第十章 人を引きつける、魅力のある教会

セス・C・リース

「群衆が集まった」。ペンテコステ主義が今日直面している最大の問題の一つは、「どうやって大衆に手を差し伸べればいいのか?」ということである。大会議が開催され、大演壇からこの問題が何度も何度も議論されてきた。諸々の方法や手段を考案するのだが、適切なものは一つも見つからない。ニューヨークのある億万長者は言う、「大衆に手を差し伸べることができるなら、そのために百五十万ドル与えよう」と。しかし、金では駄目である。「極めて聡明で、雄弁な、『魅力ある』奉仕者たちを雇おう」と提案する者もいる。しかし、ああ、説教者は見い出すのである。死せる教会の会員たちという邪魔な屍を乗り越えて罪人たちを教会の中に引き寄せる働きの困難さを。新しいパイプオルガンを提案する人もいるが、この素晴らしい楽器の目新しさがなくなるやいなや、大衆は来なくなる。熱心な耽美主義者は、もっと多くのフレスコ画、多少多めのしっくい作業、新しい絨毯、聖歌隊に加える別のカナリヤに固執する。美食家は胃袋という方法を用いて人々を集める可能性を提案する。そいうわけで、H.O.G.協会は教会に台所を備え付けて、三百パーセントの利益率で薄いカキのスープを売っているのである。しかし、台所でぶらついている教会のこの馬鹿げた行いにもかかわらず、救われていない大衆はまったくその影響を受けないし、魅力を感じもしないのである。「方法や手段」に関するこの委員会は、「われわれには新しい教会が必要である」と言い出す始末である。それで、五万ドルの値打ちがある石や煉瓦やしっくいを積み上げて、その上に風見鶏を据えたのである。その下で礼拝している、風向きによって影響される会衆にお似合いである。この巨大建造物が「教会」と称されている。しかし、ああ、この素晴らしい大会堂は容易に千二百名収用できるのだが、神学博士、法学博士、哲学博士である牧師のジョーンズ氏は、幼稚な短い説教を日曜の朝に、たった三百五十人の聴衆に向かって読んでいるのである!

われわれは奉仕者たちの集会に集まり、この状況について議論し、嘆き悲しむ。われわれはこの問題についての長い小論に耳を傾ける。その小論では解決策としてありとあらゆるものが提案されるのだが、一つの点に欠けている。そして、その一つの点こそ効果があるのである。「奉仕者たちこそ、自分の避雷針を打ち倒し、『上の部屋』にひれ伏して、天の炎が隔てを超えて天の祭壇から人々の心に燃え移るまでそこにとどまるべきではないだろうか?この天の炎は、奉仕者や教会の高ぶりを焼き尽くし、偽りの威厳や地獄が造り上げたしがらみから務めを解放し、助けるべき人々の水準に務めをもたらす」とあえて言う者は誰もいない。次に、われわれは数人の頭脳にではなく、神に拠り頼むべきである。われわれは、「大説教」、翼を広げた鷲のような話術、仰々しい大言壮語にではなく、聖霊に頼る。その時、祝福に満ちた御霊は、われわれの努力、運動、方法が決してなしえなかったことを成し遂げて下さる。高い天からのこの霊的電気は、われわれのガラクタを焼き尽くし、この世の注意を引き、魂を救う「失われた技術」を教会に回復してくれる。

モーセは、ホレブの道に沿って旅をしていた時、燃える茨を見たが、その茨は燃え尽きなかった。「そこでモーセは、『向きを変えて、なぜ茨が燃え尽きないのか、この大いなる光景を見よう』と言った」。今はせわしく忙しい時代であることを皆が認める。今は流れの速い時代である。「人生はあまりにも短い」。人々は待つことができない。地球の東向きの公転速度よりも、思考伝達のための人の手段の方が速い。それで、ボストン新聞がその日付けの二時間前にサンフランシスコで読まれているのである。しかし、われわれのこのせわしない生活の競争、奮闘、喧噪にもかかわらず、もし教会が聖なる炎で燃え上がるなら、人々は大挙して向きを変え、この「大いなる光景」を見るであろう。

火に向かう人々の機敏さ、素早さを見よ。筆者がある東部の町に泊まっていた時、真夜中に火報が鳴りだした。窓を開けると、人々があらゆる方向からやって来て、炎が立ち上っている建物の方に向かっているのが見えた。興奮した興味津々の群衆は、あらゆる階級や身分の人々でごったがえしていた。とりわけ筆者の目にとまったのは、一人の白髪の老人であった。その老人は、松葉杖でよたよたと火災現場に向かっていた。足の不自由な者も怠惰な者も、金持ちも貧乏人も、身分の高い人も低い人も、白人も黒人も、みなが火事に魅せられていた。講壇の火や会衆席の火は群衆を共に引き寄せる。神の描写、筆記によると、奉仕者は「火の炎」である。六フィート長の白熱したこの講壇の炎は、それが燃やし尽くす領域内にいるあらゆる階級の人々を引きつけるであろう。

ペンテコステの教会は、宣伝に金を費やさなかった。人を極めて引きつける性格を帯びていたのである。人気取りは、常のごとく失敗する。人の巧みな技巧は成功しない。筆者はニューイングランド市のある教会を知っている。その教会では、三十ヶ月間、夏も冬も、毎週、この聖なる炎が群衆を引き寄せ続けた。暑い七月と八月の間、他の教会の大部分は(まるで涼むには冷蔵庫が必要であるかのように)避暑のために海辺に出かけたが、このペンテコステの教会は入口の所まで人で詰まっていて、人々は向きを変えて立ち見の場所を求めたのであった。火の冠を戴く教会は、決して群衆に事欠かないのである。