第九章 示威的教会

セス・C・リース

「この人々は新しいぶどう酒に満たされている」。「その音は響き渡り」、人々は「みな驚いた」。この世は、宗教以外のあらゆることで、熱意を称賛して褒め称えている。この国はあらゆる人間活動の巣である。無数の止むことのない活動の、がやがやした音、轟音、ざわめきを、われわれは耳にしている。大気は商業的、政治的、社会的、知的熱意に満ちている。ものぐささや怠惰に人々はほとんど耐えられない。しかし、それにもかかわらず、健全な宗教的感情については、ことごとく疑いの目で見られており、御霊に酔うことは狂信の烙印を押されている。こうして、反対する批判により、数千もの人々が沈黙している。

数百の教会は、礼儀正しさのせいで死にかけている。ペンテコステの時に教会がどうしたのか、われわれは特に告げられているわけではないが、次のことは極めて明白である。すなわち、「彼らはみな酔っている」と公衆が考えるような方法で、人々は振る舞ったのである。われわれはまた次のことを知っている。今でもクリスチャンたちが聖霊を受ける時、泣く者もいれば、叫ぶ者もいる。また、飛び跳ねる者もいれば、魂の中に聖なる静けさ抱えて死んだようにじっとしている者もいる。しかし、霊的な教会は、ペンテコステから今日に至るまで、常に騒がしい教会だった。ペンテコステの賜物は常に「響き渡る」ものである。今日の普通の会衆のことを酔っていると思う者は誰もいないであろう。ただし、これは彼らが進んだ段階にあって、例えば眠っているなどと考えてはならない場合に限られる。

多くの人々は、内なる御霊の動きを表すことに失敗したり、拒んだせいで、あるいは、それを無視したせいで、自分の魂から光と喜びを失った。多くの人がこう告白している、「『アーメン!』『主を賛美します!』「ハレルヤ!』と公の人々の集まりで言うべきである、と何度も何度も感じたのですが、そうするのを差し控えたところ、間もなく、『ハレルヤ!』と言うことが何もなくなってしまいました」と。

クエーカー主義の初期の頃、奉仕者たちはしばしば野原で群衆に宣べ伝えた。そのような時、しばしば、数百の人が聖霊の屠る力の下で地面に倒れ伏した。初期のメソジスト主義では、広々とした「アーメンコーナー(熱心な信者が座る講壇近くの席、訳注)」があって、響きわたる「アーメン」で満ちていただけでなく、会衆全体に渡って叫ぶことが普通だった。ノースサンプトンの組合教会のジョナサン・エドワーズが「怒れる神の御手の中にある罪人たち」を説教した時、人々は家の柱や会衆席の背にしがみついた。自分の足が底なき地獄の縁にあって滑り落ちようとしているのを見たからである――人々は堅くそう信じていたのである!すすり泣き、嘆き悲しみ、悲嘆の声が、呪われた彼らから立ち上った。その説教の結果、五百名の人が回心したと見積もられている。筆者自身、一度に六百名の人々が神を求めるのを見たことがある。

ロード・アイランドのポーツマスで開かれた野外集会で、火の冠を戴く聖潔の伝道者たちの一人が説教したところ、その説教の終わり頃、通常の「招き」がまだなされていないにもかかわらず、六十五名の人が藁の中に倒れ伏した。その屋外集会の別の時、ある聖徒の兄弟が説教したところ、力が人々の上に大いに下ったため、その説教が終わる前に、人々は前に進んで来て、祭壇にひれ伏し始めた。屈強の男たちが前に進み始めようとしても、祭壇に着く前に倒れてしまうのであった。このようなことが続いて、ついには四十二名の人が伏して神に叫んだのである。

一八九四年一月、西部インディアナの真面目で保守的なクエーカーの会衆の上に聖霊が下った。祭壇に来るよう求められた人は誰もいなかったし、行動で示そうという努力は何もなされなかった。一人の姉妹が立ち上がり、祭壇の所に来て、泣き始めた。一人また一人とそれに続き、ついに大きな祭壇が完全に埋め尽くされた。次に、認罪の下にある人々が会衆の中に降りて行き始めた。離れた所にある後方の玄関の近くで、人々はひざまずいて祈った。するとたちまち、聖なる火が天空から下り、その大会衆の上を行き巡って、人々の心を地面に打ち倒したのである。多くの人が声を出して同時に祈った(クエーカーの集会では極めて異例のことだった)。すすり泣きや笑い、叫びや嘆き悲しみ、ハンカチを振ることや握手といった光景が、その家の至る所で見られた。

われわれは空っぽの雲から雷を得ようとしているのではない。また、空っぽの荷馬車のガタガタ音を褒めているのではない。しかし、この世は興奮を称賛しており、興奮はほとんどすべてのペンテコステ教会に共通するものであるが、この興奮を放棄するなら決して魂の収穫は得られないのである。

ナイル川の三角州の無尽蔵の豊かさは、毎年の洪水のおかげである。説教者、正統的で真っ直ぐな尊敬すべき強力な論客、楽しい語り手の多くは、決してあまり益にならない。なぜなら、真っ当すぎて、洪水を決して喜ばないからである。このような説教者は雄弁さで会衆の称賛を博し、人々はうっとりと耳を傾け、賛同の意を惜しみなく表明するかもしれない。しかし、それにもかかわらず、罪から救われる者は皆無であり、心が地獄から立ち返ることもない。上品で、洗練されており、雄弁なのだが、それでも、この説教者には人々を神に立ち返らせる力がない。これは何を意味するのか?土手から堤まで魂を満たす洪水を、その説教者は必要としているのである。

われわれは「盗んではならない」と命じられているのと同じように、「御霊を消してはならない」と命じられている。御霊は、ご自分が統治できて競合者がいないときだけ、われわれの心の中にとどまって下さる。聖霊を悲しめたり、抑え込んだり、侮辱したりしてはならない。また、聖霊がわれわれと共に取っておられる道の正しさに疑問をもつことすらしてはならない。