第二章 確立される

セス・C・リース

「あなたたちと共に私たちを、キリストのうちに確立して、油塗って下さったのは、神である。神はまた、私たちに証印を押して、私たちの心に御霊の保証を下さったのである。」(二コリント一・二一~二二)

この御言葉が示唆している、とても輝かしい幾つかの思想がすぐにわかる。第一は「恵みにより」、第二は「確立される」、第三は「証印を押される」、第四は「油塗られる」、第五は「御霊の保証」、第六は「交わり」である。

「キリストのうちに」あることは、深遠な特権である。初期の段階の救いは壮大である。救いは、人類の益のためにこの世界に臨んだ最大の祝福である。人々がクリスチャンになるその時は、永遠に祝うべき時である。あまりにも幼いときに回心したため、その時を覚えていない人でも、復活の時に思い出すだろう。われわれにはみなそれぞれ、永遠に祝うべき日と時がある。

「キリストのうちに」あることには、通常考えられている以上に、遥かに多くの意義がある。キリストのうちにあることは、出入りする権利を持つ家の中にいることや、気ままに駆け込んだり駆け出たりできる洞窟の中にいることを意味しない。「キリストのうちに」あることは、手の指のような経験をすることである。ぶどうの木の枝のような絶対的合一であり、キリストに絶対的につながれることである。「キリスト教とは、着たり脱いだりできるものであり、居心地が良いときに着る緩い衣服のようなものである」と思っている、とても多くの人々がいる。しかし、後退して最終的に失われてしまうおそれが人々にある一方で、キリストのうちにあることには、平均的な思索家が考える以上に、遥かに多くの意義がある。そこで私は、今晩、次の事実を強調したい。キリストのうちに入ることは、われわれの神の家の中に「植えられる」ことであり、「私たちの主の家に植えられた者たちは、私たちの神の庭で栄える」のである。

しかし、「植えられる」ことと「差し込まれる」こととの間には大きな違いがある。大部分の人は差し込まれているだけのように思われる。根付いている人は極めて少ない。人々が神ご自身の御手によって植えられて、主の家の庭で実際に栄えるようになるのは、まれである。

われわれは聖書にますます立ち返りつつあるし、人々が聖書に立ち返るよう祈っている。われわれは聖書からさまよい去って何かをすることを決してしなかった。自分たちの「信条」や、「教理問答書」や、人が造った「信仰宣言」や「教義条項」からは、何も得なかった。聖書からさまよい去って、頭脳が造り出した何かに移ることによって得たものは何もない。祖父たちの聖書に立ち返り、偉大な祖母たちの宗教を得て、彼らが「主の家の庭に植えられて」いた頃の昔ながらの聖書的経験をしない限り、われわれは決して「栄える」ことはない。

どうか神が、これらの集会の間に、再生の良い明確な事例をわれわれに与えて下さいますように。再生を特に強調する何らかの運動に加わりたいと、私は時々感じてきた。われわれは聖さを宣べ伝えてきたし、われわれの中には聖さを実践してきたものもいる。また、われわれは何年も何年も聖さについて証ししてきた。しかし、悲しむべきことに、聖書的再生の教義がなおざりにされてきたのである。そして、この途方もない再生、新生と義認の恵みの偉大さを知らない人が、数千人もいるのである。

神は私たちのなかの数人を導いて、次のことを見せて下さった。この末の時代に、真の聖さを広めることに成功する唯一の希望は、この真理の初期の段階を強調することである。人々は良い始まりをしなければならない。イエス・キリストの中に根ざし、土台づけられ、据えられなければならない。兄弟よ、もしあなたが再生されているなら、あなたはあなたを天のエンジンに吊り上げて、永遠に結びつけてくれるものを持っているのである。そしてついには、かりに後退しようものなら、自分は何かを失ったことを知って、それを惜しむようになるのである。とても多くの人々は、「後退」しても、何も惜しいとは決して感じなかったのである。

この御言葉の次の要点は「確立される」である。「確立する」という言葉は、聖めることと同じ意味である。つまり、人の心の中から、動きかねないもの、揺らぎかねないもの、不確かなもの、ぐらついているものを、すべて根絶・抽出して、今生における地獄の大砲の衝撃と、来世における恐るべき審判の検査とに耐えうるものだけを残すことである。われわれは、われわれを安定させてくれるもの――われわれを確立してくれるもの――われわれを直してくれるものを欲している。それをこの御言葉は示しており、主はそれをわれわれに与えて下さるであろう。まったく聖められる時、こうしたどたばたや、よろめきや、震えはまったくなくなり、もたれることや支えを求めることもなくなって、われわれに立ち向かう地と地獄の全軍勢に抵抗しうる心構えが生じる。この恐るべき時代、この不確かな時代、この風当たりの強い時代にあって、これがわれわれには必要である。今日、悪人どもはますます悪くなりつつあり、強烈な積極的人格の持ち主たちは、誤謬に満たされて、まさにわれわれの行路に自分たちを植え付けている。われわれには、悪魔が支配できない何かが必要である。

海に浮かぶ巨船といえども、暴風雨の海では、ふらつき、傾き、震え、揺れ動く。しかし、向こうの方に氷山が見える。この氷山は、押し寄せる大波にあらがって、動くことも揺れることもないのが見える。なぜか?氷山の九分の八は水面下にあるからである。氷山の水面からの高さが百フィートだとすると、その水面下の深さは八百フィートであり、氷山の大部分は、静止した、乱流のない、落ち着いた、静かな海水の中にある。そこでは嵐に掻き回されることはなく、水面の波の影響を受けることもまったくない。もし神の民が、九分の八の地上部分を持つ代わりに、九分の八の根を持てていれば、彼らを揺り動かすには地獄の嵐が幾つも必要だっただろう。

海を行く最上の小型砲艦は、ほとんど水面下にある。水面下にまったく沈んでいる状態に最も近い船が、最も効率的である。われわれが望むのは、悪魔がその力をわれわれに対して完全に揮うことができる水面上に上がることではなく、水面下に潜ることである。水面下では、弾薬を装填して撃つことができるし、また、安全で、安定しており、しっかりしていて、固定されているので、波はただわれわれの上ではじけるだけで、まったく無力なまま海に戻って行くのである。

神はわれわれを落ち着かせることができる。今日、神のための奉仕だと思うことのために大いに働き過ぎるあまり、「落ち着く」時間がないように思われるとても多くの人々がいる。彼らには、根を下ろして、目に見えない地面の下に自分を埋める時間がないようである。かつて生きていた極めて偉大な聖徒たちは、落ち着くための時間を常に取っていた。私はある聖徒を思い出す。この聖徒は、いつも一日に二時間祈り、他にたいへんな仕事がある日は、二時間ではなく四時間祈ったのである。しかし今日では、その日に他にたいへんな仕事があると、われわれは祈ることを時々まったく忘れてしまう。われわれはあまりにも活発で忙しく、なすべきことをたくさん抱え込み、てんやわんやなため、ひざまづいて何かが起きるのを待つ時間がほとんどない。しかし、立ち止まってひざまづき、何かが起きるまで待つ方が、われわれにとって益であろう。

私は時々、聖めの集会に行き、最初から最後まで耳を傾けて、何かが起きるかどうかを見るために見回すのだが、何も起きないことがよくある。そのようなものはまやかしである。実際には、まったく聖められた人を二十人集めるなら、必ず何かが起きる。われわれが今日必要としているのは、たんなる告白や「出来事」(多くの「出来事」がある)ではない。われわれを落ち着かせてくれる、ある経験が必要なのである。そのとき、何かが必ず起きる。ボタンを押して動力を起動させるなら、必然的に結果が生じるのである。

この御言葉で次に気づいた点は、神はわれわれに証印を押して下さるということである。この「証印を押す」という言葉は、「認証すること」「承認すること」「証明すること」を意味する。例えば、政府は印鑑を持っていて、基準に適っている分銅や量りに証印を押す。政府はその大量の資産に印鑑やスタンプを押して、それが政府の資産であるとわかるようにする。どこでも「U.S.」という印を見るなら、その頭文字のついている物がアメリカ政府(Uncle Sam)のものであることがわかる。われわれは証印を押してもらわなければならない、と御言葉は述べている。われわれは天の政府のスタンプを押してもらわなければならない。神は、われわれが誰のものなのかを三つの世界に知らしめるために、われわれに証印を押すことを意図しておられる。

さて、自分が誰のものなのか、あなた自身にも分かっていないなら、どうして神はその証印をあなたに押すことができよう?本物でないものを、どうして神は認証したり、承認したりできよう?われわれが、自分は絶対的かつ特別に全く神の所有であることを知るようになる方法で、自分を神にささげない限り、どうして神はわれわれに証印を押せよう?神は決して証印を押せないのである。自分が絶対的に神のものであることがわかる地点に達しない限り、あなたは政府の印がないままうろついて、イエスの来臨を迎えることになるだろう。

また、神は試されたことのない人々に決して証印を押されない。建造した橋を公開する前にその橋を検査するように、すべての人が試されなければならない。神は証印を押す前に、ご自分の聖徒たちを試される。自分の資質が十分であることがわかるとき初めて、神は自分に証印を押して下さる、とあなたは思わないだろうか?これがその意味である。神のスタンプは、われわれの資質が健全で堅固であることを意味するのである。また、われわれを解いて人前に出しても大丈夫なこと、そして、われわれの告白の正しさは証明済みであることを意味するのである。

最も厳しい試験は、われわれが聖別された後にやって来る。私がかつて経験した最大の試みは、私がすべてを神にささげた後にやって来た。時として、われわれがすべてを明け渡すやいなや、試みがやって来る。試みがやって来るのは、われわれが大丈夫かどうかを証明するためである。大丈夫なことが絶対的に証明されるやいなや、「あなたは大丈夫です。あなたにスタンプを押しましょう」と神は仰せられる。どうか神が、証印を受ける用意の整った人を今晩起こして下さいますように。神はここに押印機を持っておられ、この祭壇で幾ばくかの人々の上にスタンプを押してこられた。スタンプを押してもらう用意を整えるのに困難を覚えている人々もいることに私は気づいている。誰にスタンプを押すのか、神はとても慎重である。他の人々と同じくらい告白しているのに、その立ち居振る舞い全般がそれに似つかわしくない人もいるのを、私は時々目にする。「本当にスタンプを押されている」と思わせるようなものが見あたらないのである。結局のところ、一つの違いがあるのである。「聖潔派の人々」と、それから聖なる人々がいる。しかし、悲しいことに、人々は「聖潔派の民」に属しているかもしれないが、必ずしも聖なる民とは限らないのである。神のスタンプを押してもらえる純粋な民が必要である。そして、彼らがそのスタンプを受ける時、そのスタンプは何らかの方法で目に見えるようになる。それは人の証しの中に現れ、日常生活の中に現れる。真に聖められて神のスタンプを受けた人は、ある種の雰囲気を帯びている。すべての罪人がその雰囲気を感じる。神はわれわれに与えるべき火を持っておられる。この火は人々に罪を認めさせる。そして、この火はわれわれの証しや、歌や、生活の中に感知されるようになる。試され、証明され、スタンプを押されない限り、人々は神のために何も行えるようにならない。スタンプを押されない限り、あなたは恵みの王国ではあまり通用しないだろう。

神はとても注意深く、あなたが大丈夫にならない限り、あなたにスタンプを押されない。教会はあなたにスタンプを押し、牧師たちはあなたにスタンプを押すだろう。神がまったくあなたにスタンプを押しておられなくても、彼らはあなたにバッジを付けまくり、クリスチャン・エンデバーやエプワース同盟の記章を付け、白いリボンや、W.C.T.U.の衣服一式や、そのような類のものを付けるだろう。人のスタンプと神のスタンプとの間には、一つの大きな違いがある。説教者たちは、特にあなたが小金を持っている場合、喜んであなたを教会に迎える。しかし、神がスタンプを押されるのは、二十四金の純金であることがわかった民だけである。神がある人にスタンプを押される時、悪魔にはそれがわかるし、地獄もそれを見つけ出す。きわめて多くの人々はあまり宗教的ではないので、悪魔の興味を引かない。悪魔があまり注意を払わない人々が大勢いる。しかし、人が聖霊で満たされてこのスタンプを受ける時、悪魔は蹄や角笛を鳴らして追いかけ回すのである。

どうか神が、状況を掻き立てるのに足る宗教を、われわれに与えて下さいますように。私は人々を眠らせるよりは、むしろ怒らせたい。「このまま人々は地獄に行く」と思うと恐ろしい。時々、私はこの問題を自分にあてはめて、自問する。「セス・リースよ。お前は地獄の存在を信じているか?人々がそこに向かいつつあるのを信じているか?信じているように宣べ伝え、行動しているか?」。日に日に接触している人々が地獄に行くことになるとは、われわれの大部分は半分も信じていない。私は永遠の境界線上に立っている人々に、私の宣べ伝えを聞くのが最後でもはや誰の宣べ伝えも聞くことがない人々に、しばしば宣べ伝える。

たった一週間前の日曜日の朝のこと、私はペンシルバニア州の一人の聞き手に宣べ伝えた。その人は、自分を神にささげる機会を次々と与えられたのに、そうしようとしない人で、私のすぐ前に座っていた。私が宣べ伝えている間、どういうわけか、彼は立ち上がって歩いてドアから出て行った。その奉仕が終わった時、その教会の牧師は、その人は夜になる前に亡くなるだろうという、深い印象を受けていた。牧師は私に言った、「夜になる前にこの人は死ぬと、私ははっきりと感じています。ですから、二時十五分の授業に戻って、『ジオ・ピアースが亡くなった』と聞いたとしても、私は驚かないでしょう」。そして、牧師が戻って行ったところ、まさにその通りのことを聞いたのである。この人はあの家を歩いて出て行って、永遠の夜の中に入って行った。私はこう自問した、「宣べ伝えを聞くのが最後になる人に自分が宣べ伝えたことを、お前は自覚しているか?あの説教の中に、この人を救うのに十分な福音があったか?」。

「滅びつつある魂が、救いに十分な真理をそれから得られないような説教を、一つも宣べ伝えてはならない」と、近頃、私はますます感じるようになっている。あなたが証ししていたとき、ある人にとっては、それがその人の聞く最後の証しだったかもしれない。その人は、悔い改めと信仰によってこの救いをそれから得られるものを、あなたの話から聞けただろうか?日曜日の朝、教会で、あなたが歌うのをその人が聞くとする。救われる方法を教えてくれるものを、その人はその歌から十分に聞けるだろうか?私たちの諸教会の中には、独奏者が何を歌っているのかすら、その人には分からないところもあるのではないかと、私は恐れる。どうか神が、説教者、歌い手、働き人であるわれわれを助けて下さいますように!多くの魂にとって、地獄は二百ヤード以上離れたものではない。多くの時、われわれはその硫黄の臭いをかぐことができる。

私はあなたに言う。聖い人々は目を覚ますべき時である。永遠の地獄が存在していて、人々は大群を成してそこに向かっている。この事実に関して、われわれはしかるべく目を覚ましていないし、奮起してもいないという印象を、御霊は私に与えて下さった。人々が地獄に向かいつつあるがゆえに、あなたが寝ずに夜を過ごしたのは、どれくらい前のことだろうか?教えてほしい。人々が永遠の刑罰を受けようとしている事実をあなたが泣き悲しんだのは、どれくらい前のことだろうか?あなたは「聖められた」と言う。たいへんよろしい。しかし、もしわれわれが魂の救いのために全身奮い立つほどの救いを受けていないなら、どうか天の神がわれわれを助けて下さいますように。

この御言葉で次に気づいた点は、われわれは「油塗られる」ということである。旧約の時代の祭司や王や預言者は、油で油塗られた。油は神が選ばれた聖霊の象徴である。祭司や預言者が油による油塗りで職務に就いたように、神の意図は、ご自分のすべての子供が聖霊の油で油塗られることであり、この油塗りを受けない限り、誰も預言者、祭司、王の働きに入ってはならないことである(完全に聖められた後、われわれはこの三つの者になる)。近頃の一つの過ちは、人々が働く手段もないのに働こうとすることである。銃なしで戦争をしようとしているのである。油塗られるまでエルサレムの上の部屋で待つことなく、主の働きを始めようとしているのである。油塗られた者たちは成功を収め、神が彼らに願っておられることを成し遂げる。これはイエス・キリストによる聖霊と火の油塗りであるだけでなく、聖書による油塗りでもあることに、私は気づいている。神はご自分の真理を溶かして、その液でわれわれを油塗られるのである。

ある明白なとても重要な理由で、この油塗りは繰り返されなければならない。悔い改めのためではないし、バプテスマのためでもない。われわれの霊的経験全体を通して、御霊の油が何度も何度も必要なのである。人々が抱えている問題は、油に欠けていることである。機械を摩擦無しに、余分な摩耗や割れ目を生じさせずに、滑らかに動かすには、油が必要である。神の民は、滑らかに動き続けるために、頻繁に油で油塗ってもらわなければならない。多くの人々は、さびついて怒りっぽくなる。わめき散らすようになる。もし彼らが自戒しないなら、「ガミガミ屋」のできあがりである。

ああ、神が今晩、われわれを新たに油塗って下さいますように。われわれの目を油塗って、美しい王を見れるようにして下さいますように。われわれの耳を油塗って、全能の神の御言葉を聞けるようにして下さいますように。われわれの指を油塗って、神の働きを行う方法を教えて下さいますように。われわれの足を油塗って、神の任務の道を疾走できるようにして下さいますように。われわれは急ぐ必要がある。人々を救うために、神は急いでおられるからである。遅れないでついていくことを望むなら、われわれは機敏でなければならないし、油を塗ってもらって、円滑に走らなければならない。神はわれわれに油を与えて下さる。

兄弟よ、あなたは乾きかけているのではないかと、私は恐れている。機械を乾いたまま動かすのは無駄である。計画より遅れているように思われたとしても、あなたは機械を止めて油をさす羽目になるだろう。この油は何とやすやすと人々を走らせることか。剣を持ってきて人の頭を切り離しても、そうしている間、その人を微笑ませておくことができる。生きたまま皮をはいでも、その人は心地よく感じる。多くの人は、人々を怒らせずに真理を宣べ伝えることができない。そして、この事実のゆえに誇っている。しかし、真の油を得るなら、人をバラバラにしても、癒しの油を適用すれば、その人を完全に癒せるのである。

この油を持っていれば、われわれは不機嫌ではなかっただろうし、喜ぶのも難しくなかっただろう。このような気性は、いずれにせよ、聖さを正しく表すものではない。われわれのために苦しみを受けて死んで下さった神のキリストを不正確に伝えることから、神はわれわれを救って下さる。十分に油塗られて、まったくやすやすと、摩擦や心配なく、走れるようになる経験を、神がわれわれに与えて下さいますように。働きのせいで死ぬ人よりも、心配のせいで死ぬ人の方が多いのである。

愛する人よ、ひざまづいてただ神だけを見るなら、あなたはこの経験を得るだろう。これを試してみよ。しばらくの間、あなた抜きで状況にまかせよ。あなたが死んでいるのとまさに同じように、状況は進み続けるだろう。油が自分の全存在を流れるのを感じるようになるまで、じっと求め続けよ。

よく油塗られている人々には、爽やかな雰囲気がある。ひざまづいて多くの時間を費やす人の説教を聞くことを、私はどれほど愛していることか。私は良い説教が好きである。私は優れた聞き手である。祈りの部屋から出て来たばかりの人、自分の聴衆に注ぎ出すものを携えて個人的な黙想から公の務めに駆け参じる人が説教するのを聞くのは、何と魂を新鮮にしてくれることか。このような説教に人々は決して飽きないのはなぜか?一時間二十分説教しても、人々は「ああ、もっと、もっと、ここでやめないでくれ!」と叫ぶのである。本物の説教には、魂を鼓舞して活気づける何かがある。そのため、その説教に飽きないのである。ある人が同じことを何度も何度も説教しても、あなたはそれを聞くたびに、「神をほめよ、この説教は前よりもよい」と言うのである。まるで七面鳥のようである。あたためればあたためるほど、おいしくなるのである。

しかし、この御言葉の他の点に、私はあなたの注意を引かなければならない。この御言葉は、われわれは「彼と共に確立される」と述べている。これは人と神との交わりを意味する。嬉しいことに、主はわれわれを離ればなれにはされなかった。「丘の上に一人ぼっち」にはされなかった。嬉しいことに、主は、われわれが互いに助け合って「共に確立」されるよう、われわれを結び合わせて下さった。われわれは「引き離されて一人きりになる」べきであるという誤った考えを持っている人が大勢いる。彼らはじかに会わない限り、人々と交わりを持とうとしない。じかに会わない限り人々と交わることはできないのだとしたら、私はきっと「丘の上に一人ぼっち」だっただろう!あなたは多くの点で私と違っているかもしれない。しかし、あなたが聖霊で満たされており、私も聖霊に満たされているなら、われわれは「共に確立される」のであり、そうしたささやかな違いは目に入らなくなり、水滴が一つになるように、われわれは共に流れるようになるのである。

あなたたちの中には、この数日で初めて会った人もいる。しかしそれでも、かなり前からあなたたちを知っていたかのように私は感じているし、あなたたちを永遠に愛し続けるだろう。あなたたちに二度と会うことはないかもしれないし、おそらく二度と会わないだろうが、われわれは「共に確立される」のである。私はこの点を印象づけたい。クリスチャンはお互いになくてはならない存在なのである。これは互いに依存し合うという意味ではない。われわれは敬虔と成長のために互いを必要とするという意味である。これはとても重要である。私にはあなたたちの祈り、同情、助けが必要であり、あなたたちには私が必要である。われわれにはすべての聖徒の祈りと助けが必要である。「何も必要ではない」地点に達してはならない。われわれは「共に確立される」べきだからである。

この交わりは、一つの麗しい舞台を造り出す。高教会派の聖公会、青靴下の長老教会、「つば広帽」のクエーカー、改革派のルター教会の人々を集めて一緒にするなら、一枚の麗しいモザイク画が出来上がる。これが、私が合同礼拝を好む理由である。私は「互いに区別できなくなる」ほど人々を混ぜ合わせたい。

この祝福を得る時、われわれは神と――生者であれ死者であれ――血で洗われた群衆とのいっそう深い霊的な交わりの中に入る。われわれはアブラハムの一族である。新エルサレムの街路で彼に会う時、紹介無しでも彼がわかると私は信じる。また、直感的に預言者がわかるし、本で読んだ人のこともわかると信じる。彼らはわれわれの同族である。彼らはこの世にとっては「無益な」者たちだった。「この世は彼らにふさわしくなかった」からである。それで彼らは天の胸壁を飛び越えて、輝く道を駆け上ったのである。われわれは彼らの後を追いかけており、いつか再び彼らと会うのである。

私はこの聖なる一団に属している。おかしな人も少しはいるが、その中に変人が少しばかりいるからといって、自分の民に背を向けたりしない。彼らは私の民である――彼らは血で洗われた者たちである。彼らの中には僅かな脳みそしかない者もいるが、それでも、血の下にとどまり続けるのに十分な分別がある。そして私にも、彼らと共にとどまるのに十分な分別がある。

「植えられ」、「確立され」、「証印を押され」、「油塗られ」、そして、相互の交わりの中にある人が、われわれの中にどれくらいいるだろうか?もしこの五つのものを持つなら、他のものをも持つ。それは「御霊の保証」である。「保証」とは何か?これは昔の慣わしから取った表現で、売り手が買い手に売った物の見本を渡すことである。例えば、不動産が売られたとする。このとき、その資産の売り手は、たらい一杯の土を買い手に与えたのである。

このたらいの土は、その農場全体が買い手のものである証しだった。「御霊の保証」を得て聖霊でバプテスマされる時、われわれは来たるべきものをたらい一杯分だけ得る。たらい一杯分で大喜びするなら、すべてを得たらどうなるのか?「保証」でじっとしていられないなら、来たるべき王国の喜びと栄光がまったく眼前に広がる時、どうすればいいのか?

土の保証は、全農場を続けて与えるという誓約だった。「御霊の保証」により、神の所有を続けてすべて与えることを、神は約束しておられる。将来、「捨てる」ものはきっとないにちがいない。われわれを待ち受けているものはどれも、今の衣裳とは別のものであることを、われわれは知っている。地上で御霊に満たされることは、来たるべきものの保証にすぎないものの、神ご自身からの保証で満たされることである。われわれは神が蓄えておられるものをことごとく得ること、そして、われわれがそれを得るのをご覧にならない限り神は決して立ち止まらないことを、神は保証して下さっている。神に栄光あれ!

御霊の保証は私を生かさなければならない。それは私が満ち満ちた復活の命を持つ証拠だからである。「御霊の保証」は、私が満ち満ちた喜びと永遠の慰めを得るしるしとして、いま私を慰めなければならない。御霊の保証は私の心を照らさなければならない。それは、永遠の日が明けて太陽が決して沈まない時代が始まる約束だからである。

最後に、私はあなたたちに証ししたい。私は御霊の保証を受けており、持てるものをことごとく受けつつある。主は時々私を祝福して瀕死の状態にされる。私にわかるのはただ、主はいつかそのような方法で私を天に連れて行かれるということだけである。いずれにせよ、この道を行くことを私は願っている。時として神は、器を砕いて飛び散らせるほどに人々を祝福される。

祝福されるのを恐れている人々もいる。おそれてはならない。あなたが傷つくことはない。いま心を開いて、主を招き入れよ。今、主に祝福してもらえ。御名に栄光あれ!われわれの中のどれくらいの人が、回心した後、聖霊のバプテスマを受けただろうか?

オハイオ州シンシナティでの説教、一八九八年十二月二日