第五章 力ある教会(続き)

セス・C・リース

霊的力とは実際のところ何であるのかに関して、ある誤解が広まっている。霊的力は、単科大学を設立したり、総合大学を維持するための力ではない。霊的力は、芸術や科学を教える力、ピラミッドを建てる力、蒸気船を走らせる力、急行列車を走らせる力、電信通信を確立する力ではない。こうしたものは、純粋なペンテコステの力ではない、他のエネルギーや力による。霊的力は、政治的悪巧みのためではないし、賢く政治を執り行うためでもない。この力が特別に働いて達成されたのではない事柄、良い事柄が、おそらくたくさんある。

積極的には、霊的力は悪魔の働きを滅ぼして、人を罪と地獄から救う力である。しかし、悪魔の働きはどこにあるのか?悪魔の働きは滅ぼされなければならないというのなら、その場所を特定して、そのありかにこの力を適用しなければならない。「悪魔の働きは酒場、酒商売にあります。ですから、この地獄的事業を打倒するために全力を尽くす人々を見つけなければなりません」と主張する人もいる。他の人々は、売春宿、社会的不潔や放縦が悪魔の働きである、と信じている。これに影響されて、ある人々は風紀矯正運動に全力を尽くしている。また他の人々は、「悪魔の働きは秘密結社の中に宿っている」と言い張って、それゆえ、これらのキリストなき組織の打倒を目指して全力を注いでいる。これらの巨悪を維持するために悪魔が活発に働いていることをわれわれは認める。しかし、悪魔の作業場、仕事場、試料作成所を見つけるには、これらよりも正解に近い道を取らなければならない。われわれが述べているその場所とは、人の心である。人の心から悪魔の働きが一掃されるなら、男は酒場を離れ、女は売春宿を捨てるであろう。秘密結社の会員は自分の階位を放棄し、この世の諸々の係累は断ち切られるであろう。

悪魔の働きのありかはわれわれの頭脳や知性ではない。仮にそうだったなら、エール、、ハーバード、ブラウン、アマースト、ダートマスが、この病を癒せたかもしれない。罪のありかは体でもない。どんな薬も罪には届かない。たとえ人が神の力によって癒されたとしても、生来の罪から必ずしも解放されるわけではない。神の癒しの素晴らしい事例がたくさん記録されているが、癒された人は潔められなかったのである。罪のありかは心の中である。罪は人の霊的な情緒的性質である。「心の中から悪しき思い等が出る」とキリストは仰せられた。

ペンテコステの力、聖霊の力は、木の小枝や大枝を取り扱う代わりに、斧を木のまさに根元に置く。この力は、高ぶり、怒り、嫉妬、悪意、妬み、争い、短気、俗悪さ、聖くない野心、情欲、そして、複雑きわまりない枝葉末節の中にあるあらゆる不純物の根幹をことごとく攻撃して滅ぼす。この力は、不平、泣き言、不機嫌、気難しさ、恐れ、神経過敏から、完全にわれわれを解放する。幸いなことに、この力は、あらゆる虚飾、嗜好、自慢からわれわれを救い出す。悪行を誇る大言壮語や自慢話は全くなくなる。誉められたり表彰される時に現れる、肉性の特徴であるあの腐った「増長」は、さらに堅固で申し分のない実質に所をゆずる。人々はへつらって、「お世辞」を言うかもしれないが、聖霊の人は増長しない。人々は批判し、厳しく非難し、無慈悲に罪に定めるかもしれないが、それでも聖霊の人は落ち込まない。

このペンテコステの力は、教会の中で地位を求める渇望から人を解放する。自分の欲する地位を握りしめる人はだれもいない。他の人が自分より用いられても、気分を害さない。他人が栄誉を受けて、自分は無視されても、「傷」つかない。他人の繁栄を喜ぶ。しかも、気取って偽善的に喜ぶふりをするのではなく、「他人を敬って」推薦する、心からの真の喜びをもって喜ぶのである。

「聖霊来臨」によりわれわれはこのような力を授かるので、あらゆる働きが容易になる。「わたしのくびきは容易である」と主は仰せられる。聖霊の賜物を受けた者は、人に従属するものや外側の環境に拠り頼む必要はない。筆者はある日、教会の会員の一人と共に、ナラガンセット湾を船で下っていた。すると突然、その兄弟がウォーカー・アーミントン号に筆者の注意を向けさせて、「この種類の船は大西洋岸ではこの一隻だけです」と言った。「この船の何が特別なのですか?」と筆者は尋ねた。なぜなら、その船は湾を満たしている多くの美しい四本マストのスクーナー船の一つにすぎなかったからである。「見てください」とその紳士は言った。「マストの一つのてっぺんから黒い煙が出ているでしょう。あの船にはエンジンが積んであって、曳航船の助けがなくても、この曲がりくねった海峡を行き来できるんですよ」。私は思った。「これこそ自分の経験を示す象徴にほかならない。聖霊を受けてからというもの、曳航船に頼らなくなったのだから」。

あの堂々たる優雅な「浮かぶ宮殿」である「コネチカット号」が、ある朝、濃霧の中、プロビデンス港に近づいてきた。この蒸気船がフィールズ・ポイントを回った時、その操縦士は霧笛を聞き逃し、この巨船は砂州に乗り上げてしまった。巨大なエンジンをフル稼働しても、蒸気船は左右にかしぐだけで、船体をますます堅く砂の中にめり込ませるだけだった。曳航船が送られてきたが、多くの曳航船が力を合わせても、この船を浮かび上がらせることはできなかった。では、どうすればいいのか?なすべきことはただ一つ。神の月が、その重力の魔法により、海面を五フィート高くするまで待つことだった。こうして、「コネチカット号」は全く易々と浮かび上がったのである。船体竜骨下の五フィートの神の水は、曳航船全体よりも価値があったのである。自分自身の奮闘をやめる時、われわれも同様である。自分を引き出してくれる友人たちに頼るのをやめる時、目を人間的なあらゆるものから転じて偉大な神に向ける時、神は御胸の中に溢れている愛の潮流でわれわれを引き上げ、全く易々と静かな港に送ってくださる。われわれを引っ張ってバラバラに引き裂く代わりに、神は優しく「永遠の御腕」を私たちの下に置いてわれわれを引き上げ、あらゆる砂州や浅瀬から速やかにわれわれを遠ざけてくださる。神にすべてをお任せする時、喜ばしいことに、すべてはとても容易になる。偽教師たちは「天は自ら助くる者を助く」とわれわれに言う。神はわれわれにできる以上のことを何もなさろうとしない、というのである。しかし、これは聖書的ではなく、有害な教えである。こうして、数千もの人々は、自分の聖くない努力を補ってもらうことしか、神に求めないのである。彼らは自分が完全に失敗した時だけ、神に頼る。極度の窮地に陥った時だけ、神に頼る。なんとあわれなことか!われわれの行いはすべて致命的である。自分には何もできず、キリストがすべてをなさなければならない地点に、われわれは到達する。「あなたたちはこの戦いで戦ってはならない。この戦いはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである」。「『権勢によらず、能力によらず、わが霊によって』と主は仰せられる」。「彼の安息の中に入った者も、神がご自分の働きを休まれたように、自分の働きを休んだからです」。聖霊を受ける時、われわれは仕事から引退して、休息する。決して終わることのない休息の安息日に、破られてはならない安息日に入る。

われわれが自分のことで汲々としているかぎり、神はこの独占事業をわれわれに丸投げされるであろう。これはひどく辛い働きである。しかし、われわれが神を受け入れる時、神が全責任を負ってくださり、すべてを案配してくださる。われわれは仕事を離れる。在庫、備品、台をすべて神に売り払う。自分の持ち物すべてについて、所有権譲渡証書を造る。われわれはすべてを渡す。過去も現在も未来も、既知のものも未知のものも、将来の友も敵も、富も貧困も、繁栄も逆境も、来たるべき征服も失敗らしきものも。われわれの誉れは献身にある。もはや誉れを求めない、守らない、顧みない。悪魔がわれわれに関して人々の口から口へとつまらない噂話を流布しても、もはやそのような噂話を追いかけようとうずうずするのをやめる。われわれは自分自身を所有物すべてと共に神に明け渡した。新聞を明け渡し、鍵を手渡した。神は借金を帳消しにし、税金を払い、資産を管理して修繕してくださる。なんたる救い!ハレルヤ!