第十一章 豊かな供給

セス・C・リース

「神はあなたたちにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたたちを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のある御方である。」(二コリント九・八)

人の諸問題の領域で、超人的かつ神聖な力の働きを予期・期待する完全な権利を、われわれは持っている。この方面における期待がもっと大きかったなら、大いにわれわれの益になっていただろう。信仰を告白する多くのクリスチャンたちは、ほとんどなにも期待しないし、失望することもない。

この文脈に注目しよう。この御言葉や他の聖書の御言葉は、「与えれば与えるほど、ますます得る」という恵みの法則をわれわれに教える。これは人のあらゆる慣例や理屈とは反対である。世人は言う、「裕福になりたければ、得るものをすべて貯えて、可能なかぎり得よ」と。神は言われる、「行って、あなたの持ち物をすべて売り、貧しい者に与えよ」と。「しかし、私は言う。乏しく蒔く者は乏しく刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取る」。「神は喜んで与える者を愛される」。ボストンのA.J.ゴルドン博士は、この御言葉の文字どおりの訳は、「神は楽しく与える者を愛される」であると言った。与えた後、幸せそうに叫んでいる人のことを考えてみよ!聖なる歓喜に包まれて自分の金を神に注ぎ出している人のことを想像してみよ。

農夫は出て行って自分の穀物を蒔く。肥沃な渓谷の場合、農夫がエーカー毎に三ブッシェル蒔くなら、六十から七十ブッシェル刈り取る。しかし、農夫が穀物を惜しんで、けちけちした蒔き方をするなら、半分の穀物しか刈り取れない。「乏しく蒔く者は乏しく刈り取る」。

神の御旨・御計画は、われわれの心、唇、手というパイプ、管、蛇口を通して、この大きな飢え渇いている世界を潤すことである。神が望んでおられるのは貯水池ではなく水路である。

神には力がある。立ち止まって、「力のある」というこの御言葉について熟考せよ。姉妹よ、あなたはこの御言葉をあなたのあらゆる困難の上に書き記すことができる。あなたのあらゆる失望の上にペンで書き記し、あなたのあらゆる恐れの上に刻印し、あなたのあらゆる疑いや問題の上に掲げることができる。兄弟よ、この御言葉をあなたの売り台の上に刻みつけ、あなたの仕事机の上に掲げ、あなたの仕事の中に組み込め。友よ、信仰の絵筆を取って、この御言葉をあなたのミシン、料理コンロ、洗濯槽、あなたの愛する者の病床の上に描け。あなたを常に脅かすどす黒い雲の上にかかる虹のように、この御言葉を張り広げよ。「神は力のある御方である」

神には助ける力があるだけでなく、常に力ある御方である。金がいっぱいある時、友だちがたくさんいる時、株が上がっている時、安泰な状況の時、家族が健康な時、太陽は照り輝き、鳥はさえずり、花は咲き乱れている時、確かに神は力ある御方である。しかし、神に感謝せよ、金がなくなった時、株が紙切れになった時、友人たちが冷たい時、空が失望で暗い時でも、神は同じように力ある御方なのである。神は常に力のある御方なのである。

見よ、あの老いた鷹を。高い岩山の上に座って、近づく嵐を鋭い目つきで見ている。垂れ込めた雲が空を暗くし、稲妻は閃き、雷鳴が轟いている。鷹は目を太陽に向ける。鷹は太陽の鳥だからである。鷹は荒ぶる雲の後に太陽が隠れるのを見つめる。じっと動かない。嵐が自分の頭上あたりに来るまで待つ。すると突然、鷹は金切り声を上げ、翼を広げて、嵐に向かって突き進む。嵐がひどくなればなるほど、鷹は暴風雨の岩山を高く上り、ついに雲の上に到達する。太陽は輝き、すべてが穏やかな所である。問題から逃げたり、反対に屈服する代わりに、嵐の中に飛び込もうではないか。神はあらゆる恵みを豊かに与えて、われわれを滅ぼそうとしていたものを利用してわれわれを高く高く上らせる力のある御方である。そうして最終的に、われわれは太陽の真ん前に出るのである。

「富ませる」というこの御言葉は、考慮に値する御言葉である。この御言葉は溢れ流れることを意味する。自分の欲しいものや使えるものを持つだけでなく、与えるものをも持つことである。「いっぱいに積み上げ、押し入れ、ゆすり入れられて、溢れ流れること」を意味する。

筆者はかつて、ある学校の建物の向かいに住んでいた。毎日午後四時になると、四、五百名の子供たちがそこから出て来た。子供たちは順番に出てくることになっていた。敷地を離れるまでこの規則を守れなかった子供はみな、戻って教師と共にいなければならなかった。時々、順序を守らない子供が出ると、最終的に大勢の子供を叱るはめになったようである。その大勢の子供たちとは誰か?学校で最も健康な子供たちである。その子供たちには豊かな命があった。その子供たちを命令に従わせることはできなかった。聖霊に満たされる時、あなたは形式や一定の規則を守れなくなる。人々はあなたに向かって「規則を守れ」と叫ぶが、あなたは無意識のうちに一線を踏み越えて、決まりにうるさい人たちに衝撃を与えるのである。

私の家の敷居をまたぐ時、必ず祝福をもたらしてくれる人々がいる。彼らは去った後も、芳香を残す。他方、去ってくれてほっとする人々もいる。噂話や無駄口で家に呪いをもたらす人々を、あなたは家に迎えたことがあるだろう。他方、御霊に満たされていて、去った後も数日間その良い影響を感じられる人々が来たこともあるだろう。

われわれは富むべきである。これを人々は一般的に理解しているようである。われわれの聖なるキリスト教にはなにかしら自然に流れ出るものがなければならない、と人々は感じているようである。その霊性と自然な流れを失う時、諸教会はその代替物を探し始める。われわれクエーカーが魂から発する歌と「心」から発する託宣を失った時、われわれは雇われ聖歌隊や金目当ての牧師を信じないで、帽子をかぶったまま手を組んで静かに座ったものだった。他の教会は後退すると、市場に行ってカナリヤや雄弁家を買い、前者を止まり木の上に、後者を演壇に据えて、「さあ行け、今日われわれを楽しませてくれ」と言う。しかし、教会が聖霊に満たされているなら、宣べ伝えや歌を歌う特権を決して手放さない。教会は自分で礼拝し、天を地にもたらすのである。

最近、われわれは最新の講壇の呼び物の一つを耳にした。ニュー・イングランド市のある牧師が、自分の講壇の正面に小さな泉を造ったというのである。その牧師が日曜の朝にぱっとしない短い説教を読んでいる間、その泉は美しい流れを流し出す。その講壇やその土地の他の講壇のあるべき姿をなんと象徴していることか。どこかに泉や噴水があってしかるべきことを、その牧師はかすかに感じていたのだろう。会衆席にそれが見あたらず、講壇にもなかったので、牧師は両者の間に泉を一つ設けたのである。

われわれが「すべての良いわざに富む」のは、神がわれわれを富ませてくださった後のことである。すべての良い動機に満ちることが可能になるには、われわれは神に満たしてもらわなければならない。この豊かさにより、自分の関心事以外には興味を持たない性向が取り除かれるのである。

ああ、聖書は豊かな福音になんと満ちていることか!確かに、神の恵みはわれわれに対して豊かであり、「われわれが求めまた思うところを遥かに超えて豊か」である。というのは、われわれは「信仰」に溢れ、「感謝に溢れ」、「喜びに溢れ」るべきだからである。それはわれわれの「喜びが満ちる」ためである。然り、われわれの「愛」は「ますます満ち溢れ」なければならない。「神を喜ばせること」と「寛容」と「望み」に「満ち溢れ」なければならない。これらのものが「われわれの内にあって満ち溢れるなら、われわれの主イエス・キリストを知る知識について、われわれは怠る者、実を結ばない者になることはない」。「こうして、われわれの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の王国に入る恵みが、われわれに豊かに与えられるからである」。

兄弟たちよ、最後には旗と優勝旗をはためかせつつ、帆にいっぱいの天のそよ風を受けて中に入り、われわれの船の錨を永遠の故郷の港に下ろそうではないか。