第七章 満ちあふれる恵み

セス・C・リース

「罪が満ち溢れたところには、恵みもますます満ち溢れた。」(ローマ五・二〇)

この御言葉が示す主要な真理を、ある自然法則がみごとに描写している。その自然法則は、贖いの栄光の一種の象徴である。少年の時、私はしばしば森を横切ったのだが、その時、私は生木に深い傷をつけて先に進んだ。数年後、その道に戻って来た時、その傷がみな治っているのを私は見い出した。古い繊維ではなく、もっと丈夫な物質を結び合わせることによって治ったのである。新しい繊維が織り交ざって絡み合い、ある種の複合体になっているのを私は見い出した。その複合体をほどくことはまったくできなかった。木の傷んだ部分は、その他の部分よりも、丈夫で頑丈なものになっていたのである。

「折れた骨が治ると、元の骨よりも強くなる」と私は教わった。まるで、二度目の襲撃に対して自然が守りを固めているかのようである。この同じ真理は、真珠の形成にも見られる。一粒の小さな砂粒が真珠貝の敏感な所に作用する。この小さな被造物が本能的に行うのは、復讐することではない。なぜなら、復讐によって、傷は大きくなるからである。真珠貝は、浸潤性の透明な液体を分泌する。その結果、その傷から美と勝利が生じて、この小さな被造物の価値は、まさにそれを殺しかけたもののおかげで、百倍にも増し加わるのである。

聖霊は、アダムとキリスト、罪と救い、堕落と贖いの対比を見事に総括された時、救いの計画に関して、このような思想を抱いておられたのである。なぜなら、地獄がこの世に仕掛けた恐るべき攻撃から、代々にわたる勝利となる偉業が生じることを、聖霊はわれわれに教えておられるからである。人を永遠に滅ぼそうとしたこの恐るべき破局から、神は旧創造よりも遥かに偉大で輝かしい新創造を生み出された。そして、罪の深海から、極めて高価な真珠を生み出された。この真珠とは教会のことであり、教会は代々にわたって御子のかたちを反射する天的輝きをもって輝くのである。

「罪が満ち溢れたところには、恵みもますます満ち溢れた」。この御言葉が真理であることは、かつてこの地上を歩んだ最も唾棄すべき滅びの罪人たちが救われて、その後有用になった事例からわかる。神は、最大の偉業を達成するために、最悪の材料を選ばれるように思われる。神は、不法の汚水槽の中を泳ぐ極めて酷い悪党どもの中からある人々を救ってこられた。救っただけでなく、彼らを居酒屋や売春宿や舞踏場から立ち返らせて、天から使わされた聖霊と共に福音を宣べ伝えさせたのである。

神は、半世紀にわたって流血の罪を犯したマナセを救われた。神は、新約の教会を設立するために十二人の人を望まれた時、サンヘドリンやエルサレムやローマに行く代わりに、漁師たちがいるガリラヤの浜辺に下って行かれた。そして、大きなたくましい手をした、しつけも教育も受けていない人々を選び、救い、聖めて、基の石とし、その上に新約の教会を建造された。あなたや私なら、ローマに行っていただろう。ローマが世界を支配していたからである。あるいは、おそらく、エルサレムに行っていただろう。エルサレムはその栄光と光輝の絶頂にあったからである。今日の聖職者なら、サンヘドリンに行っていただろう。しかし、神の御子はガリラヤの浜辺に行かれたのである。その理由を説明することは私にはできない。しかし、とにかく、この御言葉の真理をこう描写できるだろう。すなわち、罪が大暴れしたところに、罪に歯止めがきかなくなったところに、「罪が満ち溢れたところに、恵みもますます満ち溢れた」のである。心がどれほどかたくなでも、どれほど罪が重くても、頑迷な期間がどれほど長くても関係ない。神には人の心を砕く福音、押し寄せる不法の潮流を跳ね返す福音、あなたの記録を抹消する福音、あなたを罪の力とその咎とから救い、あなたを神の栄光の燃えて輝く光とする福音がある。神は邪悪なバニヤン、罪深いニュートン、酔っぱらいで飲んだくれのジェリー・マッコーリーを救われた。然り、栄誉の記念碑に名を記されていない多くの女性を、神はたなごころに記された。この女性たちは今日、神のために輝く光として、この御言葉の生ける実例として、スラムの中から立ち上がったのである。神に栄光あれ!生活がどれほどすさんでいて貧しくても関係ない。故国の状況は関係ない。われわれには彼らを贖う福音、彼らを回復する福音、彼らを立ち直らせる福音がある。

ある家庭に立ち入った時、青ざめて痩せ細った夫人が玄関で私を出迎えた。床に絨毯はなく、暖炉に火は灯っていなかった。食卓にパンはなく、家に家具は一つもなかった。窓には古びた帽子がかけてあり、子供たちは父親の足音におびえていた。すべてが絶望的状況だった。しかし、私が中に入った時、福音も中に入り、認罪が臨んだ。昔ながらの回心がそれに続いた。父親が救われた時、子供たちも救われて、落胆していた妻は勇気を取り戻した。これにより様子は一変したのである。少したってからその家に戻ってみると、床には絨毯が敷いてあり、暖炉には火が灯っていた。食卓にはパンがあり、夫人の頬は血色が良くなっていた。古びた帽子は窓からなくなっていた。古びて壊れていた椅子やスツールもなくなっていて、新しい家具が置かれていた。われわれはその家の中でひざまづいて、神に感謝したのである!ああ、このようなことをしてくれるものは他に何もない!嘆願書に署名してもだめである。建物を改築してもだめである。白いリボンをしたあなたたちでもだめである。聖霊の大能の力が必要である。この御言葉が完全に効力を発揮することが必要である。その時、罪が満ち溢れたこの家庭に、神の恵みがまさに「溢れ流れた」のである。

われわれには、こうしてくれる福音がある。それにもかかわらず、人々はわれわれをこの福音から逸らそうとしているのである!このような働きをしてくれる福音があるというのに、われわれがそれから逸れて科学や哲学を宣べ伝えると、あなたは思っているのか?科学や哲学ではないことを私はあなたに告げたい。こうしてくれるものは完全な福音以外にない。このような家庭を修復してくれるものは、聖潔、第二の祝福以外にない。というのは、この人の心の中に第二の恵みの御業がなされない限り、この家庭は悪魔の策略から決して救われえなかったからである。ああ、あなたたちは聖潔以外のことをわれわれに宣べ伝えて欲しがっている!われわれのものよりも有益なものをあなたたちが提出するまで、われわれは待つことにしよう!

この福音に関して、ささやかな批判があるかもしれない。しかし、われわれはその批判を甘受して、喜んでこのような真理と一つになろう。この真理は人の家庭の中に、人の心の中に、人の人生の中に入り込んで、人を立ち直らせ、悪魔ではなく天使にする。これがわれわれの福音の効力であり、聖潔の効力である。

私の兄弟よ、あなたがどれほど深く罪の中に落ち込んでいても、神はあなたを救うことができる。時として神は、御力を現すために、ご自分のなし得ることを三つの世界に示すために、丈夫な棒を握ることを好まれる。落胆すべき理由は何もない。もしあなたが酔っぱらいの夫の妻なら、「あなたには希望がある」と私は言いたい。天を見上げることができるのである。あなたがボタンを押しさえすれば、信号が電線で上空まで伝わるのである。そして、祝福があなたの家庭の中に入り込み、家庭を罪から救ってくれるのである。

愛する人よ、あなたの愛する人たちがまだ救われていなくても、彼らのことで落胆してはならない。われわれには、最も高い人々だけでなく最も低い人々にも届く福音がある。この福音は、「主人はキリストただひとりであり、われわれはみな兄弟である」とわれわれに感じさせてくれる。愛する人よ、あなたはご存じだろうか?困難な事例でも効力を発揮する福音の力を信じる信仰を、われわれはさらに多く持ってしかるべきであり、われわれクリスチャンはこの点で自分を恥じるべきなのである。今のように人々を諦めてはならない。人々が後退しても、その人々に絶望してはならない。彼らのために神にすがるべきである。神の恵みが勝利して、完全な喜びの地点に彼らが連れ戻されるまで、われわれは火の中を通って彼らを引き寄せるべきである。神がわれわれを助けて下さいますように!われわれはあまりにも臆病で、あまりにも不信仰である。あまりにも低迷しているのである。

この福音は、もともと良いものをさらに良くするというよりは、むしろ、当人も認める酷い悪党どもを救って聖める。この福音は利己的な魂を回心させて、自己を犠牲にして否定する者たちの一団とする。ある偉大なブルックリンの説教者が、「『良い血が流れていない連中』を助けるのは、もううんざりだ」とかつて言ったのを私は知っている。しかし、われわれの福音は何と異なっていることか!主は行き巡って、他の人々が手を切った連中を拾い上げて下さるように思われる。すべての人が私に背を向けて、私の友人たちですら私のことで落胆していた時に、主は私を迎え入れて下さった。その時、主は私を迎え入れて下さったのである。神に栄光あれ!これも、この御言葉の正しさを示す実例である。神の恵みは最悪の罪人をも救うことができる。もちろん、神に関する限り、罪人は罪人である。神の評価によると、五番通りにいる人は、「米国」というスラムにいる人と同じくらい悪い。しかし神は、世が言うところの「上流階級」の罪人たちをも、十分に救えるのである。

ニューヨークのある著名な弁護士とその妻が、ある下町の宣教団の集会に参加するよう招かれた。この二人が、教会の会員として、下層階級の絶望的な人々の間で神がなさっていることを、自分の目で見るためであった。メッセージの終わり頃、集会の指導者が、救われたい人は全員立ち上がるようにと招いた。こちらでは「よれよれの人」が立ち上がり、あちらでは売春婦が自分の足で立ち上がった。また、常習的な窃盗犯がさほど遠くないところで立ち上がった。その間、講壇の上の指導者の後で、この弁護士とその妻が立っていた。説教者は、招待客が自分の言葉を勘違いしたのではないかと思い、「救われることを望む人だけ、立ち上がってもらいたいのですが」と言った。しかし、その弁護士と妻は立ち続けたのである。

祭壇の奉仕を進めるしかなかった。「救われることを望む罪人はみな、祭壇に来なさい!」。浮浪者がやって来た。売春婦も盗人も、みなやって来た。そして、皆が驚いたことに、この二人の裕福な招待客も進み出たのである。宣教の働きでは通常、害虫を避けるために、立派な人々は講壇の上にいることになっている。それで、招待客たちが祭壇で求道者たちに加わり始めた時、指導者はまるで制止するかのように手を差し伸ばして、「これは罪人だけのものです!」と言った。「しかし、私たちも罪人であり、救いが欲しいのです!」が返答だった。幸いなことに彼らは二人とも回心し、それ以来、神は数千の人を更正させて救うために彼らを用いられた。「罪が満ち溢れたところには、恵みもますます満ち溢れた」のである。

ある時、宣教のために集会を開いたのを私は思い出す。そこにはとても多くの見物客がいた――その人々は自分のことはまったくお構いなしで、社会のくずどもが救われるのを見ることに興味があった。

私が招きをしたところ、どうしようもない下層階級の人々が前に進み出た。しかし、彼らと一緒に、先の大統領の妹も前に進み出たのである。「この絶望的な人々と一緒に救いを求めることを、彼女に許可するべきだろうか?」と私は自問した。御霊は「もちろん!」と囁かれた。そして、このおしゃれな女性はひざまづいて、自分よりも社会的身分がずっと低い人々と共に救いを見い出したのである。ああ、神はあらゆる階級の人々を救うことができる。「罪が満ち溢れたところには、恵みもますます満ち溢れた」というこの御言葉には、数百の実例があるのである。

次に、愛する人よ、この御言葉の正しさは、極めて汚らわしい習性、嗜好、性癖から魂が聖められることからも示される。この聖めにより、罪の巣窟だった心が、今や神に対して聖別されるのである。心の中にあった怒りが、ある日爆発して、とんでもないことを言ってしまったとする。「何としても、あの言葉を撤回したい」とあなたは願う。そのことであなたは苦い涙を流すが、その言葉を言った相手は墓の中で沈黙しており、撤回しようがない。ああ、軽はずみな言葉のせいで、社会的に地位の高い家庭で苦い涙が流されている。上流階級の家庭で、応接室で、心中の怒りのせいで、不親切な言葉や表情が発せられているのである。

イライラした言葉を発したとする――ああ、母親よ、あなたは「何としても、あの言葉を撤回したい」と願うようになるかもしれない。猩紅熱があなたの家庭を襲って、あなたの子供を奪い去るほんの三週間前に、あなたは我慢できなくなって、酷い言動をしてしまったとする。あなたは「何としても撤回したい」と願うのだが、その子は死んでしまった。撤回する機会はもうない。あなたは短気だった。そのことをあなたは覚えている。

ああ、今日の高ぶりの酷さときたら!高ぶりのせいで、どれほど人々が苦しんでいることか!高ぶりのせいで、最終的にとても恥ずかしい結果に終わることや、とても災難な結果に終わることを、どれほど人々がしていることか!高ぶりのせいで、多くの家庭が崩壊する。高ぶりのせいで、多くの人が経済的に破綻する。高ぶりのせいで、あなたは収入が不足しているのに、自分の隣人たちと同じレベルの生活をしようとする。多くの男が川に飛び込んだのは、収入が不足しているのに、その家族が他の誰かと同じ水準の生活をすることに固執したからである。今日、収入以上にいい服を着て、いい生活をしようと人々が心に決めているのは、高ぶりのせいである。

この不敬虔な見せびらかしや、この孔雀のような虚栄心から、神がわれわれを救って下さいますように!このような見せびらかしや虚栄心のせいで、われわれは一着の衣服を着て、そのための費用を分割払いで支払っているのである。女性たちは、復活節の直後だというのに、死んだ鳥やボロボロの花を身に付けて練り歩いている。しかも、その支払いはまだ済んでいないのである!婦人帽子職人はこの女性の未払い代金のことで、何という話を聞かせてくれることか!高ぶりのせいで、人々は思い上がり、負債の支払いが済んでいないのに練り歩いているのである。

収入以上の生活をしないように、われわれは何らかの懲らしめを受けている。もしわれわれが宗教を選ばないなら、主はわれわれを厳しく懲らしめて、普通の慎ましい生活に立ち返らせるであろう。それは、われわれが、人々にしてもらいたいことを、人々にするようになるためである。

しかし、怒り、悪意、争い、短気、高慢の巣窟であるような心も、まったく聖めてもらえるし、天のように清くしてもらえる。罪が満ち溢れたところには、恵みもますます満ち溢れることができる。第二の祝福、ペンテコステ、聖霊のバプテスマがこうしてくれるのである。神の火が高慢な肉を焼き尽くし、嫉妬や過剰な過敏さを燃やし尽くす。そのおかげで、二人の人が頭を突き合わせていても、「あの人たちは自分のことを話しているのではないだろうか?」と疑わなくなる。あなたは「人々は自分のことを話している」と考えてばかりいるのである!愛する人よ、あなたの自尊心は行き過ぎである。実際は、その時まで話の中にあなたの名前は出てこなかったのであり、あなたとはまったく無関係なことを話していたのである。われわれを神経過敏・疑心暗鬼にするこの嫉妬から救われる地点に至るべき時である。

福音は人を救う。役職から追われる時、その人がほっとするほどに、福音は人を救う。普通はそうではないことを、あなたは知っている。年末に役員を変えるとき、たいていの場合、就任する人は退任する人よりも機嫌がいい。神がわれわれを助けて下さり、指導権を求めることから、地位を求めることから、立場を求めて裏で糸を引くことから、「自分の方が他の人よりもこの地位に相応しい」と考えることから、われわれを救って下さいますように!すべからく、教会の役職に適任の人を求めるべきであって、人は役職を求めてはならない。敢えて言うと、ある地位に相応しい人とは、その地位を求めず、その地位を欲しない人である。裏で糸を引いていると思われるような人に、たとえそれがいかなる地位であっても、私は票を投じようとは思わない。裏で糸を引こうとしない多くの人々がいる。彼らは日曜学校の校長になろうと画策しないが、心の中にはそれを願う密かな願いがある。事実、われわれはみなこの同じ欲求を持っており、まったく聖められない限り、地位を欲する欲求が内側にあって、われわれの中の最善の者でも、人々から褒められると、機嫌が良くなるのである。しかし、全く聖められる時、人は人々の称賛に動じなくなるだけでなく、神の御前で顔を伏せるようになるのである。

この恵みはあらゆる短気さからわれわれを救い、教会のあらゆる混乱や騒動からわれわれを救う。この混乱は台所にあるのでは全くなく、他所にある。私は愛する妻の手助けをして、よく果物を缶詰にしたものだった。われわれは果物を缶に詰めて地下室に置いた。翌日、何かがはじけてシューシューいう音が聞こえてきたら、地下室に降りて行って、缶を取り出し、調理し直さなければならなかった。そうしなければ、数日後には駄目になった果物が残っただろう。聖められたと多くの人々が主張する。しかし、その人々がはじけてシューシューいっているのを、われわれは耳にする。これは火が十分強くなかったからである。そこにガスがあったのである。沸騰させる方がいいのであって、火が十分に強くなかったのである。主は、「罪が満ち溢れたところには、恵みもますます満ち溢れる」この第二の祝福をわれわれに与えて下さる。

また、愛する人よ、この御言葉の正しさは、恵みは人々を救って完全に聖めるという事実から示されるだけでなく、恵みは罪の影響に立ち向かって、その傷跡さえも消し去るという事実からも示される。「自分は罪から救われたけれども、『罪の結果を忍』ばなければならない」と、可哀想な多くの人々が考えているし、多くの説教がそのような考えを助長している。その際、引用される御言葉は、「何であれ人が蒔いたものを、人は刈り取ることになる」である。私はあなたたちに言いたい。われわれには「毛虫が食べた穀粒を回復する」福音がある。この福音は人の魂の中に入り込み、例えば放縦や欲望の影響から体を癒し、肉体的に健康にする。神の取り扱いについて、何でも言いたいことを言うがいい。これまでスラムの中で過ごし、スラムの中で働いてきたわれわれは知っている。多くの人は、その腐敗した体を癒されない限り、堅気の社会には合わないのである。われわれは、人々を救ってその魂を治すだけでなく、その体に触れて病から救う福音を持たなければならない。

昔、聖アウグスチヌスがいた。この名を呼ぶことをあなたは好んでいる。彼はクリスチャン教父の一人だった。二十一歳の時、この人は自分が恐ろしい罪人であることを見い出した。その血の滴までもが罪によって毒されていたのである。しかし、神は彼を救い、聖め、その体を癒して、約半世紀のあいだ、比類ない方法で用いられた。それでわれわれは彼のことを「聖アウグスチヌス」と呼ぶのである。

神がなさること、神が喜んでなさることを、われわれは知るべきである。また、神がある人のためになさることは、他の人にもなして下さることを、知るべきである。神は人を偏り見る、と私に言ってはならない。神はある人々には素晴らしいことを行って下さるが、他の人々は拒絶される、と言ってはならない。イエス・キリストは「昨日も、今日も、いつまでも同じ」である。われわれには、人に触れて、地獄の病原菌が触れたすべての点を癒してくれる福音がある。罪がもたらしたすべての結果から人々を救う福音がある。その地点にわれわれを至らせない限り、神はわれわれを去らせようとはされない。神は人の意見と反対のことを行うのを好んでおられるようである。また、われわれが「不可能だ」と言うことを行うのを好んでおられるようである。

「どんな蒸気船も大西洋を横断することはできない」と、哲学者たちや学識ある人々が、論理的かつ決定的に証明した時代がかつてあった。もちろん、今日の人々のように、彼らはこの問題を放置しておけなかった。人々は折りに触れてこの問題を検証し、それが正しいかどうかを見ようとした。ある日のこと、リバプールの二階の部屋で、彼らは何か間違いを犯していないかどうかを確認するためにこの問題の検証を行った。最終的に、「自分たちは正しく、そんなことはまったく不可能である」という結論をまさに下そうとした時のことである(それでも、どうにかして実現する方法を探し出そうとする変人が常にいるものである)。彼らが窓の外を見ると、大西洋を横断してきた最初の蒸気船が港に入るのが見えた。「聖められることは不可能だ」と人々が証明するまさにその時、われわれは何とか聖められるのである。背高帽とネクタイをつけた説教者が、会衆に向かって、「誰も聖められることはできない」と証明したまさにその時、その説教者のバターケーキを台所で揚げていた僕がこの祝福を受けたのである!それだけではない。その説教者が最善を尽くして、極めて強力な反対論を唱えていたまさにその頃、彼の教会の最上の人々は、別の場所で開催されていたキャンプ集会やテント集会に行って、聖められたのである。彼らはその説教者を困惑させたので、最終的に、その説教者はその批判を取り下げたのだった。

もう十分だと思うが、さらにまた、この御言葉の正しさが再び示されるだろう。世界博覧会を凌ぐ展覧会をわれわれが開く時が来ようとしている。人々が集まって、神が救いの見本を展示される時が来ようとしている――スラムの中から、最底辺の生活を送る人々の中から、神が一群れの人々を選ばれる時が来ようとしている。その人々は来て見本となり、団結してこの御言葉の正しさを永遠に示すのである。われわれの時代が来ようとしている。数の上では、われわれは少数派である。この世は地獄の方に漂って行っていることを、私は告白する。教会は聖霊を拒否して聖潔の民を追い出そうとしていること、そして、彼らはテントや森に追いやられていることを、私は告白する。しかし、われわれの時代が来ようとしている。われわれはその時代を待つことができる。

聖潔の民は常に少数派というわけではない。常に追い出されて住む所がないわけではない。イエスが天の雲に包まれて現れる時が来ようとしている。彼に忠実だった者、地上で彼と共に歩んだ者は、彼のそばに迎えられて、彼と共に永遠に支配するだろう。彼が天の玄関を踏み越えられる時、重力の法則は逆転し、あなたや私は彼に引き寄せられるだろう。しかし、それだけではない。われわれは小羊の婚宴に参加するだけでなく、この古戦場――そこでわれわれは神のために戦ったのである――に戻って来て、報いに従って、五つ、十、二十、あるいはそれ以上の都市を支配・統治するのである。

そうしたくなければ、あなたは用意する必要はない。しかし、神の恵みにより、私はそうする。やがて到来するこの偉大な時代に、われわれは神の恵みが産出した品物を展覧し、天の観衆全員と地獄のすべての穴に向かって、キリストの救いは人のために何をなせるのかを示すのである。その時、この甘美な真理に反対して説教した説教者を、神があわれんで下さいますように!高い尖塔と、ビロード製のクッション付きの会衆席と、鳴り響くパイプ・オルガンを備えた教会からあなたを追放した役員会は、あなたが持っているものを自分も持っていればよかったのに、と心に思うようになるだろう。その時、聖潔が必要になるだろう。皆が聖潔を望むだろう。しかし、遅すぎたのである!手遅れである!神は今、聖潔を与えようとしておられる。しかし、あなたが今それを否むなら、神もその時あなたを否まれるだろう。あなたが今、聖潔を否むなら、その時、聖潔もあなたを否むだろう。あなたが今、神の民に加わらないなら、その時、加わることは許されないだろう。

物事が正される時が来ようとしている。あなたや私が神の恵みの展示を見る時が来ようとしている。その時、われわれは神が行ってこられたことと、いま行っておられることを見、キリストを拒絶したものを神がどのように拒絶されるのかを見るだろう。キリストが多くの教会の中で今占めておられる地位は、初臨の時に及ぶものではない。人々はキリストを欲していない。今、キリストが宮に行くことがあれば、キリストは両替人たちを追い出されるだろう。私は誰の悪口も言っていない。私の心は優しさに満ちている。しかし、神はしりごみしているエレミヤを立ち上がらせて、王たちを非難する者とされた。私は罪を叱責するつもりである。講壇における罪だろうと、スラムにおける罪だろうと、どこの場所だろうと、そうするつもりである。

この御言葉の正しさは、すぐに再び示されるだろう。われわれが天に行く時が来ようとしている。そのような感覚を、私はいま大いに感じている。あなたの町の通りを歩く時、私は舗装された道を行くことはほとんどない。此処彼処で少し舗道に触れる程度である。それだけで、自分がいまだにシンシナティにいることがわかる。しかし、私の魂は雲の間を歩んでおり、自分がこの国に属していないこと、自分がアメリカ人でもオハイオ州人でもないことを喜んでいる。神は天上に一つの都を持っておられ、この地上を抜けるときただちにそこに入るのである。

私は永遠の境界からあなたのところに戻って来た。数週間の間、その門がちょうつがいで回る音を聞けそうな所に、私は立っていた。あの輝く通りがもう少しで見えそうだったのである。私はあなたたちのところに戻って来た。私はあなたたちに言う。われわれが宣べ伝えているこのことは真実である。妻があの川の中に立っていた時、「私たちは過激であって、真理を踏み越えたことを宣べ伝えていると、非難されていることを知っていますか?今、それがどうなのか知りたいのです」と私は妻に言った。すると妻は、「すべて真実で、さらに凄いのよ」と答えた。妻がこれをあの川の中で話してくれたからには、私は前にもまして強い確信と勇気とをもって、この福音を断固として宣べ伝えるつもりである。

最終的に、われわれは古びた戦艦のようにそこに入るのではない。帆柱は倒れ、帆は破れ、旗はみな紐で巻かれ、古い牽引船で港を引かれて行くような状態で、そこに入るのではない。そうではない。すべての旗をたなびかせ、勝利の旗を風にはためかせて、天の疾風を帆に受けながら、疾走しつつ中に入るのである。そしてその時、われわれが下船して光の通りを上る時、天の御使いたちは帽子を脱いでわれわれに挨拶するだろう。彼らは立ち上がってその光景を見るだろう。われわれが中央通りを行進する時、彼らはわれわれと互いを見、次に、われわれがいたところを見下ろし、それから、われわれのいるところを見上げるだろう。そして、驚きで我を忘れ、「罪が満ち溢れたところには、恵みもますます満ち溢れた!」と叫ぶだろう。

この真理は永遠に響き渡る。われわれは御使いたちの上位に座すだろう。なぜなら、人が創造された時、人は御使いたちよりも少し低い者に造られたが、贖われる時、御使いの長よりも高くされるからである。われわれは贖いの歌を歌って、御使いたちを楽しませ、地上での戦いについて彼らに話すだろう。彼らは、これらのことをすべて知りたいと願っている。ああ、荒野の戦い、ゲッセマネの戦い、カルバリの戦い、ワーテルローの戦い、ゲティスバーグの戦い、シンシナティの戦いの物語について彼らに話すのは、栄光なことだろう。この都市の悪の勢力はわれわれに敵対しているが、神がどのように祭壇で人々を救い、彼らを育て上げて永遠にわたって輝く者とされたのかを話すのは、何と栄光なことだろう。

そのとき私は、最悪の人々にまで届いた福音の物語を、罪が満ち溢れたところには恵みもますます満ち溢れたことを、喜んで御使いたちに告げるだろう。そう考える時、私は自分が勝利の戦士になったような気がする。われわれは勇気を出して、目を上げてまっすぐ天を見つめるべきである。この第二の祝福を受けている人はみな、私の言わんとしていることがわかるだろう。もしまだ第二の祝福を受けておらず、それを受けることを望むなら、今受けることができる。あなたは望むだろうか?