第四章 力ある教会

セス・C・リース

「聖霊があなたたちの上に臨んでから後、あなたたちは力を受ける」。力がなければ成功はありえない。力こそまさに成功の条件である。力こそ、神の民にとって大いに必要なものである。なぜなら、力があるとき、失敗はありえなくなるからである。欽定訳で「力」と訳されている言葉は、それから「ダイナマイト」という用語が取られた言葉である。実に、「聖霊があなたたちの上に臨んでから後、あなたたちはダイナマイトを受ける」と読んでも、この御言葉を損なったことにはならない。「見よ、わたしは敵のダイナマイトを上回るダイナマイトを、あなたたちに与えた」。このようにペンテコステの力は、霊の世界では、物質界のダイナマイトのようなものであることがわかる。使徒たちの務めにおける、その爆発的転覆力を考えよ。「この世をひっくり返してきた者たちがここにもやって来た」。肉的な心には、この世は上下正常に見える。しかし、現実は上下逆さまであり、聖霊の逆転させるダイナマイトが必要なのである。

この力がわれわれに約束されており、この力があれば成功は確実である。この力を持つことは特権であるだけでなく、積極的義務でもある。われわれは確かに、「盗んではならない」と命じられているのと同じように、「主にあって、その大能の力により、強くあれ」と命じられている。それゆえ、クリスチャンであるあなたが授業や証しの集会で立ち上がって、自分の「弱さ」、「欠点」、「曲がった歩み」、「くだらない意見」について語ることは、窃盗、情欲、虚偽の性向について語るのと同じくらい、不適切なことである。弱さは蔓延する病であり、力は蔓延するエネルギーである。私は弱くてはならない。なぜなら、弱さは失敗を招く災難であるだけでなく――高き天から見て犯罪だからである。

人は経済的支援に応じて経済的に強くなるのだとすると、われわれはどうしてわれわれの霊的支援に見合うほど強くなれないことがあろうか?天の資源が完全に尽きないかぎり、われわれは決して失敗することを考えるべきではない。天が破産したことが確かでないかぎり、われわれは敗北の準備をするべきではない。われわれは御座につながれているのだから、われわれが倒れることを予期するのは、白い御座そのものが倒壊し、ぐらつき、沈む時だけである。栄光!たいていのクリスチャンは、倒れるための軟らかい場所を探している。転ぶ準備をしている。「恵みから落ちるというこの幸いな昔ながらの教理を決して手放すことはできません」と言った姉妹のようである。彼らは堕落を徹底的に信じ込んでいるので、しばしば堕落に耽るのである。

堕落は不可能である、とはだれも言わない。しかし、罪を犯す必要はないことは確かである。われわれは完全無欠を宣べ伝えているのではない。罪から救い、人の心に勝利を得させる能力と力を持つ神の恵みをあがめている。「神にはなんでもできます」。「信じる者はなんでもできます」。信仰は恐れを勇気に、「曲がった道」を王の道に、「貧弱な努力」を輝かしい「偉業」に変える錬金術である。恐怖を恐れるなら、恐怖がわれわれに臨むであろう。「曲がった道」に関する話に耽るなら、話すべき多くの「曲がった道」に陥るであろう。自分の公的メッセージのことを「くだらない意見」と言う者は、大抵の場合、自分の話の真の性質を述べているのである。自分の公的メッセージは「くだらない」と思うなら、それはくだらない。それほど、信仰の重要性は大きいのである。人が神からのメッセージを受けて、それを「天から遣わされた聖霊と共に」解き放つなら、自分の務めのことを「努力」や「奮闘」として述べることは決してないだろう。奮闘のみでは奮闘でしかなく、奮闘することで満足するしかない。成功談とは無縁であり、勝利は期待できない。ほとんど期待しないので、決して失望もしない。

繰り返そう。ペンテコステの教会は力ある教会である。この力は数の力ではない。事実、イスラエルは数が最も大きかった時、しばしば最も弱かった。他方、ギデオンの三百人は三万二千人より強かった。六百人の会員がいる教会の多くは、小人、一寸法師、発育不全の赤ん坊でいっぱいである。「新しく生まれた赤ん坊は御言葉の純粋な乳を望む」が、赤ん坊が生まれたとしても、彼らには赤ん坊をどうすればいいのかわからない。というのは、五年間、一人も回心者がいなかったからである。この発育不全で虚弱な人々は、「不機嫌」で、気難しく、喜ばすのが難しい。かわいがり、甘やかし、かぐわしい木綿で包んでやらなければならない。それには、勤勉な二人の牧師が絶えず世話する必要がある。

多くの会員がいる多くの教会団体は、苦労して、かろうじて存在を保っているにすぎない。事業を続けるのに必要なお金をなんとか工面するために、怪しい方法をほとんどなんでも用いている。他方、聖潔の小さな宣教団の中には、地的な支援が全くないのに、数百の魂を救っているものがある。われわれはニューヨーク市のある小さな聖潔の宣教団を知っているが、その宣教団は月平均百三十五名の回心者を得ている。このように、神は量より質にこだわっておられることがわかる。イスラエルは、数にたのんで人々を数え始めるたびに失敗した。イスラエルに必要なのは、ただ神だけだったのである。どの時代にも、人数を数え、群衆に頼る傾向がある。今日なされている努力は、見かけをいっそう華々しくすることである。奉仕者たちは、会員を増やすことに力をすべて費やすという重大な過ちを犯している。われわれは立ち止まって、今いる者を清める必要がある。会議や年会に大きな数字を報告することはできるかもしれない。しかし、裁きの日が来て、水増しされた統計が実際の数まで切り詰められる時、自分の会衆を認めることができないかもしれない。間に合わせの聖職者の大群を持つよりは、むしろ、この世から分離されて上空からの凝縮された稲妻に満たされた半ダースの男女を持ちたいものである。著者はある人々を知っている。その人々は貧民街から連れ出され、救われ、全くきよめられ、癒され、数珠電光で充電された人々である。私は説教する時、司教の一団に支えてもらうよりは、むしろ、この人々に講壇のそばに座ってもらって、祈ってもらいたい。

また、理想的なペンテコステの教会の力は、知性や頭脳の力ではない。知識は力である、と言われている。しかし、頭に多くの知識を詰め込んではいるものの心が飢えている多くの人々は、日に日に弱っている。いま述べているこの力は、神学校、単科大学、総合大学の所産ではない。この力は形而上学的研究や哲学的考察には由来しない。古代のギリシャ人たちは教養があり、よく洗練されていたが、この力に全く欠けていた。中国のかび臭い記録によると、中国人は科学的手法に関する鋭い洞察力を持ち、その頭脳は諸々の哲学を豊かに生み出した。しかし、孔子の全盛時代でさえ、天人たちはこの力についてなにも知らなかった。コリントは修辞学で有名であり、学識の誉れが高く、現代のオックスフォード、エジンバラ、ボストンのようなものだったが、悪徳と犯罪で悪名高かった。教養あるきわめて洗練されたニューイングランドの最高に頭脳明晰な会衆の多くも、地獄から現れた、きわめて浪費の激しい、きわめて浅薄で、きわめて愚かしい、きわめて貧弱な悪魔に対抗するのに十分な霊的力を持っていなかった。ボストンの「四百人」の中には、異教のビルマ人の子供じみた不毛な宗教以上の何物も欲しない者がいた。たとえ「クリスチャン・サイエンス」と称されていたとしても、この名称はその真の特徴を覆い隠せない。なぜなら、それはキリスト教的でも科学的でもないからである。われわれは無知を重んじない。神に感謝すべきことに、われわれには僅かながら学者や議員もいる。彼らは霊性の力を知っており、自分の学識、雄弁、博学に頼ることを差し控えて、聖霊ご自身に信頼する十分な知恵を有している。しかし、ああ!神学博士(D.D.)、法学博士(LL.D.)、哲学博士(Ph.D.)の多くの哀れな説教者たちには、不可(N.G.=No Good)の称号を加えなければならない。

さらに、この力は富の力ではない。この力は、家畜の群れ、青々とした広大な土地、金や銀の山、株や債権から成るのではないし、いかなる形態の物質から成るのでもない。ペンテコステの教会の構成員たちはほとんどなにも持っていなかった。自分の持ち物を売り払い、喜んでそれを主の宝庫の中に投げ入れた。この世では、経済状況によって会衆を測ることがしばしばある。天ではそうではない。神は金銭を求めておられない。神は乞食ではない。「諸々の丘の牛は主のものである」。御手の中に神は宇宙の富を握っておられる。神は経済的になにも必要としておられない。

初代教会では、金銭はたとえ問題になることがあったとしても、二次的な問題にすぎなかった。草創期の説教者たちは、貧しくても動揺しなかった。「銀や金は私にはない」と、宮の門で足萎えに会った時、ペテロはヨハネと共に言った。今日、委員会の会合、執事たちの理事会、婦人支援協会等でもっぱら耳にするのは、「金!金!どうやって金を集めよう?」というお粗末な叫びである。「どこから金を得よう?」が、教会でなにかを企てる時の最初の問題である。親睦会、遊興、展示会、バザー、祭り、掃除訓練、懇親会、マザー・グース会、粗末な夕食、焼き貝、豆の食事、カキのシチュー(カキがほとんど入っていないもの)、その他、地獄が考案したありとあらゆる悪魔的な罠が、金を集めて神の聖なる働きを進める目的のために、頼みの綱とされている!十セントの値打ちのカキを二十五セントで売って、罪人たちから金を巻き上げなければならないほど、われわれがこんなにも貧しいとは、なんという恥だろう!われわれの神は乞食ではない。

キリストが説教者たちを任命された時、道中必要なものの備えはできているということ以外、金の話はなにもなかった。教会が金持ちになるたびに、教会は罪人たちに罪を認めさせて回心させる力を失った。ある修道士たちが輝く金の巨大な山をせっせと数えていると、その部屋にトマス・アキナスが入って来た。「教会が『金銀は我になし』と言うことを余儀なくされた時代は過ぎ去りましたね」と、金を数えていた者の一人が感想を述べた。少しのあいだ真剣に考えた後、「天使博士」は答えた。「確かに。そして、『ナザレのイエスの御名により、立ち上がって歩け』と教会が言えた時代も過ぎ去りました」。一般的に言って、教会の建物に金がかかるようになるほど、その団体の霊性は減少し、教会の尖塔が高くなるほど、実際の敬虔さは低下するものである。

われわれは金持ちに迎合するという重大な過ちを犯している。「貧しい身なり」をした人が集会にやって来て、席を探しても見あたらず、しまいには扉近くの不便な席で我慢するよう強いられるのをしばしば見かけて、筆者は驚き、痛みを覚えた。しかし、「良い身なり」で「金の指輪」をした人が現れると、たちまち半ダースの人々が立ち上がって、訪問者を前に案内し、まるで魔法のように信者席が空くのである。これはすべて「金持ち」が席に着くためである。

教会の力は、頭脳、人数、教養、弁舌、学派から成るのではない。位、称号、王権、王座、株や債権にあるのではない。理想的なペンテコステの教会の力は聖霊ご自身である。聖霊だけが主のこの偉大な軍隊の力である。聖霊はたんなる影響力ではない。聖霊は、神の息吹、神から流れ出たもの、神の抽象的な力ではない。聖霊は神ご自身であり、三位一体の第三格位である。聖霊が教会の中に到来するのは、その個々の構成員の中に到来されることによる。こうして、その全能のエネルギーにより、聖霊は教会を清め、充電し、力を与えてくださるのである。