「主の秘密は主を畏れる者たちと共にあり、主はその契約を彼らに示される。」(詩篇二五・十四)
自然界は秘密に満ちている。それは謎でいっぱいの宝の家のようなものであり、それについて人はわずかしか知らない。科学は毎年ますます多くの発見をしている。しかし、今日研究者たちが発見しつつある神の諸々の秘密は、どちらかというと月並みな秘密であって、貝のように浜辺で拾い上げられるものである。それらの秘密は、これから示されようとしている秘密の、たかだか十分の一にすぎない。
自然界で最高のものは隠されている。地面の上にむきだしで転がってはいないし、略奪者の手によって壊されることもない。それらは「くずや酔っぱらい」のためではなく、赤鼻の飲んだくれのためでもない。価値あるものは、それに値する人しか見いだせない所に置かれている。貴金属は地中や山々の中に隠されており、この隠れた鉱石を確保するには、岩を打ち叩いて火で燃やさなければならない。ダイヤモンドは地中深くで造られる。真珠は深海でとれる。しかも、ざらざらした貝の中にしまわれて、膜で覆われていることがしばしばである。そのため、その価値を見抜いて膜を取り除くには、職人の技能が必要である。ダイヤモンドの美しさはほとんどの場合、一つの秘密であり、成形と研磨の偉大な技能の産物である。
この原則は鉱物の世界で成り立つだけでなく、植物の世界でも成り立つ。最高級の木の実の中身は堅い殻で覆われており、この殻を破らなければならない。クルミの中身やココナッツの美味なミルクは隠されており、工場で働く者たちは懸命に力を注ぐ。科学、芸術、発明上の諸々の秘密がある。近頃われわれが重んじているほとんどすべてのものは、現代に発見されたものによる。今日明らかになっている、言い尽くせないほど有用な諸々の秘密を、われわれの偉大な祖父たちは知らなかったのである。
ワットの努力のおかげで、われわれは蒸気エンジンを持っている。ステフェンソンの労苦のおかげで鉄道を、エジソンとベルの研究のおかげで電話を、われわれは持っている――この人々はみな、神の諸々の秘密を探求してそれを見いだした人々である。彼らの中に、「浮浪者」や、「よれよれの人」や、商品箱の所に座って、ちまちまとタバコジュースをすするような怠け者は、だれもいなかった。彼らは金を否み、快適さや快楽を否み、社会的にも家庭的にも自分を否み、神の御業に没頭して、あなたたちが日常生活で喜んで使っているこれらのものを見つけ出したのである。エジソンは自然と発見と発明に没頭した。そのおかげで、あなたは彼よりも容易に、合衆国大統領と話せるのである。自然の諸々の秘密は、万人や万物から隠されている。それらを見いだすには、探求しなければならず、自分自身を大いに犠牲にしなければならないことがしばしばである。
南アメリカでは、人々はかがんで左右や背後を見わたし、山々の裂け目からダイヤモンドを拾う。私はあなたたちに言いたい。喜んで自分を否む人々が自然の諸々の秘密を見いだすように、自分自身を否んで探求する人々が御霊の諸々の秘密を見いだすのである。会衆席の隅にただ座っているだけでは見つからないものを、神は持っておられる。神を畏れて代価を払う人々にしかわからないものを、神は神聖な恵みの領域の中に持っておられる。
「クリスチャンは天ではみな同じである」と考えている、とても多くの人々がいる。しかし、聖書はそんなことを教えていない。地上で人々が同じではないように、天でも同じではないであろう。あなたたちの中には、天に行った時、頭に何もない人がいるであろう――冠のない人もいるであろう。大統領に自分の内閣があるように、主にもその内閣があることは確かである。イエスには数名の弟子がいて、その弟子たちは彼のそばに立って、彼と共にどこにでもついて行った。彼はその弟子たちにご自分の諸々の秘密を啓示し、ご自分の命に関する事柄を語られた。それと同じように、神には選んだわずかな人々がいて、その人々にご自分の諸々の秘密を語られるのである。今晩、私が話していることを何も知らない教会員が、ここにはたくさんいる!「神はあなたたちを締め出しておられる」と、私は言っているのではない。あなた自身が自分を締め出しているのである。あたりに座って、自然界の諸々の秘密を見いだそうとしない浮浪者のように、安楽を好み、快楽を追い求め、決して自分を否まず、決して神の祝福を得ることのない人々が、諸教会の中にいる。
神は霊の領域の中に数々の秘密を持っておられ、それをみそば近くに生きる人々に啓示しておられる!神には喜ばしい数々の秘密がある。そのようなものがあると知るだけで、人はそれを渇望するようになる。そして、それを目指す力がありさえすれば、それを知ることができるのである。しかし、それらの秘密は箱の中にしまわれて隠されている。しかし、人々は自分に臨むものを取るだけで、今晩私が話していることを何も知らない。つまり、主のこの秘密を何も知らないのである。
自然界の秘密の発見により、しばしば大きな喜びがもたらされてきた。あるギリシャの数学者は、幾何学で偉大な発見をした時、通りに出て行って、「見つけた!見つけた!」と叫んだという。数学上の発見でギリシャの数学者が喜んで叫んだとするなら、霊の世界の秘密を発見して喜んで叫ぶのは奇妙だ、とどうしてあなたは思うのか?神の秘密を得ても、人々がそのことで静かにしていられるのが、私には不思議である。
今晩、これらの秘密のいくつかに私はあなたたちの注意を引きたい。その一つは、赦し、再生、新生である。新生は、新生した人しかわからない秘密である。シンシナティの通りに出て行き、再生について知らない人を一人つかまえて、再生についてその人が理解するよう説明を試みてみよ。イエス・キリストご自身ですら、そうすることはできない。彼はニコデモにそうしようとしたが、ニコデモは新生について理解できなかった。新生した人しか理解できない。新生は聖霊によって心の中に啓示される一つの秘密なのである。
異教世界はこの秘密を知りたがるだろう――罪を取り除く方法を知りたがるだろう。人々は長い巡礼の旅をし、懸崖を歩み、自分たちの子供をガンジス川に投げ込み、自分たちの知っていることは何でもする。罪を取り除くためにそうするのである。しかし、彼らは赦しを得ない。その理由は、彼らには聖書がないからである。
ヨブは、「人はどうすれば神に対して正しくあることができるのか?」と言った。これが旧約時代の問題であり、当時の問題だった。これはどの時代でも問題である。この問題が、数千の祭壇の煙から立ちのぼり、数百万のいけにえの血により流れ出たのである。「人はどうすれば神に対して正しくあることができるのか?」――これが問題であった。この問題に対する答えはカルバリで与えられた。イエス・キリスト、神の御子が来臨して、この輝かしい秘密をわれわれに啓示してくださったのである。それは、われわれが罪を取り除く方法を知ることができるようになるためだった。人にこれを説明して理解させることはできない――この国で最も頭脳明晰な人、最も論理的な論客でもだめである――再生について人に理解させることはできない。なぜなら、再生は心の中に啓示される一つの秘密だからである。
二十五年前、私は「自分はとても罪深い」という認罪を心に抱きつつ、古びたクエーカーの教会で立ち上がった。私は、「自分はとても罪深い」と言うつもりだった。しかし、立っていられたのは三十秒だけだった。立ち上がった時、私は恐るべき罪人だった。しかし、座った時には聖徒になっていたのである。私は一言、二言告白しただけだった。しかし、天が開かれ、栄光が私の魂にしたたり落ちて、私は救われたのである。そして、それまで犯してきた罪はすべて取り除かれたのである。そして神は、「あなたはまだやり遂げたわけではない」という一つの秘密を、私の魂にささやかれた。人々はそれを理解しなかった。教会員たちはそれを理解しなかった。説教者たちはそれを理解しなかった。ある説教者は私に、「あなたは温室の植物のように、すぐ萎れてしまう」と言った。しかし、神は私の魂に一つの秘密をささやかれた。今日、この驚くべき秘密を理解している人が、国王や王女の中に一人でもいるのかどうか、私は疑う。しかし、私は田舎者にすぎなかったのに、それを見いだしたのである。神がこの秘密を私の魂に与えてくださったのである。私は二十五年に及ぶ夏の焼け付くような日照りと、二十五年に及ぶ冬の冷たい北風をすべて経過してきたが、今でも諦めていない。ハレルヤ!
ああ、あなたがこの秘密を得ていれば、私の話していることがわかっただろう。私が今話しているのは、聖潔についてではなく、再生についてである――多くの教会員たちが知らないことを話しているのである。彼らは教会に加わり、バプテスマされた。しかし、彼らは経験的宗教について何も知らない。しかし、神はある日私を救い、私に新しい名前を下さった。私はこれを知っており、どんな大学の教授や神学博士といえども、それを私から奪うことはできない。それは残り続ける。それは主と私が共有している一つのささやかな秘密である。ああ、あなたがこの本物を一度でも得ていれば、私の話していることがわかっただろうに。これは誓約書に署名したり、教会に加わったりする問題ではない。多くの人は教会名簿に名前が載っているが、救いに関するかぎり、板塀同然である。
また、愛する者よ、聖潔は一つの秘密である。教会史の中で今日ほど、こんなにも多くの人々が聖潔の問題について議論する時代は一つもなかった。至る所で、説教者たちは聖潔について議論し、反対している。彼らはこの問題にけりをつけ、この問題は解決したと言う。しかし、彼らはその生涯の間、この問題を去らせることができないのである。彼らは、聖潔に反対する立派でまっすぐな説教をして、その問題にきっぱりとけりをつけたはずではなかったのか?ある神学博士が、だれも聖潔を得ることはできないと、講壇で証明したまさにその時、彼の年老いた最高の姉妹たちが聖潔を得たのである。その後、彼は説教をやり直さなければならなかったのである。
当時は、教会史の中で、聖潔はクエーカーの教会にごく限られていた。メソジストたちの七十五年か百年前のことである。(あなたたちメソジストは、後からどうにか遅れて来たのである。)その当時はまた、聖潔はメソジストの監督教会に限られていた。今から約百年か七十五年前のことである。しかし、ここ二十五年か三十年の間に、神がある活動を開始される時が来た。その活動は世界中に広がりつつある。高教会の監督教会、長老教会、組合教会、ルター派の人々が、この聖潔の問題に興味を持つようになってきているのである。
これは、イエスの来臨が近いことを示す数々のしるしの一つである。神は御子の諸教会の中から一人の花嫁を選びつつある。神の民は急速に一つのまとまりになりつつある。私には良い友人たちがいる。彼らは、よくあるメソジスト教会の中で働いている忠実な聖潔の働き人である。私には優れた、力強い、心からの友人たちが、メソジストの中にいるのと同じように組合教会の中にもいるし、多くの宗派の中にもいる。この活動はある地点に到達した。そこでは、神はもはや一つの宗派に閉じ込められておらず、あらゆる宗派やあらゆる階級に御手を差し伸べようとしておられる。神はジャングルやスラムに行って、人々を救って完全に聖めようとしておられる。
聖潔は一つの秘密である。それを得ている人にしかわからない。あなたは聖潔について知っているかもしれないが、あなたの隣に座っている人はホッテントット族の人よりそれについて無知かもしれない。あなたの妻は知っているかもしれないし、あなたはその事実を喜んでいるかもしれないが、アフリカの異教徒よりもそれについて無知かもしれない。聖潔は一つの秘密である。学んで得ることはできない。働いて得ることはできない。もし働いて得られるなら、「晩餐を用意する人々」はみな得ていたはずである。「ケーキ焼きや皿洗い」で得ていただろう。骨になるまで働いて、それを得ていただろう。しかし、そのような方法では得られない。聖潔は一つの秘密である。それは隠されている。頭脳明晰な人でも、頭脳では得られない。聖潔は心を通して来るからである。首から上にあるものをすべて無視するようにならないかぎり、私が話しているものを得ることはだれにもできない。あなたはご存じだろうか?聖潔とは、それを得るまで理解できないものなのである。祝福を得る時、それは真昼時のように明白である。樽の栓はあまりよく見えないが、樽の中に潜り込めばよく見えるようになる。頭脳という方法ではこの祝福はわからないが、心を込めてその祝福の中に入るなら、それがわかるようになるのである!
主は聖潔を人々に啓示してくださる。神があなたを祝福してくださいますように。私はかつてほど人々に「聖潔を説明」しようとは努めない。私は信じる。われわれ聖潔の民は多くの理屈をこねてその中に入るという過ちを犯している。私はかつてはその諸々の段階を定義するのにとても多くの時間を費やしたものだった。段階を踏んで聖潔を得た人々もいるかもしれないが、大部分の人はその中に転がりこんだのである。
この第二の祝福をわれわれが得た後、神は他の数々の秘密をわれわれに啓示してくださる。一つは信仰の秘密である。神はこの秘密をアブラハムにささやかれた。ダニエルはこの秘密を知っていた。ダニエルと神はこの問題について語り合い、神は「ダニエルよ、もしあなたがわたしに対して真実であって、獅子たちと共に眠るなら、わたしはひとりの御使いを遣わして獅子の口を封じよう」と仰せられた。ダニエルは「そうすることにします」と答えた。そこで神はダニエルを獅子の巣穴に行かせて、獅子の口を封じられたのである。神はあなたを獅子の巣穴に行かせようとはされなかっただろう。そのような旅をする栄誉をあなたは授からなかっただろう。あなたはおとなしく神に信頼しないだろうからである。あなたは金切り声を上げて出て行って、獅子たちがあなたを食い尽くしていただろう。しかし、神はダニエルが神に信頼するだろうことを知っておられた。なぜなら、ダニエルは「主の秘密」を知っていたからである。ダニエルは獅子の巣穴に行って、ぐっすり眠った。その晩、一晩中家の中を歩き回ったのは、王の方だった。
ある教会の牧師になって、二つの宣教団と五つか六つの伝道者の団体の責任を引き受けるために、ニューイングランド市に行った時、人々は「あなたはとても困難な多くの問題に遭遇するだろう」と言った。そこで私は言った、「心配で床の上を歩き回ったり、横になっても眠れないような人は、きっと他の団体の人なのでしょう」。神は、私を毎晩眠らせることができるような境地に、私を保ってくださったのである。
人がこの秘密を得る時、人は何でも信じて得られるようになる。私は夫のために二十年祈ったある婦人を知っている。彼女は夫を対象に祈ったり、夫について祈ることもあれば、夫のために祈ることもあった。霊的に低調な時、彼女は機嫌が悪く、小言を言って、自分の行った善行をすっかり台無しにしていた。しかしある晩、彼女は必死になって、聖霊に夫を救ってくださるよう叫び求めた。夫は眠ったが、彼女は十一時までひざまずいた。十二時、一時になってもそうし続けた。彼女は待ち望みつつ、神と格闘し、ついに時計が二時になった。その時、天が開かれ、火が下り、彼女は「夫は救われる」という証しを得た。彼女も眠りにつくと、夫ががばっと起き上がり、ひざまずいて、自分を助けてくれるよう熱心に聖霊に祈り、朝になるまでに救われたのである!この経験をする時、自分の愛する者たちを神が御手の中に握っておられることを確信できるようになる。神は愛する者たちの世話をしてくださる。この秘密がなければ、おそらく、愛する者たちにあれこれ言っても、決して彼らは救われないだろう。
しかし、あなた自身が稲妻に打たれるとき、神はあなたの親類を揺り動かす認罪を送ってくださる。あなたは親類を救いたくないだろうか?あなた自身の生活を正しなさい――これがそうする道である。あなたは私のところに来て、「救われていない自分の子供を救ってください!」と言う。もし母親が、連れがいる時と同じように、家庭や台所でも優しい生活を送ることを学ぶなら、子供たちはすぐに回心するだろう。あなたたちの中には、とても不機嫌で一緒に暮らすのが難しい人もいる。だから、だれもあなたの宗教を欲しないのである。神があなたを祝福してくださいますように。あなたの子供があなたの宗教を欲しないのももっともである。子供たちが救われないのももっともである。主よ、われわれが生来の罪を取り除くのを助けたまえ。そして、われわれを徹底的に救いたまえ。その時はじめて、人々が欲しがるものをわれわれは持つようになるのである。
教会が知るべき力の秘密がある。「もっと力があればいいのに」と、ある人は言う。何のための力か?新聞で脚光を浴びる力、誇示する力、ひとかどの者になる力か?そんな力には何の価値もない。われわれに必要なのは霊の力である。人々が持つべき力の秘密がある。それは一年中毎日われわれに力を与えてくれる。伝道者が素晴らしい成功を収めるたびに、人々は驚いて、「彼の力の秘密はどこにあるのか?」と尋ねる。しかし、力の秘密は聖霊にある。人々が聖霊を受けるなら、自分のなすべきことを何でも成功裡に成し遂げるための力を彼らは持つようになるだろう。
話を終える前に、喜びの秘密があるという事実にあなたたちの注意を促したい。一般人はこの喜びについて何も知らない。この祝福を得る時、あなたは、「様々な誘惑に陥る時、それを喜ばしいものと見なしなさい」というヤコブの命令に従えるようになる。月曜日も日曜日と同じように喜べる。すべてが自分に敵対している時、失業している時でも、喜べる。お金が無い時も喜べる。友人が去っても喜べる。悪魔が近くにいても喜べる。喜ぶべきことが何も目に入らなくても、口笛を吹いて、歌い、叫び、笑い、神を賛美できるのである!洗濯物を干したのに、物干し用ロープが切れて、一週間分の洗濯をやり直さなければならなくなっても、ハレルヤである!私はある婦人を知っている。彼女はまさにそのような状況下でも叫んで、大会衆の前の講壇上と同じように台所でも歓喜したのである。今晩、私があなたたちに話しているのは、きわめて実際的なことである。それは、食事の用意ができていなくても、人を喜ばせるものである。それは、ビーフステーキを焼きすぎた時や、状況がかんばしくない時でも、あなたに神を賛美させるものである。あなたは神に感謝して、焼きすぎのビーフステーキをそのまま食べるようになる。私はあなたたちに言う。あなたの家庭に問題が生じて、あなたが出て行って扉をバタンと閉じ、あなたの妻を傷ついたまま後に残して、通りに出て行く時――あなたたち、教会員であってしかも役員であるあなたたちのことである――あなたには何かが必要である。大いに必要である!この秘密により、どこにいても、われわれは神の御旨の生活を送れるようになる。もし私が家庭で正しくないなら、あなたたちに宣べ伝えても仕方ない。もし私の二人の息子が私を信頼していないなら、講壇から何を言っても無駄である。世界や教会が私に与えられるありったけの栄誉よりも、私は二人の息子に信頼されたい。ああ、われわれを自分の家で行儀良くならせてくれるものが必要である!
私の妻はよくこう言っていた――私の妻が話したことなら何でも私は話したい――私の妻は西部でこの祝福を受けたある人のことをよく話していた。その人はよく叱る教会の会員だった。(たくさんの人が教会の会員だが、家ではひどく叱りつけているのである。)ある晩、その人はこの祝福を受けた。そして、遅くなってから家に帰ると、子供たちが起きているのを見つけた。普通だと、家に遅く帰って子供たちが起きているのを見たら、みっちり叱ってから寝かせるのが常だった。子供たちはおびえ始めた。しかし、その人は微笑みながら中に入り、「どうしたんだい、子供たち、まだ起きているのかい?もう寝てるだろうと思っていたよ」と言った。子供たちは答えた、「そうだよ、パパ、パパが帰ってくるまで起きていたかったんだよ」。そこで、父親は言った、「さあ、階段を下りて、木の実と、リンゴと、ポップコーンを取っておいで。昔のように、木の実を割り、リンゴを焼き、コーンをはじけさせて楽しもうじゃないか」。子供たちが驚いたのは当然である。地下室に降りて行った時、少年は姉に、「お姉ちゃん、僕が何を考えているかわかる?」と聞いた。姉は答えた、「いいえ、何を考えているの?」。「あのね」と少年は答えた。「パパは死んじゃうんじゃないかな」。
さて、人々がこう思うことを、あなたはご存じだろうか?あなたが祝福を得て、地上でとても幸いに暮らすようになると、人々は「あの人は天国に行こうとしている」と思うのである。妻たちは夫が良くなると不安に思い、母親たちは病気の子供の機嫌が悪くなると安堵する。「良くなってきている」とあなたは言う。不機嫌でないと、「この子は天国に行こうとしている」と思う。だから、子供が不機嫌なのをあなたは喜ぶのである。あなたは言う、「ああ、子供の機嫌が悪くなった。良くなってきている!」。
しかし、人々から不機嫌さを全く取り去って、一生のあいだ毎日正しく暮らせるようにさせる福音を、われわれは持っている。人々はこれを理解しない。あなたが地上でこの祝福を受けるなら、あなたの振る舞いは大いに良くなり、あなたの妻は恐れて、「ジョンは死んじゃうんだわ」と言うだろう。しかし実際のところ、あなたはまさにこの祭壇で死ぬのである。
愛する人よ、この祝福を得る時、あなたは笑うことが何もなくても笑えるようになる。笑うべきことが他の人には何も見えない時でも、あなたには見える。あなたは覚えておられるだろうか?イスラエルが神と共に歩んでいた時、彼らには水がたっぷりあったのだが、つぶやいた時は必ず水を失った。「打たれた」岩から流れ出た川は、テネシーの末無川のように、時々、姿を消す。ある時、イスラエルがつぶやくと、神は「あなたたちは水のために自分で穴を掘らなければならない」と仰せられた。そこで、彼らは穴を掘りに出かけたが、全く水は見つからなかった。主は、「穴の周りを巡って歌え」と仰せられた。空の穴の周りで歌うのである!しかし彼らが歌うと、水が湧き出たのである!もしあなたの救いが不十分で、空の穴、枯れた井戸の周りで歌えないなら、あなたはこの御言葉の祝福を得ていない。全く水が見えなくても叫べる人、すべてが真夜中の暗闇のように見えても神を賛美できる人が必要である。
悪魔は敗北しているのだから、だれでも神を賛美できる。しかし、完全に救われていて、誘惑される時でも踊れる人が必要である。神はそのような民を持っておられる。すべてが氷山のように冷たくてよそよそしい場所に私は行ったことがある。しかし、私はリバイバルが到来しようとしていることのゆえに、主に賛美を始めた。人々はこれを理解できなかったし、リバイバルのようなものが来るとは少しも信じなかった。そして、リバイバルが「起きるのかどうか」見ようと高みの見物を決め込んだ。あなたも知っているように、リバイバルが「起き」ないなら、その中に入ろうとしない人、しかし、成功するなら、まるで「最初からその中にいた」かのように振る舞う人々がいる。しかし、リバイバルはいつだって「起きる」のである!神に栄光あれ!ここで少しばかり私の経験を話そう。数年間、私がどこに行ってもリバイバルが起きない時があった。最後の三つの牧師職では、一つのリバイバルが起きた。七月と八月に回心者が得られなければ、私は教会の牧師でいたくなかった。最後の牧師職では常にリバイバルが起きて、七月は最も実り多い月になったのである。
私はこの主題について話し終えたわけではないが、ここでやめなければならない。どのみち、説教はかぎりないように思われる。この秘密を得るには、あなたは来て、それを持っている人々と共に歩まなければならない。長老や、婦人救済協会の会長や、B兄弟やC姉妹を恐れているかぎり、あなたは決してこの祝福を受けない。なぜなら、主の秘密は主を畏れる者たちと共にあるからである。もしあなたが一人で進んで、神の任務を行い、神を喜ばせるなら、今晩私が話しているこの祝福をあなたは得ることができる。あなたは代価を払った方がいい。そうするなら神はあなたに、再生の秘密、力の秘密、喜びの秘密、私が述べなかった多くの事柄を与えてくださる――神はあなたの人生をこの第二の祝福で満ちあふれさせてくださる。主を賛美せよ!