第十章 展望の拡大:もしくは、霊的拡大

セス・C・リース

「あなたの天幕の場所を広くし、あなたの住まいの幕を張り広げよ。」(イザヤ五四・二)

聖書の御言葉の多くには、様々な意味や適用の仕方がある。例えば、聖書の御言葉は国民生活、教会生活、家庭生活に当てはまる。また、個々のクリスチャンの内なる生活や性格にきわめて見事に当てはまる霊的解釈を施す場合もある。もっぱら個人の経験に関するものであって、社会生活・教会生活・国民生活は二次的なものである聖書の御言葉もある。

われわれが避けるべき二つの落とし穴がある。その落とし穴は道の両側にある。一つは字義的解釈の危険であり、もう一つは霊的解釈の危険である。時折われわれは、聖書をあまりにも字義的に厳密に理解しすぎるあまり、魂のための糧をなにも得ない人に出会う。他方、聖書を極端に霊解・神秘化して、その元々の力や意義を損なってしまう聖書読者もいる。いま考えているこの節は、まずクリスチャン自身にあてはまり、次に、クリスチャンがその構成員の一人である教会にあてはまる。

預言者はここで、適切な効果的絵図という方法として、原始的な天幕を用いている。それは最も単純な人の住まいである。柱、数本の紐や添え木、小さな樹脂や幕や皮が見つかりさえすれば、どこでも造ることができる。容易に張って、ほとんどすぐに広げることができる。家族に必要なものが増えていって広い場所が必要になっても、少し長い柱、やや長めの紐、追加の樹皮や幕さえあれば事足りる。すると見よ、あなたは直ちに自分の住まいの幕を張り広げられるのである。

すでに述べたように、型としての天幕は教会と個人に適用することができる。まず第一に注目したいのは、この拡張は対称的拡張であることである。「あなたは右にも左にも押し広がる」。ヘブル語学者が言うには、「押し広がる」と訳されている言葉には「噴出する」という意味がある。これは非常に高い内圧を示唆する。なんとしても広い場所を得なければならないのである。スラムで回心して、「もし話せないなら、爆発してしまう」と言った文盲の人の考えは、まさに正しかったのである。救いは、もしそれを言い表さないなら、人の魂の中で生きながらえることはできない。救いは、祈り、証し、歌や賛美の叫びの中に押し広がらなければならない。神に満たされた魂は、霊的なベスビオス活火山である。成長の法則は、自然と贖いの両方の基本原則である。発達することが神聖な命の不可避的法則である。植物でも魂でも、成長を停止する時に死に始める。停滞は堕落と腐敗を意味する。死体は蛆虫のものである。泉が流れるのを止める時、それは水たまり、よどみ、マラリヤを発生させる沼になる。

クリスチャンは、成長か後退か、進歩か停滞か、どちらかを選ぶことができる。「前に進め」が全き救いの合言葉である。前進するか後退するかのいずれかである。あなたは回心した後、経験上大いに前進するか後退者になるかのいずれかである。もし今以上の救いを有していた時がかつて一度でもあったなら、あなたは「会葬者席」のための有力候補である。あなたは自分が堕落していることを認めたくないかもしれない。あなたは今まで以上に大声で信仰を告白し、あくせくと忙しく教会の働きに携わっているかもしれないが、今以上に信仰や愛や喜びがあった時がかつて一度でもあったなら、あなたは「恵みから落ちて」いるのであって、神の怒りに遭うおそれがあるのである。

十分な救いを得ているのにさらなる救いを欲している人々を見つけると、すがすがしい気分になる。自分が持っているものを保つ唯一の方法は、さらに増し加えることである。トルネードやサイクロンに見舞われる時もあるが、あなたの回心が全き救いで仕上っていなければ、吹き飛んでしまうだろう。救いの偉大な計画には、停滞や休みの余地はない。なんの成果も生まない遅々とした漸進主義の余地は一切ない。人生の素晴らしい際立った幾つもの期間にわたって、倍の速さで向上し続けるのである。

前進のための拠点が必要である。合理的な一歩を踏み出すには、われわれは定められた場所にいなければならない。動き回ることが前進することとはかぎらない。イスラエルの子らは国中「動き回って天幕を張った」が、ヨルダンの東にとどまっているかぎり、前進していなかった。大勢の人が風上に向かったり、風下に向かったり、後退したりして、ついには正気を全く失ってしまうが、これはおそらく、彼らもみなわかっているように、氷山地帯やジブラルタル海峡にいるせいである。

最も速く前進できる地点はシオンの山である。カルバリから上の部屋に至ることは多少の成長だが、列車がシオン山の駅を通過して「聖潔の頂」の傾斜を登り始めないかぎり、あまり前進したことにはならない。十分に成長してペンテコステに至らないのは、肉的な性質があるためである。肉的な性質はこの成長原理を阻害し、窒息させ、抑圧する。これを除くのは聖霊と火のバプテスマである。その時、神ご自身がわれわれの生活を前進させる力となる。そして、われわれは清く健全な土地に植えられて、広がり、拡大し、栄えるのである。

この拡大は全人格的なものでなければならない。片側しかない天幕は、天幕に住む者にとって恥である。偏ったクリスチャンは異常である。正しさや正義を犠牲にして愛を拡大することは、不自然な悩ましいことである。ある人々は救いの愛の面にこだわったため、福音は聖くない汚れた一切のものに反対するという永遠の真理を見失ってしまった。他方、少数の人は正義と平等にこだわったため、辛辣で口やかましくなってしまった。忍耐と柔和さの益を絶えず強調するあまり、自分の子供たちのしつけを無視する人々に、われわれは頻繁に出会う。時々、法と秩序を重んじるあまり、家庭警察や一家のボスのようになってしまう人もいる。この拡大は頭脳の拡大というよりは、むしろ心の拡大である。「心の拡大」は無害であるだけでなく、有益でもある。われわれに必要なのは新たな知性や新たな頭脳ではない。とは言うものの、心が広くなれば、われわれは今持っているものを前よりも上手に使えるようになる。どんな天才や思想家でも、その能力がたとえどれほど大きかったとしても、その有用性は神の豊かな恵みによって大いに高まるのである。

この御言葉で述べられている拡大の他のいくつかの特徴にも注目することにしよう。われわれは「惜しんではならない」と命じられている。あるいは、もっと正確には、「出し惜しみしてはならない」である。これは人の自己中心性に致命的一撃を加える。神の御旨は、利己的な魂を自分を犠牲にして自分を忘れる者に造り変えることである。「出し惜しみしない」ことは、自分の持ち物を全部気前よく与えることである。けちな魂が広くされることは決してなく、日に日に小さくなる。狭量な卑しい魂は、家庭でも教会でも、不快な厄介者である。寛大な魂は常にわれわれを祝福して助けてくれる。「施し散らして裕福になる者があり、必要なものを惜しんで貧しくなる者もある」。「神は喜んで与える者を愛される」。ゴルドン博士が言うには、「喜んで」というこの言葉は「楽しく」を意味するそうである。

ほとんどの人は、献金を取られる時、深刻な表情を見せる。しかし神の御旨は、人がふんだんに与えて、それからそれについて叫ぶことである。一人の人がいつもの一セント硬貨ではなく一ドル札を籠の中に入れて、それから、その特権についてくすくす笑い出したと考えてみよ。経験上、献金のゆえに普通の会衆が叫ぶようになるだろう。人々が栄光と神に満ちるようになって、集金人が通路を下ってくるのを見ると、頭をのけぞらせて笑うようになる日が来ると想像してみよ。

問題は、われわれがあまりにも考えすぎること、あまりにも計算高いことである。献金の訴えがなされる時、最初は一ドル与えようと思うのだが、計算を始めてしまって、財布を開く前に五十セント、献金籠が来る前に二十五セントになり、その集会の残りの時間、それを悲しく思うのである。

われわれはみな、ある教会で雲行きが怪しくなるのを見てきた。空は晴れ渡り、会衆は元気いっぱいに歌うのだが、牧師が「さあ、献金を集めますよ」と言うと、たちまち黒雲が、ニューファンドランドの霧のように、会衆全員を覆うのである。

献金がささげられる様子は、ある葬式のことを思い起こさせる。六人のたくましい若者が通路を行進して講壇の前に立ち、牧師から献金皿を受け取る。まるで司教から命令を授かるかのような深刻な責任感と厳粛さをたたえている。銅貨を集め終わると、前述の若者たちは後の扉の近くで隊列を組み、ゆっくりと、悠然と、堂々と、中央通路を闊歩する。死体を扱う丁重さで黄色い硬貨を運んで行くのである。

「惜しまない」こと、「出し惜しみしない」ことは、証しと、説教と、涙と、祈りをふんだんに与えることである。われわれが与えるものはみな、良い投資であって、複利付きで戻って来る。われわれが貯えて保存するものはみな、永遠に滅びる。日曜日に雨が降ったため、聴衆が多くなるもっと好都合な時まで説教を差し控えるなら、その間に説教は駄目になってしまい、日が出て人々が来る頃には無価値なものになってしまう。

「恐れてはならない」。拡大されることを望むなら、恐れてはならない。神の御言葉は恐れと不信仰を同列に置いていることを覚えよ。「人は自分をどうするだろう」と、どうして恐れる必要があろう。多くの人は、人々の言葉や考えを恐れるあまり、魂の内に正当な堂々たる楽しさを感じることがほとんどない。長老長の多くは司教に対する恐れから決して逃れられない。数百の牧師は長老を恐れて暮らしている。無数の教会員は牧師の声に震え上がる。なんと馬鹿げた束縛の連鎖か。互いに縛りあい束縛しあって、この哀れな人々は日に日に萎縮していくのである。狂信を恐れてはならない。狂信はかかしであって、サタンがクリスチャンを怯えさせて、クリスチャンが持つことを神が望んでおられるものから遠ざけるためのものである。事実、世界に狂信はごく僅かしかない。しかし、形式主義は膨大にあり、これこそ最も警戒を要するものである。冷淡な一万人に対して、狂信者は一人である。一万人のブレーキ係に対して、機関士は一人である。どうか神がわれわれに聖霊の機関士たちを送ってくださいますように!拡大されることを望むなら、あなたの魂の調整弁を完全に閉じてはならない。直通弁を開き、スロットルを全開して、石炭をすくえ。

脱線を気に病んではならない。本線から外れることや、ボタンを押し間違えて自分の列車を壊すことを恐れてばかりでは、決して乗車を楽しめない。聖霊に信頼して、あなたの聖書を熱心に読み、あなたのエンジンを適切に駆動させよ。「脱線」に関するこの単調な叫びは、試合の世界でいわゆる「陳腐」なものになっているのである。

羊を飼っていて、「狼だ!」と叫んだ少年のことが、読本に記されている。そのゾッとする出来事を、われわれはみな覚えている。われわれは「狼だ」という叫びをしばし聞いてきた。そして今では、その叫びを聞くと、きまって微笑んでしまう。しかし馬鹿馬鹿しいのは、結局のところ、神癒やイエスの再臨が「脱線」とされている事実である。この善意の人々が騒々しく喚くのを見ると、私はおかしさを禁じ得ない。なぜなら、その人々によると、イエスは三年間「脱線」していたことになるからである。というのは、イエスは至るところで癒されたからである。また、使徒たちも本筋を外れたことになる。彼らも病める人々を癒したからである。また、あらゆる時代の傑出した聖徒たちも溝に落ち込んだことになる。癒しを信じて経験したからである。

パウロは、中傷者たちの偽証にもかかわらず、イエスを待ち望んだ。初代教会は、毎日、キリストの再臨を待ち望んだ。ああ、われわれが神を信じられますように!ああ、主よ!全き完全な福音を大胆に宣べ伝える高潔な英雄たちの群れを送ってください。

「綱を長くせよ」。深みに漕ぎ出せ。一本の櫂で浜辺をうろつくのをやめよ。櫂を一本しか持たない人々は堂々巡りする。多くの人がまさにそうしている。数年前に彼らは聖められ、それ以来、大いにはしゃぎまわっている。経験としての聖化は、終わりではなく始まりである。ヨルダン川を越えて、さらに進まなければならない。あなたの環境、困難、仕事、重荷、試練、病、誘惑、必要に、主を迎え入れよ。カナンの地の中で冒険を試みよ。「あなたの内にある神の賜物を奮い立たせよ」。神があなたに与えてくださる光の中を歩め。躊躇せず、神の奉仕の中に飛び込め。世人は燃える建物から人々を救い出している。梯子の長さが少し足りないので、勇敢な消防士たちは梯子の上に立って、自分の身で高さの不足を補っている。人々はその体を伝って降りて救われている。人々がわれわれの上をよじ登ったり、踏みつけて歩いたり、ズカズカとわれわれの上に乗るのを、もしそれでわれわれが神の御霊を表すことができるなら、われわれは喜んで受け入れなければならない。ダビデは言った、「あなたは人々にわれわれの頭上を行かせたが、われわれを豊かな場所にもたらしてくださった」と。

「杭を強固にせよ」。どうやってか?祈ることによってである。密室の祈りで杭を強固にせよ。ジョン・エリオットは、「仕事がありすぎて、多様な試みに遭う時、私はこの世の知らない動力を用いる」と言った。それは祈りの動力である。杭を下ろして、それがしっかりするまで祈れ。

われわれは、聖書に対する信仰を強固なものにすることにより、われわれの杭を強固にするべきである。なぜなら、聖書は神の言葉だからである。心を尽くして聖書を信じる時、われわれの人生と救いは聖書の確かさに対する確信の上に築かれるようになる。

霊的拡大の一つの大きな妨げは保守主義である。昔のわだちに執着しているせいで、もっと良い道があっても、それから離れるのが難しいのである。あなたの馬車は相変わらずの単調さで昔の道を進んできているので、習慣の法則により、拡大はほとんど不可能である。いわゆる「礼儀正しさ」、「秩序」、「組織」に対する愛着を捨てなければならない。なぜなら、聖霊はわれわれの規則や決まりによって動かれないからである。文化の慣例や「言い伝え」の遵守を超えて進むべき時である。偉大な動きはみな、偉大な思想から始まる。新鮮な活き活きとした思想なしに進歩はない。中国は三千年間同じままである。その教師が死んでいるからである。もし中国が太平洋を超えて呼びかけるアメリカの声に耳を傾けるなら、数年以内に若返って劇的に変わるだろう。われわれもまた、神の約束に対するもっと広い観念を持ち、われわれの遺産の巨大さをもっとよく理解しなければならない。時流は安楽さ、静けさ、休止に向かっている。しかし神が願っておられるのは、われわれを気怠い寝床から追い出して、ずっと向こうに、もっと広々とした場所に行かせることである。

われわれにはさらに大きな愛が必要である。この世は今日、純粋な、聖なる、甘い、へりくだった愛を渇望している。人々は生きている間、花々と陽光と親切な言葉を必要とする。棺桶や墓場の上に置かれた花屋からの花束や花輪や十字は無意味である。微笑み、応援、励ましは、人生において無上の価値がある。

われわれにはさらに大きな信仰が必要である。神の偉大な約束の豊かさを捉える信仰、あらゆる緊急事態の水準に応じる信仰が必要である。さらに大きな喜びが必要である。神の賜物を喜ぶ喜びだけでなく、神ご自身を喜んで、神ご自身を自分の分け前、無限の永遠なる楽しみとする喜びが必要である。聖書が述べているように、われわれはあらゆる誘惑の中で、「それをみな喜ばしいものと見」なせるだろうか?「絶えず喜」べるだろうか?

われわれにはさらに大きな働きが必要である。われわれの関心や祈りはあまりにも偏狭である。われわれは一つのことにしか打ち込めないかもしれないが、あらゆる良い働きのために関心と思いやりを寄せるべきである。そのようにして、われわれは「あらゆる良い働きに満ちる」ことができるのである。御座を通して、われわれはあらゆる土地、あらゆるクリスチャンの働きに触れるべきである。

われわれやわれわれの働きを広げる神の方法を拒絶したり、それに不平を鳴らしてはならない。弟子たちは文字どおりエルサレムから追い出されて、全世界に急いで送り出された。「離散」が益になることを、神はご覧になったのである。まるで、鷹が自分の巣を掻き乱すかのようである。そのように、神はしばしば掻き乱して、われわれの領域をさらに広く、さらに生産的にしてくださる。殻を砕いてわれわれを外に出してくれる迫害がなければ決して見れないきわめて幸いな所に、われわれは入るのである。

われわれはさらに大きな希望を持つべきである。全教会の中で最良の人々は、上の方を見つめて待ち焦がれている人々である。われわれの主は来られる。主を仰ぎ見ようではないか。「しかり、主イエスよ、速やかに来たりませ」。結論として、われわれに向かって造られる武器が功を奏することはないことに注意しようではないか。舌――嘘をつく舌、欺く舌、中傷的な舌――ほど鋭い武器はない。しかし、神はあらゆる舌を麻痺させ、「主に油注がれた者」に向かって上げられたすべての手を萎えさせる。「あなたが生きている間、あなたに立ち向かえる者はだれもいない」。「この戦いはあなたの戦いではなく、神の戦いである!」。栄光!ハレルヤ、アーメン!