第三章 清い教会

セス・C・リース

「彼らの心を信仰によって清め」(使徒十五・九)。聖潔は状態であり、全ききよめは経験であり、聖霊はパースンである。われわれは聖潔の状態の中に、全ききよめの経験を通して入る。これは聖霊の全能の力の御業である。これはバプテスマのヨハネが宣言したように、キリストご自身によって施される「聖霊と火のバプテスマ」である。キリストが言わんとされたのは、一つは御霊によるバプテスマ、もう一つは火によるバプテスマというように、二つのバプテスマがあるということではなく、火によって象徴される一つの「聖霊のバプテスマ」のことである。

水で洗ってもきれいにならないものがある。水は外側の柔らかな泥ならきれいにできるかもしれないが、火だけが内側を本質的に清めることができる。金属の鉱石は洗うだけでは清められない――破砕と溶解の過程を通らなければならない。何度も何度も原石は火の試練にさらされ、ついには不要な埃や好ましくない砂は除かれ、金属はかすから分離される。そのように、再生の水は外面的に罪を犯すことから魂を解放するが、心を聖なる罪の無いものにするには、御霊による聖化の過程が必要である。

古井戸や坑道の中の有毒ガスは火によって一掃される。致死性のガスは炎の前に降伏しなければならない。そして、御霊の火は、講壇と会衆席の両方から、障気とマラリヤを完全に一掃する。

蒸し暑い七月の午後、雷雨ほど爽快にするものはない。鮮やかな雷光が数回閃き、目をくらませる炎が数回駆け巡るだけで、見よ、大気は引き締まり、爽快になる。あらゆる緊急の必要の中で最も自明なものは、教会は上空からの二重の雷光に撃たれなければならない、ということである。のこぎりの歯のような雷光が説教者と人々の両方の上に臨むことを許さなければならない。この天の電気が、われわれの教会とわれわれ自身の魂の中の霊的大気を清めるであろう。あいまいさ、不信仰、疑いの霧をすべて焼き尽くし、確かさから来る確信をわれわれに与えてくれるであろう。

傲慢な肉には火が必要である。働きの早さや有効性という点で、火にかなうものは何もない。ボストンのある医者が私に話してくれたのだが、現代科学の発見の中をいくら探しても、火抜きで機能するものは何もないとのことである。道徳界においても、われわれの性質とわれわれの諸教会の中にある傲慢な肉を癒せるものは、ペンテコステの火以外に何もない。これだけが、今日の宗教告白者の大多数のうちに顕著に見られる「自慢」、虚飾、道楽、不敬虔な見せびらかしを殺すことができる。われわれの避雷針や、あらゆる予防手段を下ろそうではないか。そうするなら、火、天の火が、天の胸壁を飛び越えてわれわれの上に降りかかり、われわれの高ぶりをすべてほふり、われわれの滓や屑をすべて除き、銀を駆逐してくれるであろう。そして、籾殻や値打ちのないものからことごとくわれわれを解放してくれるであろう。この解放は喜ばしいものである。

ペンテコステを受けた者たちは、清い聖なる生活を送る。彼らは決して習慣的に不潔なことを行わない。その不潔な行為が秘密のものであるか、既知のものであるかは関係ない。彼らは決して不潔な思想、みだらな欲望、聖くない情熱に耽らない。ぶどう酒、ビール、タバコ、コカイン、アヘンを用いない。教会名簿に名前がある人でも、いま述べたこれらのものに耽っているかもしれない。しかし、そのような人は板塀の上に名前があるのも同然である。なぜなら、それでその人はペンテコステの群れの構成員になるわけではないからである。その人は「集会所に属している」かもしれないが、この幸いな火を戴く群れの一人ではない。

この神なき世の秘密結社や、社交クラブや、キリストなき組織と汚れた関わりを持つ人々、この世の商売上の詐術という愚行を犯す者たち、怪しい事業を促すために自分の影響力を人に貸す者たちは、二階の部屋の炉を経過したことがないのである。ペンテコステのクリスチャンたちには「清い手と清い心」がある。聖書の中の「手」という言葉は、外側の、明白な、目に見える生活のことである。人の目に見えるもののことである。この言葉は行いと関係している。生活は清くなければならない。人がこの世と密接な関係を持つなら、汚されずにはすまない。ロトはソドムに住んで、ソドムの住人の間にいたので、ソドム人になりかけた。不義な生活を送っている人々と親密な関係を持つことは、クリスチャンにとって道徳的退行を常に意味する。「清い手」はいかなる賄賂も受け取らない。不義な取り引きをしない。一ヤードに対して三十五インチ与えることはないし(一ヤードは三十六インチ、訳注)、一ポンドに対して十五オンス与えることもない(一ポンドは十六オンス、訳注)。負債を支払う時、本当はもっと支払えるのに、一ドルにつき四十セントしか払わないというようなことはしない(一ドルは百セント、訳注)。

舌による会話もこの生活の中に含まれる。会話は清く、慎み深くなければならない。決して不作法だったり、下品だったりしてはならない。下品な仲間との嘲り話のようなものを、ペンテコステの聖徒は決して口にしてはならない。

「清い心」という句は、内側の、目に見えない、隠れた性質――神にしかわからない性質――と関係している。高ぶり、怒り、嫉妬、妬み、争い、私心、世的な野心、聖くない気性が全くない状態のことである。教会や国の中で地位や立場を得たいという願望は一掃された。ペンテコステの教会に属するわれわれには、羨望すべき地位にある人など一人もいない。われわれは地位を得るために裏で糸を引いたりなどしない。われわれは教会の外だけでなく教会の中でも、政治的悪巧みから救われている。敬意をもって互いに譲り合う。不安になることなどありえない。神がわれわれのためにすべてを案配してくださるからである。

心が清いなら、聖霊は不機嫌、苛立ち、神経過敏、怒りっぽさから、われわれを全く救ってくださる。侮辱されても滅多にそれに気づかないし、それゆえ、腹を立てることもない。キャラダイン博士が言うように、われわれは「冷たい態度や冷たい言葉を受けても生きていける」のである。われわれは軽蔑されても気にしない。だれかがわれわれに注意を払ったとしても、それはわれわれの身に余るものであり、明らかに過大評価である。

ペンテコステ前の弟子たちの場合、心の不浄さが行動、気性、野心として、どれほど明確に現れたことか!利己的であり、最高の地位を欲しがった。例えば、ヨハネとヤコブは首位の座を得ようと手を尽くした。その結果、この二人の兄弟の求めを聞いた十二人の残りの者たちが発した怒りと憤慨を見よ。しかし、二階の部屋の経験を通った彼らの場合、彼らのうちに嫉妬や私欲の証拠を見つけようとしても無駄である。このペンテコステの電気処刑により、自己の命は永遠に終わったのである。

この火の清めは、今日、教会をどれほど救ってくれることか!役職を求める説教者たちが司教を引き止めて長話することはなくなるであろう。この絶え間ない陳情活動――長老長や最高責任者がそのあわれな被害者である――はやむであろう。人々は、最高の職を得ることよりも、キリストに対する献身的愛情と、その御旨のための自己否定を示すことに、やっきになるであろう。思いがけないこと――つまり、役員の席が一つ空いた、というようなこと――があるかもしれないが、その地位につくための策をでっちあげるために徹夜する人はだれもいなくなるであろう。

将軍志望者は今日大勢いる。神の軍隊を喜んで指揮したがる輩は大勢いる。連中は鈴をつけた羊になりたがる。他人ではなく、自分が鈴を鳴らさなければ気がすまない。鈴をつけた羊になれないなら、羊でいることに我慢できなくなって、山羊になってしまう。確かに、われわれには聖くない野心を根絶する聖なる炎が必要である。

ペンテコステの前、弟子たちは党派心に満ちていた。ある哀れな人が、悪鬼どもを追い出して有頂天になっていた。「その人はわれわれに従っている人ですか?」「いいえ」「その人をやめさせなさい。リバイバルを止めなさい。当局に苦情を申し立てなさい!これは分派です!分裂的です!脱退主義です!」。どれほど称賛すべき働きでも、その働きを導く者たちが自分たちとあらゆる点で一致していないかぎり、それに少しも同情しようとしない人々が大勢いるのである。

ペンテコステの前の弟子たちは、復讐心を現した。「反対だって?」「火を呼び下せ!」「われわれの宣べ伝えを聞きたがらないだって?」「硫黄の雨を降らせよ!」。これが、いわゆる聖潔の説教者たちの中にすらある、キリストに似つかわしくない精神である。「われわれはあなたを罰せませんが、神にはできます。主にわれわれの復讐をしてもらいます」。神の御子の柔和さ、へりくだった心と、なんとかけはなれていることか。神の御子は「さげすまれ」「拒絶され」ても、口を開かなかった。われわれが聖められる時、復讐や報復はわれわれの中から焼き尽くされる。そして今後、聖くない憤りが魂の中に所を見いだすことは全くなくなるのである。