマを受ける候補者がもっと多くいただろう。

しかし、今は妥協の時代であり、生み出される回心者の性質の中にその有害な結果が見られる。安楽を愛し、楽しみを追い求める、一時しのぎの妥協的教会は、健全な回心者を生み出さないし、生み出せない。何事も初めが肝心であり、特にキリスト教もそうである。義の不屈の説教者であるバプテスマのヨハネの務めの下で、あるいは、キリストご自身の教えの下で、百二十名が回心した。イエスは、「あなたたちはまことのぶどうの枝である」と言われた。彼は彼らを戒めて、「あなたたちの『名が天に記されている』ことを喜べ」と言われた。そして、大祭司の祈りの中で、「わたしがこの世のものではないように、彼らもこの世のものではありません」と御父に告げておられる。この人々は自分の網を捨ててキリストに従った。そして、「ペンテコステの日が到来した」時、彼らは「絶えず宮にいて、神をほめたたえて賛美する」生き方を追い求めるようになった。彼らは非難を抱擁し、地上の物事を手放した。

再生は知覚可能な経験である。再生された人にはそれがわかる。自分が再生されたことに確信がないなら、それが事実かどうかだれにもわからないし、神ご自身ですらわからない。自分が上から生まれたことを十分に承知していないなら、それは事実ではなく、たとえ説教者が「あなたは再生されている」と言ったとしても、そうではない。私たちが真に再生されているなら、聖霊はそれを証しして私たちに知らせてくださる。この「証し」はそれを受ける者にとって大いに満足できるものなので、たとえ天空からの使者が現れてそれを証ししたとしても、それを有り難いとは思わないだろう。

再生は、喜び、あたたかな宗教的感情、霊の真の情熱に満ちている。実に、「自分は完全にきよめられた」と主張している多くの人々が持つ以上に、再生は通常、このような天的恵みを生み出す。今日の宗教界には、あたたかさ、輝き、聖なる感情が大いに欠けている。救いにおける感情的要素は決して小さなものではない。「神の王国は義と、喜びと、聖霊による平安です」。喜びと平安はどちらも感情である。多くの人は「私はキリストを信仰により得ました」と言う。しかし、赦しを証しする御霊の明確な証しを一度も受けたことがない。なんたる茶番か!「信仰によって得ること」や「信仰によって握ること」等に関する私たちの教えの多くのせいで、このような嘆かわしい状況が生じたのである。愛する者よ、信仰はその中に証拠を幾らか伴うものであり、真の純粋な信仰は応答を得るものである。信仰は、それによってわれわれがあらゆる祝福を得る手段である。そして、信仰が純粋なものなら、常に御霊の証しによって称揚されるのである。

再生はわれわれに復活の命をもたらす。われわれはもはや重い足取りで墓に向かって歩んでいるのではない。墓に背を向けて、弟子たちへの喜ばしいおとずれを携えつつ、ガリラヤに向かって疾走しているのである。多くの人は、主に防腐処理を施すための香料を担い、惨めな悲しい面持ちで、墓に向かって陰気にのろのろと進んでいる。彼らはキリストが死者の中からよみがえられたことを忘れている。キリストの心臓がひとたび脈打つとき、死の縄目は断ち切られ、封印は破られ、墓の扉は開かれて、ローマの屈強の護衛を唖然とさせて麻痺させたのである。そして彼と共に私たちも、キリストの復活の命の力により、暗い墓を抜け出して、輝かしく喜ばしい勝利のうちに、昔の生活という棺桶を登ったのである。多くの人は、キリスト教に防腐処理を施そうと、せわしなく試みている。諸教会も、もし教派や団体にすぎなければ、防腐処理を施されるおそれがある。ああ、諸教会の多くはエジプトのミイラを彷彿とさせる。石棺の中で安らかに眠っていて、公式行事の時だけ公開される。専門の葬儀屋によると、命が少しでも残っている間は、防腐剤は決して反応しないという。神に感謝せよ、生けるクリスチャンは防腐処理を施されるおそれはない。この世の防腐剤が生ける教会に影響を及ぼすことは少しもない。イエスは死者の中からよみがえって永遠に生きておられるという事実を、出て行って公表する男女に欠けているせいで、この哀れな世は死にかけている。十字架と墓は、ある観点から見ると、荒涼とした、暗く、冷たいものである。宗教告白者の大部分は十字架の北側に立っている。彼らはその暗く陰鬱な影の中で、骨の髄まで凍えており、ほとんど死にかけている。しかし、神はほむべきかな、南側があるのである。この南側は、快適で、あたたかい、日の降り注ぐ、明るい所であり、春の地である。花は地に咲き乱れ、鳥は頭上に歌う。そして、尽きせぬ命のきらめく水の泉が、豊かに溢れ出る。

「我はベウラの地に着きぬ、
 そこは愛の夏の地、
 天の花婿の地、
 聖なる鳩の地。
 わが冬は終わり、
 わが夏が来たれり、
 大気は歌に満ち、
 地は花をもって輝く。」