第十一章 人々に罪を悟らせる教会

セス・C・リース

「人々は心を刺された」。「聖霊が来られる時、罪について、義について、裁きについて、この世を責めます」。祝福に満ちた聖霊は、信者の心の中に「来られる時」、罪人たちに罪を認めさせる。聖霊の信実さは不変であり、この信実さをもって、聖霊はこの件に関してクリスチャンの信仰に応えてくださる。

聖書の時代に人々の上に臨んだこの認罪は、今日では比較的まれである。しかし、真正な聖書的回心には、深く厳しい認罪が先立つ。イエスが来られたのは、義人ではなく、自分の罪深さを意識している罪人を救うためである。イエスは失われた者を探しておられる。したがって、自分が失われていることに気づかないかぎり、人々は決して救われない。救われている証拠を示さない者を教会員として迎え入れる時、われわれは悲しむべき間違いを犯す。過去四半世紀に流行したリバイバルはきわめて皮相的であった。その方法は、手を上げること、記帳すること、聴聞室――そこで「求道者」(?)は郵便ポストのように直立して座り、宗教的話題について冷静に話すのである――に入ること、そして最後に「信仰によって得ること」である。これは恐るべきペテンであり、真のリバイバルに対する茶番である。ゾッとするような欺きである。数千の人が「教会」の中に掻き集められるが、そこから地獄に行くのである!信実な福音を宣べ伝える人々に欠けているせいで、人々は小隊や大隊を組んで地獄の口の中に落ちつつある。いま述べたような皮相的なリバイバルでは、徹底的な働きをする人々の邪魔をするだけである。

いわゆる聖潔の教師や働き人の中にさえ、易きに流れる傾向がある。恵みを得る条件として口で告白するよう、多くの求道者が教わっている。「信仰によって要求して、『成就した』と言いさえすれば、成就される」。このような間違った指導を受けた人々に、「自分が救われていることや聖化されていることを知っていますか?」と尋ねてみよ。場合によっては、「私はキリストを救い主として、あるいは潔め主として受け入れました」という答えが返ってくるであろう。「私はただ信頼するだけです。私には御霊の証しはありませんが、私は感情に頼りません。私はただ約束の上に立つだけです」。こういうことは全く馬鹿げており、茶番である。第一に、約束の真価はその成就にある。約束が成就されていないのに、「約束の上に立つ」と言うのは愚かなことである。信仰は努力ではない。信仰は安息であって、常に応答を得る。全く服従している心という土地では、信仰はたやすく芽生える。千人中一人たりとも、神聖な経験をするのに、信仰上の実際問題を抱えることはない。赦しを求めなければならないとき、たいてい悔い改めに問題がある。清い心を求めている人の場合、献身に欠けているのである。

罪人が徹底的に悔い改める時、信仰の恵みが信仰を芽生えさせる。信者が献身して、どん底まで深く、深く降りて行く時、そしてついには「自分も、人も、他のなにものも自分を潔められない」と自信を喪失するようになる時、神の上に倒れて神に信頼することは、容易で実に自然なことになる。「私は信仰によって握ったのですが、その証拠を受けませんでした」と言う者もいる。ありえないことである。信仰そのものが「目に見えないものの証拠」なのであり、真の信仰は御霊の証しをもたらす。御霊の証しはわれわれを信仰の領域から連れ出して、知識の領域にもたらす。われわれは信じた事柄を知るようになる。真の信仰は神からのあらゆる祝福を得る経路である。

信じる者は神の語りかけを聞く。「条件はすべて満たしたのに、天からなんの返事もない」と主張することは、神に嘘をつくことである。したがって、「信仰の生活」はパンと水を食することではない。「パンに欠けることのない」生活である。望むなら、一日に三回正餐を食べることができる。「信仰によって生きる」人は、上質なステーキや肩肉を得る公算が大きいのである。

浅はかさは除かれねばならない。「みなさん、兄弟たちよ、救われるにはどうすればいいのでしょう?」と人々が叫び出すようになるには、聖霊による認罪の働きがなければならない。聖霊は「神格の格位」であり、聖霊だけが魂を導ける。祭壇で奉仕する時、多くの場合、われわれはあまりにも多くの求道者たちに話しかけるという失敗を犯す。求道者たちに十分に話しかけ、歌い、叫ぶことのできる者はだれもいない。このような働きをするなら、間もなくやり直さなければならなくなる。祭壇に駆けつけて神に叫ぶ機会を人々が喜ぶようになるほどまでに、聖霊は人々に罪を認めさせることができる。人々に祭壇に来て、祈り、信じ、証しするようお願いするなら、われわれはこのお願いの働きを永遠にし続ける羽目になる。しかも、たとえそうしたとしても、人々を後退から守れないのである。しかし他方、人々が十分に罪を認めて、砕かれ、叫びだし、祈り抜いて完全な勝利に至るなら、だれも「あなたは救われている」と告げる必要はない。救われたことを自ら知るからである。

今の時代の大きな誤りの一つは、「立派な成果を得るには立派な方法を用いなければならない」と多くの人が考えて、そう述べていることである。それで、立派な手段が求められている。しかし、これはちがう。神は「モーセの杖」「角笛」「牧者の投石機」「雄牛の突き棒」を用いて偉大な業をなすことができる。神は無に等しいものを用いて、在るものを無に帰すことができる。導線自身には命も力もない。それを火薬庫の中に差し込んでも、驚くべき結果はなにも生じない。全く無害である。しかし、この無力な電線に電気を流すなら、数千トンの岩石が宙に舞うのである。海底ケーブルにこの素晴らしい電気を流してみよ。深さ数千マイルの深海で、神のメッセージが閃光の速さで伝わるのである。

働き人たちがよく犯す過ちは、道具立てを重んじることである。僅かな魚しかとれないように神がなさる時、われわれは自分の網に香をたいてしまう。神に栄光を帰しそこなってしまう。われわれが栄光を盗むおそれがあるから、神はわれわれに大成功を委ねられないのではないだろうか?