第九章 偉業

セス・C・リース

「しかし、自分の神を知る者は、強くなって偉業を成す。」(ダニエル一一・三二)

ある人が言ったこの言葉は正しい。「弱さは蔓延する疾病であり、力は蔓延する活力である」。もしわれわれが弱いなら、われわれは弱さを撒き散らし、他の人々を弱めてしまう。もしわれわれが強いなら、われわれは自分が接触する人々に力を分け与える。神が強くなるようわれわれに命じられたからには、われわれは弱いままではいられない。神が命じられたことはみな、神がすでに与えて下さっているものである。どの命令も約束の重みを帯びている。力と神がわれわれに期待しておられる成功のための備えとを、神はわれわれの手の届くところに置いて下さった。

しかし、多くの人が目標としているのは、キリスト教から超人的で奇跡的なものをすべて断固として除去することである。今の時代の潮流は、人を高く上げて、神に取って代わることである。聖書から超自然的な事柄を取り除き、その奇跡的出来事を自然の因果律に基づいて説明できれば、いわゆる知者たちは大いに喜ぶだろう。現代の学術組織のお偉方は、生命や世界の諸々の現象を、自立活動機構に還元してしまった。この自立活動機構は、滑車、ベルト、軸、発電機といった見事な仕掛けで動くので、神は必要ないというのである。神に取って代われる時ほど、天然の人が喜ぶ時はない。

キリスト教は、神学や倫理、教理や教義、律法や信条の「体系」に還元されてしまう、大きな危機に瀕している。「キリスト教を信じる」多くの人々は、それを偉大な体系と見なしている。彼らの多くはその権益を守ることに熱心で、自分たちの生活を、多かれ少なかれ、その規則にしたがって形成することもあるほどである。彼らはまったく倦むことなく、その権益を拡大することに努力を傾ける。しかし、彼らはその創始者である方を知らない。この方を知る彼らの知識は、間接的なよそよそしいものである。だが、このように冷たい、死んだ、機械的な理論や実行からは離れ去るがよい。もしキリスト教がパウロやステパノの時代と同じように超自然的でないなら、それはまったく無である。もし神の力がエリヤやダニエルの時代のように近くで活動していないなら、それは何であれ無である。イエス・キリストによる贖いの仕組みは、大いに個人的である。それは神ご自身の啓示であり、キリストご自身を受け入れることであり、聖霊ご自身を授かることである。キリスト教は、その創始者である御方の臨在と生ける御手を、毎瞬必要とするのである。

今日ほど、世界が超自然的な宗教を必要とする時代はかつて無かった。今ほど、宗教の超自然的要素を教会が強調する必要がある時代はかつて無かった。ペンテコステの日から今の時に至るまで、古い世界を目覚めさせて宗教に注意を向けさせるには、尋常ならざる、びっくり仰天させるような、驚くべきことが必要だったのである。ありきたりのものでは、中国、インド、アフリカをキリストのために決して捕らえられない。人間的なものでは、理性的なドイツ人、不信心なフランス人、ニュー・イングランドのユニテリアンを決して救えない。今日ほど、人が自分の目に偉大に見える時代、誇りに満ちた時代、反抗的で反逆的な時代はかつて無かった。今世紀のここ数十年ほど、知者たちが自慢や肉的な自尊心を主張する時代はかつて無かった。今こそ、われわれをへりくだらせて、自分自身を知るようにさせてくれるものが必要である。

フランスで最も偉大な講壇の雄弁家であるマシヨンは、大ルイスの棺の前に立って、居並ぶ貴族たちのただ中で、「神だけが偉大である」という単純な言葉を述べた。それは荘厳な瞬間であり、この言葉は厳かにすべての人の心を打った。人の無価値さと、すべてを超越する主の偉大さが、大いなる力で人々の心に押し迫った。人々は泣きむせび、その時の不思議な厳粛さに心を溶かされたのだった。

しかし、われわれは常に、自分の無価値さと神の威光と偉大さを、心に刻みつけてもらわなければならない。ある傑出した牧師が大西洋を横断していた。その牧師が毎日何時間も逆巻く海を見つめて座っていることに、乗客たちは気がついた。陽気で無思慮な群衆が、散歩でその牧師の横を何度も何度も通り過ぎた。そして、牧師の静かで真剣な表情に驚くことも度々あった。遂に、一人の若い男が牧師に歩み寄って尋ねた、「博士、そんなに興味をお持ちとは、一体何をご覧になっているのですか?」。その尊い人は若者の方に顔を向けて、答えて言った、「何も見ていません。ただ神だけです」。若者は引き下がった。神しか見えなくなる境地にわれわれが達する時、われわれの敵は引き下がらずをえないのである。

御言葉は、「しかし、自分の神を知る者は、強くなって偉業を成す」と述べている。

少しの間、個人的経験に関して、「強く」と「偉業を成す」というこの二つの言葉に注目することにしよう。われわれ自身の経験がすべてまったく無価値であることを悟る時、われわれは強くなり始める。他人の助けを放棄しない限り、われわれは決して神を見い出せない。「神だけ」を望む時、救われる時が到来する。救われた後にわれわれがよく犯す間違いの一つは、他の誰かに頼り始めるようになることである。神はわれわれを目覚めさせ、罪を認めさせ、回心させて下さった。われわれはこれに感謝するが、その後、矛盾したことに、他人に頼ってしまうのである。神がわれわれを救って下さったことを、われわれは知っている。しかし愚かにも、救いは最初から最後まで主によることを忘れて、われわれは自分自身を聖めようとするのである。聖別は、働きや、成長や、発達や、死や、進化にはよらないし、神ご自身以外の何ものにもよらないのである。

一人一人が神の個人的啓示を受けなければならない。ヤコブはペニエルの後、まったく別人になった。ヨブの人生は、「今や、私は自分の目であなたを見ました」と言えるようになってから激変した。モーセは、ホレブで神の火に遭遇した後、決して同じままの人ではなかった。ヨシュアは、もし主の軍勢の将に会っていなければ、決してエリコを取れなかっただろう。イザヤは、「高く上げられた御座の上に座しておられるエホバ」を見るまで、あまり預言しなかった。パウロは高位の聖職者だったが、ダマスコへ行く「大路」で神に出会うまで、彼の人生は失敗以外の何ものでもなかった。われわれはみな、自分のために神に出会わなければならない。神を知る個人的知識により、われわれは強くなる。積もった咎の山々は溶け去り、悲しみの大波、苦悩と混乱の波は、「川のように流れる平安」に場所を譲る。

われわれの経験だけでなく生涯の働きにおいても、われわれは強くなって、神のために偉業を成さなければならない。われわれが神をすべてのすべてとして認識し、しかるべく神を知る時、われわれはロバの顎骨を取って、千人のペリシテ人を屠れるようになる。雄羊の角でエリコを陥落させ、少年の投石器で巨人を屠り、大麦のパンをミデヤン人の宿営に転がして武装した三十万の人と戦わせることができるようになる。神は一匹の虫けらで山を粉砕することができる。神が必要とされるのは一匹の虫けらだけである――虫けらは多くないのである。

ああ、われわれが神を知ってさえいれば!もし知っていれば、われわれは天を開いて罪を裁き、罪人のために救いをもたらせただろう。牧者の杖一本だけで、堅い岩から水を流れさせて、三百万人を潤せただろう。緊急に必要とされているのは、より多くの頭脳、金銭、雄弁さ、人間的魅力、新しい方法や優れた取り決めではない。われわれに必要なのは、神、全能の神、圧倒的な神、すべてを征服する神を知ることだけなのである。

方法や手段に束縛されてしまう大きな誘惑がある。われわれは数匹の魚を捕らえると、自分の網に香を焚いてしまう。ある方法で成功を収めると、その方法が唯一の方法だと決め込んでしまう。われわれは何度も同じことを繰り返してくれるよう神に期待するが、神がそうしてくれないと失望する。

自分で事をなそうとすることがあまりにも多いのである。ゲネサレの海の弟子たちのように、われわれが自分に頼って船を動かそうとするので、主は横になって寝てしまわれるのである。われわれが嵐や危機に陥るのも無理はない。主を起こして、主が大いなる平穏をもたらされると、またもや自分で舵を握って自分で船を管理しようとすることがあまりにも多すぎる。われわれが手を付ける時、主は手を引いて大将としての地位を放棄されることがわかる。もしわれわれが神のキリストを聖霊のパースンにより認識し、われわれのためにわれわれの戦いを戦うことを彼に許しさえするなら、「主に殺される者は多い」ことがわかるだろう。「戦いはあなたのものではなく、神のものだからである」。「あなたたちはこの戦いで戦ってはならない」。「じっとして神の救いを見よ」。「あなたが生きている日々の間、あなたの前に立てる者は誰もいないであろう」。

われわれは、形式、規則、方法、人々、物事に頼るのをやめなければならない。われわれには目に見えない力、目には見えないが力強い神が必要である。

私はナラガンセット湾の美しい海を航行していた。われわれの港には、多くの素晴らしい船の間に、大きくて綺麗な四本マストのスクーナー船が停泊していた。私の横にいた友人が言った、「見て!『ウォーカー・アーミントン号』だ。この種類の船は大西洋ではこの一隻だけなんですよ」。「あの船の何が特別なんですか?」と私は尋ねた。港の他の素晴らしい船と何も違わないように見えたからである。しかし、友人は四番目のマストを指さした。そのマストは煙突としても機能していた。その船体の下部にはエンジンがあって、それで牽引船や曳航船がなくても済んだのである。その船は極めて狭い海峡の極めて入り組んだ港でも、帆を広げたり「迂回」したりせずに航行できた。私は言った、「神が私の魂を聖別して下さって以来、私は『ウォーカー・アーミントン号』のようだ。私の魂にはエンジンが据え付けられていて、それを個人的に用いることができる。私は風向きや、強い信念を持つ人や、港を出入りさせてくれる大きな力には頼らない」。

「あなたたちの内におられる方は、この世にいる者よりも偉大だからである」。外側のものにではなく、神に頼るようになればなるほど、われわれはますます「偉業を成す」ようになる。

神殿がソロモンによってささげられて、下って来た神の臨在の雲によって聖別された時、人々がしたのはただ、白い亜麻の衣を着て、歌い叫ぶことだけだった。神はその行いを嘉せられ、シェキナが下って来たため、祭司たちは奉仕できなくなった。「白い亜麻を着て」、「ラッパを吹く者たちと歌を歌う者たちが、一つになって一つの音をたてて、主に賛美と感謝をささげた時」、「宮は雲で満たされた」。われわれの一つの問題点は、自分の重要性や立場を過大評価していることである。「多くのことが自分にかかっている」と、われわれは思っている。尊大なのである。われわれが立つべき立場は、全き聖潔という白い衣を着て、立って歌うことである。

アモン、モアブ、及びセイル山の人々が、ヨシャパテと主の軍隊と戦うために上って来た時、ヨシャパテは神に叫んで言った、「ああ、われらの神よ、あなたは彼らを裁かれないのですか?われわれを攻め上って来るこの大軍にあたる力は、われわれにはまったくありませんし、どうすればいいのかもわかりません。しかし、われわれはあなたを仰ぎ望みます」。すると神は応えて言われた、「あの大軍のために恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたたちの戦いではなく、主の戦いだからである。この戦いでは、あなたたちは戦うには及ばない。あなたたちは進み出て、静かに立ち、神の救いを見よ。恐れてはならない。おののいてはならない。主があなたたちと共におられるからである」。そこで、「ヨシャパテは主に歌う者たちを定めて、聖潔の麗しさを賛美させるようにした」。「彼らが歌と賛美を始めた時、主は伏兵を設けられた」。今日もそうである。われわれが歌って、聖潔の麗しさを賛美し、期待しつつ静かに待ち始める時、主は救いを送って下さる。何度も神の僕たちは恐ろしい戦いの時に遭遇するが、何も感じていなくても主を賛美し始めると、感覚が湧き起こって来て大勝利が訪れる。祈りに合わせて賛美しようではないか。主を賛美せよ、「そのあわれみは永遠につきないからである」。

ただ神だけが自分の力であり、助けであることを悟る時、われわれは他者の救いにおいても強くなって、偉業を成すようになる。われわれはこの世の二流の事物にあまりにも多く頼っている。なぜ最善のものを得ないのか?多くの人間的な計画、仲介、改革、計画、提案があるが、人々を無限の地獄から救えるのは、神の力をおいて他には何もない。聖霊が人々を認罪に導かなければならない。また、われわれは聖霊に頼って、価値ある救いの働きをすべて達成しなければならない。ある人が言ったように、われわれは大路と垣根の経綸に生きているのである。

今は、なおざりにされてきた分野にとって大きなチャンスの時代である。神はスラムやジャングルで働いておられる。これまで働きがなされてこなかった領域で大いに働いておられる。成功を得ようとするなら、神が働いておられる所で働かなければならない。戦争が全く終結した古戦場で大騒ぎするようなことは、断じてあってはならない。

中国宣教団の高潔な創始者が一世紀前にニューヨークから広東に船旅をした。船長は軽蔑を込めて、「では、あなたは中国人を回心させに行くのですね?」と彼に尋ねた。「いや」とロバート・モリソンは言った。「神が回心させるのです」。外国の宣教地の上に重く垂れ込めている黒雲の上に、あわれみと希望の美しい希望の虹がかかっている。われわれが「神を知る」とき、神によってすべては可能になる。信じる者にはすべてが可能になる。

西ニューヨーク州のはずれに、一人の年老いた無学な鍛冶屋がいた。黒く浅い眉と大きな褐色の手をしたその鍛冶屋は、自分の町にリバイバルが起きなければならないと確信した。その町では二十五年の間、一つもリバイバルが起きていなかった。彼は自分の店を閉めて、金槌を取ることも馬の蹄鉄を打つこともしようとせず、ひざまづいて、神が応えて下さるまで叫んだ。それから、彼は後退した牧師のところに行って、「求道者の集会を告知してほしいのです。リバイバルが起きます」と言った。

「求道者の集会だって?そんなものは告知しません。私が牧師になってから、求道者は一人もいませんでした。しかも、求道者になりそうな人も誰もいません」。しかし、年老いた鍛冶屋はしつこく頼んだので、遂に牧師は鍛冶屋を追い払うために、月曜朝の夜明けに老人の家で求道者の集会を開くことを告知することに同意した。その告知をするにあたり、牧師は面倒事の責任を免れるために、十分注意して、「自分はそんなものを信じないし、誰かがそれに参加するとも思わない」と言った。しかし、夜明けのかなり前に、鍛冶屋の家は一杯になって、庭は人で溢れるほどになったのである。かたくなな罪人たちや強者どもが草の上に伏して泣き、あわれみを求めて神に叫んだ。これはみな、来た者たちに一言も話さないうちに起きた。持続的な大リバイバルが起きて、周囲数マイルの近郊に広まったのである。

われわれは、試練や戦いや命の危険の中にあっても、絶対的に神に信頼することにより、「強くなって、偉業を成す」ことができる。神はわれわれの目を開いて、火の戦車や騎手で一杯の山々を見せて下さる。そのおかげで、われわれは敵を見て、「われわれの味方はわれわれの敵よりも多い」と言えるのである。

使徒行伝一二章は、「ペテロは牢獄に捕らわれていた。しかし、教会は彼のために絶え間なく神に祈った」と述べている。この「しかし」という言葉の背後には、ヘロデの全軍勢や牢獄の柵よりも強い何かがあった。少しして、ペテロは自由になっただけでなく、ヘロデは腐乱死体になったのである。神が私の人生やあなたの人生に諸々の困難を送られるのは、それらを取り除いて御力を示すためなのである。

問題があなたの人生に訪れる時、神は「隠れてご自分の者を見ておられる。それは、あなたが神に信頼するのか、それとも、無様に絶望の中に沈むのかを見るためである」ことを思い出せ。困難を見る二つの方法がある。困難は前進を妨げる障害か、あなたを天に上げる梯子のいずれかである。神はヨシュアの進路にエリコを置かれた。それは、ヨシュアが石の城壁を雄羊の角笛で打ち崩して、幾世紀にもわたって輝き渡る勝利を得るためだった。神はダニエルが獅子の巣穴に入ることを許された。それは、ダニエルが御使いたちを驚かせ、悪魔を困惑させ、深い確信により異教の王とその部下全員に感銘を与えるためだった。神は前進するイスラエルの道に紅海を置かれた。それは、紅海を分けて、その選びの民を導いて乾いた地を渡らせる機会を神が得るためだった。パウロはピリピで獄に下ることを許された。それは、パウロが古びた獄屋の壁を揺り動かして粉々にし、看守とその家族を救い、その家に教会を設けて、他の囚人を全員解放するためだった。今日、神がご自分の聖徒たちを牢獄に行かせる時、それは、彼らが神に対して忠実であり続けて、他の誰かを彼らと共に連れ出すためなのである。牢獄に行くようなことがあっても、必ず他の誰かを一緒に連れ出さなければならない。他の人々を解放する機会を得るためなら、われわれは捕縛されても構わない。

神はパウロを、両足に鉄枷を付けてローマに遣わされた。それは、パウロが皇帝の家族の中に教会を植えるためだった。今日、神の愛する民の多くが、人から卑しく劣った者に見られることに素直に服するなら、彼らは素晴らしく用いられて、神の働きで高い評価を受けるだろう。

自分自身の計画や自分自身の力を手放そうではないか。神を引き寄せて自分の傍にいてもらおうとするのではなく、われわれが神の傍に行こうではないか。ヨシュアが「エリコに立ち向かう」主の軍勢の将に会い、ひれ伏して自分の指揮権を明け渡し、神の御子に指揮を任せたのは、幸いな出来事であった。

さらに偉大なことを求めて神を信じようではないか。西部で畜産業者が用いるある仕掛けがある。その仕掛けは飼い葉桶に自動で水を満たすものである。飼い葉桶の水を求めて動物がやって来ると、その重みで自動バネが押され、水が出る。そして、飼い葉桶には新鮮で冷たい水がなみなみと注がれるのである。しかし、動物が完全にその台の上に乗らないと、その機械は作動しない。完全に乗らなければならない。前足二本だけを台に乗せて自分の道を確かめる控えめな老牛は、決して水を得ない。完全な無条件の全き献身により、全き救いと、神を知る知識と、豊かな力が与えられて、われわれは偉業を成せるようになるのである。