第六章 証しする教会

セス・C・リース

「あなたたちは私の証し人になる」。「彼らはみな語り始めた」。自然に、本能的に、証しする舌が動き始めた。火に触れた弟子たちは、座り込んで静かな集会をしようなどとは決して思わない。同じように、自分たちのために話したり歌ったりしてくれる人を雇おうなどとも思わない。証しは教会生活に必ず伴うものである。教会が自分の偉大な中心からさまよい離れ、聖霊を無視して拒絶する時だけ、教会は自分の証しを失う。

この世の口を封じて、心をおののかせる認罪を魂に臨ませる方法を、神は定め、考案された。しかし、この方法の代わりに、無数の様々な代替物が提供されている。証しの代わりに、宗教活動をさらに盛んにすることの方が好まれることもしばしばある。この活動がどれほど良いものだとしても、証しによって成就されるよう神が意図された目的を、活動は決して遂げることはない。「酷く汚れた人」や、救われておらずわれわれに魅力を感じていない人に手を差し伸べるには、科学と宗教の調和についての小論では駄目である。正説を弁護する学問的論文や、薔薇の香りがする女子高生の「十九世紀の三月」についての作文では駄目である。そうした話題は説教者の知的訓練には有益かもしれないが、会衆には難しすぎるし、罪と大きく口を開けている地獄から人々を救うことはまったくできない。

生き生きとしている教会には、絶えず鳴り響く証しがある。次の言葉はこれを見事に述べている。「声なき教会は力なき教会である。聖霊は証しするための力である。聖霊は証しに、抵抗することも口答えをすることもできない力を与えて下さるのではないだろうか?人々に手を差し伸べる方法は、議論や論理的三段論法によるのではなく、真に生きている証し人たちの証しによる。この証し人たちは、確かな事実に由来する確信を持っており、『自分が知っていることを話す』人々である」。反対者は、論理には論理で、ギリシャ語の語根にはギリシャ語の語根で、学派の業界用語には同様の用語で応じることができる。しかし、経験に対して、確かに知られているものに対して、なすすべを知らない。

悪魔はこれまで常に、極めて激しい攻撃の矛先を、公の証しに向けてきた。心の中で信じるだけで反対を受けた人は誰もいない。家庭の中で敬虔だったために反対を受けた人は僅かしかいない。しかし、これまでずっと、イエスのための公の証しに対して、地と地獄は総力を結集してきたのである。ローマ帝国は、初期の諸教会の証しを潰そうとして、力を消耗し尽くした。十の激しい迫害が矢継ぎ早に続いた。証し人になることは死ぬことを意味した。それで、証し人(殉教者)という言葉は、「イエスの証し」のために死ぬ人を意味するようになった。しかし、数十万の人が血を流したにもかかわらず、諸教会は「増殖して成長した」のである。初期のクエーカーたちが受けた厳しい迫害の間、大人の会員は投獄されて、ついに公の集会を続ける人は誰もいなくなってしまった。この公の証しはなくなってしまうかのように思われた。しかし、この友会の子供たち、十歳、十二歳、十三歳の子供たちが共に集まって、父母が牢屋にいる間、集会を維持したのである。激しい凶暴な迫害が、この敬虔な若者たちに向けられたが、地上や地獄のいかなる力も、火で満たされた彼らの証しには立ち向かえなかった。灼熱の輪が彼らの舌の上に置かれたが、それでも、不明瞭な痛ましい言葉で、彼らは依然として証ししようとしたのである。

ある時、三人のクエーカーの奉仕者たちが火あぶりの刑に処せられた。迫害者たちは、二人目と三人目が一人目の死を目撃するように、そして、三人目が一人目と二人目の苦しみを見るように案配した。三人は示し合わせて、最初に火あぶりにされる者は、もし信仰がなくならなければ、意識がある最後の瞬間に片手を挙げて、そうして他の二人を励ますことにした。一人目の殉教者が連れ出され、火刑の柱に縛り付けられて、燃えさかる炎に包まれた。その体が炭になりかけて、「もう再び動くことはないだろう」と二人が思った時、この受難者は両手を頭の上に挙げて、三回手を叩いた。拷問用の台や、地下牢や、柱は、もはや一般的ではなくなったが、それでも、敵意に満ちた激しい迫害の時代と同じように、証しは必要とされているだけでなく憎まれているのである。

教会の霊性が低下する時、学級集会、祈りの集会、盟約集会、証しの集会は閑散としたものになる。他方、展示会、祭、バザー、豆類夕食、ロバパーティー、娯楽には、この同じ教会に群衆が群がる。この有様と「御霊に満たされた」教会とを比較せよ。証しする集会が大きくなるなら、いま述べたような子供じみた大騒ぎはもはや必要なくなるのである。

人が真に聖霊を受ける時、その人は神が自分のために、自分の内になして下さったことを証ししたくなる。恐るべき死の不気味な顔を前にしても、駆り立てるある力によって話すよう強いられる。イエスのために死んだ者たちは、もし自分の平安にしがみついていたなら、決して殉教者にはならなかったであろう。黙っていられなかったので、彼らは自分の命をささげた。彼らは「それを生きてはならない」と言われたのではなく、「もはやこの名によって教えてはならない」と言われたのである。イエスに対する反対はどれも、彼の公の宣べ伝えと働きのためだった。もし彼が静かに動き回っていたなら、もし「山上の垂訓」の代わりにタルムードについての講義をしていたなら、ユダヤ人たちが立ち上がってイエスを死に渡すことは決してなかったであろう。「それを生きるのは構わないが、それについては黙っていろ」と悪魔は言う。しかし、人生のほとんどは自分が語る言葉から成っており、自分の話の中から神の御子を締め出す者は、自分の心からも締め出すのである。人に聖霊による告白を差し控えさせるなら、その人はたとえどこにいたとしてもそれを生きる力を失う。「心に信じること」と「口で告白すること」は双子であって分けられないし、分けてはならないのである。