第十二章 圧倒的な勝利者

セス・C・リース

「しかし、われわれを愛してくださった方によって、われわれはこれらすべての事において圧倒的な勝利者なのである。」(ローマ八・三七)

聖なる戦争のすべての戦いで勝利者になることは途方もないことである。しかし、「すべての事において圧倒的な勝利者」になることは遥かに偉大である。

たかだか一時的な敗北で何度も何度もひどく悔しがる神の民がとても大勢いる。神が勝利の命、完全な勝利の命を備えてくださった以上、われわれはその命を知るべきである。十字架の贖いがわれわれのすべての必要に十分な救いを備えてくれた以上、われわれはその救いを持つべきである。「勝利者」、しかも「圧倒的な勝利者」なるものが存在する以上、それに達しないわけにはいかない。今晩、われわれはその意味を知らなければならない。神の御言葉を注意深く学んだ後、われわれは全き確信を得た。「圧倒的な勝利者」になることは、第一に、家庭の中で、自分自身の心や自分自身の生活の中で、またわれわれ自身の家庭や社会集団の中で、決定的勝利を得ることを意味する。とても多くの人々は、決定的勝利について疑問に思っているせいで、敵のさらなる攻撃を招いている。多くの人は究極的成功の確信を心に抱いていない。そのせいで、敵は大いに奮い立ち、自分の軍勢を集めて再来するのである。

圧倒的な勝利者になることは、ある問題に永久に決着をつける勝利を得ることを意味する。ゲティスバーグ、ワーテルローのように、紛れもない確実な勝利を得ることである。その勝利はなんらかの問題に決着をつけるものなので、その問題はそれ以降一件落着である。この勝利を得る時、われわれは悪魔に向かって大声で「否」と言うようになる。そのため、その声は地獄の回廊中に響き渡り、悪魔どもはみな知るようになるのである。自分たちは敗北しており、われわれは勝利していることを。これが起きる時、サタンは同じ地点にいつまでも新たな攻撃を加えられなくなる。あなたは承知しているだろうか?真のクリスチャンの試みや試練は、常に新たなものでなければならないことを。また、同じ戦いを何度も何度も戦ってはならないことを。今日、われわれは問題に決着をつける勝利を得るべきである。そうするなら、悪魔が再びやって来る時、悪魔は別の方面から新たな策略でわれわれを攻撃しなければならないのである。

クリスチャンの遭う誘惑が常に同じものである時、なにかが根本的に間違っている。勝利を得ること、勝利を得てそれを悪魔に知らしめること、勝利を得て御使いたちにそれを知らしめること、勝利を得てそれをこの国の人々に知らしめることは可能である。そのとき、われわれは勝利を知り、勝利はもはや未決着の問題ではなくなる。また、もはや再結集した軍勢と共に再来するようサタンを招くこともなくなる。偉大なる神よ、揺るぎないものをわれわれに与えたまえ!神はそうすることを願っておられる。今晩、これが神の御旨である。

決定的勝利により、切り抜けられるかどうかに関するわれわれの疑問に決着がつく。今日、多くの人が抱えている大きな疑問は、一体これから最終的にどうなるのかということである。この疑問の重要性を私は認める。船が綱をほどき、染みのない帆を広げて風を受け、すべての旗をひらめかせつつ堂々と出航することと、荒れ狂う暴風雨に遭遇して、逆巻く大波を突っ切り、首尾良く荒海を乗り切って、無事に港に入ることとは別問題である。人が回心すること、素晴らしい回心をすること、罪の縄目と束縛を投げ棄てること、帆を広げて風を受け、希望と旗を高くひらめかせつつ、一連の集会の時に出航することと、その人が翌週嵐に遭い、翌月荒れ狂う大波に遭い、一月と二月と嵐の三月の間、恐ろしい夜の漆黒と暗闇に遭うこととは別問題である。その人がこれらの試みや試練に遭うことと、最終的に、帆が全くボロボロの古びたボロ船のように曳航船に引かれて入るのではなく、旗と優勝旗をひらめかせつつ、「豊かな恵みにより」、イエス・キリストの王国の中に颯爽と入ることとは別問題である。

神がわれわれを不動の者にする福音を備えてくださった以上、神はわれわれを不動の者に保つ恵みをも備えてくださったのである。神が今日われわれに勝利を与える救いを備えてくださった以上、神の十分な恵みにより、われわれは翌週を駆け抜け、翌月の試練や困難を征服し、永遠に進み続け、登り続けるのである。神の十分な恵みはわれわれを担ってアレゲーニー山脈を越えさせ、ロッキー山脈を越えさせ、アルプスを越えさせ、天の川を越えさせ、天の中に駆け込ませる。堕落する余地を設ける代わりに、これを信じてこれに期待するよう、神がわれわれを助けてくださいますように。

また、愛する人よ、圧倒的な勝利者になることは、将来激励する者となるのに必要な資格や適性を得る助けとなる勝利を得ることである。敵を追撃することと、敵を捕らえて連れ帰り、われわれの軍隊で戦わせることとは別問題である。勝利者になることは悪魔と戦って打ち負かすことだが、圧倒的な勝利者になることは悪魔をつかまえてわれわれの奴隷として行動させることである。

大抵のクリスチャンは、敵を追撃することに成功すると満足を覚える。しかし、神がわれわれにはっきりと教えてくださっているように、われわれは敵を追撃するだけでなく、敵に追いつき、悪魔の軍隊から人々を奪取して十字架に連れ帰り、悪魔どもを追い出して御使いたちを招き入れなければならない。そして、罪人たちの中から聖徒たちを建て上げ、悪魔に捕らわれている人々の中から神のための戦士たちを建て上げなければならない。これを行う十分な力を持たないかぎり、われわれは決して圧倒的な勝利者にはなれない。

われわれに圧倒的に臨む勝利もあれば、敗北と同じくらいの代価を要する勝利もある。軍隊生活では、敗北と同じくらいの代価を要する勝利がある。そのような代価があと少しでも増えようものなら、勝利の軍隊は滅んでしまうだろう。あまりにも全面的で途方もない圧倒的なものであるため、すべての人が希望と感謝に満たされる勝利もある。クリスチャン経験もそうである。サタンに対して勝利しても、それを乗り切った時、「自分は落ちぶれて弱くなり、疲れ切っている」と感じるあまり、あなたは長いあいだ別の戦いを戦えないかもしれない。

御言葉が告げているのは勝利だけでなく、たんなる勝利を超えたものである。それは余力を残した勝利である。そのため、われわれは貯えられている力を使って勝利するのである。別の悪魔を打ち負かすのに十分な恵みによって、悪魔を打ち負かすのである。この福音は十分大きく、この恵みは十分広い。そのため、今いる悪魔どもを打ち負かすだけでなく、今いる悪魔の百万倍の悪魔どもがいたとしても、それをことごとく打ち負かすのに十分なのである。

神はご自身の民のために十分な恵みを持っておられる。神の民がそれを受け入れるなら、可能な事だけでなく不可能な事をも成就できる。圧倒的な勝利者になることは、まさにそうすることを意味する。勝利者になるのは素晴らしいことだが、「圧倒的な勝利者」になるのは遥かに素晴らしいことなのである。

ダビデは五つの丸石で巨人に立ち向かったが、一つの丸石で巨人を倒し、四つの丸石を残して戻って来た。さらに四人の巨人を倒す用意ができていたのである。ダビデは圧倒的な勝利者だった。あなたならおそらく、自分が持っている丸石を全部投げて、最後の一撃で巨人を倒せれば上機嫌になるかもしれない、しかし、ダビデは最初の一撃で巨人を倒した。まさに「圧倒的な勝利者」だったのである。これが余力を残して勝利することである。しかし大抵の人は、勝利したときなにも残っていない。勝ったとしてもとても弱っているせいで、すぐに別の戦いに参入する気にならない。神の御旨は、われわれがすぐに別の戦いを始めるのに十分な余力を残して勝利することである。

パウロとシラスが牢獄にいた時、彼ら自身が外に出ただけでなく、他の人々をも連れ出したことを私は思い出す。彼らは「圧倒的な勝利者」だった。ほとんどの人は牢獄に入れられると、自分が外に出られさえすれば喜んで、他の人々のことは顧みない。しかし、パウロとシラスは歌を歌い、祈った。そしてついに、古い牢獄は揺れ動き、扉は開き、囚人たちは外に出たのである。

今晩私が話している祝福をあなたや私が得る時、われわれは牢獄に行って、いくばくかの人を連れ出せるようになる。神は時としてとても窮屈な場所に私を入れるが、私を連れ出す時、私と共にだれかを連れ出される。その時こそ、真夜中に牢獄の中でわれわれを歌わせる救いをわれわれが得た時である。牢獄の中にいるから歌うというよりは、むしろ他の人々が外に出て行くから歌うのである。神は看守になる特権を授けてわれわれに栄誉を与えてくださる。それは、われわれが囚人たちを解放できるようになるためである。これが圧倒的勝利者である。

ダニエルが獅子と一緒に眠った時、彼は勝利者だった。獅子と一緒に眠るには、霊の偉大な勝利が必要である。大抵のクリスチャンなら、起きて獅子を見張っていただろう。「見張る」よう教わっている、と言っただろう。ダニエルは出て来た時、ずば抜けて「圧倒的な勝利者」だった。ヘブル人の子供たちは、火の中を歩いても焼かれなかった時、勝利者だった。しかし、神の御子が炎の中を彼らと共に歩まれ、彼らが出て来て不信仰を征服し、悪魔どもに無力な怒りの歯ぎしりをさせて元いた地獄に追い返した時、彼らはずば抜けて「圧倒的な勝利者」だったのである。

天の神よ、われわれのこのちっぽけな取るに足りない宗教から、われわれを救いたまえ。衝撃力があるもの、他の人々を揺り動かすものを与えたまえ。命を宿しているもの、他の人々に命を与えるものを与えたまえ。それは来たりつつある。神はわれわれの目を開いて、われわれがあまり見ておらず、あまり知らないものを見せてくださる。われわれが完全に聖められる時、われわれはその豊かな貯えの封を切っただけで、使い尽くしたわけではない。悪魔どもの連隊の前をあえて進む人々の群れを起こすことを、神は願っておられる。

また、圧倒的な勝利者になることは、戦利品を得る経験をすることである。アモン人の子孫たち、シアー山の民がヨシャパテと戦うために上って来た時、彼は神に向かって叫んだ。すると、神は圧倒的な勝利を送ってくださったので、ヨシャパテが戦利品を集めるのに三日かかった。神の御旨は、われわれが道中ずっと勝利を得て、戦利品を得ることである。

包囲された民が都の外に出て、その宿営が荒れ果てているのを見いだした時、サマリヤの飢饉はたった一日のうちに盛大な祭りに変わった。神の御旨は、われわれにある経験をさせることである。その経験により、われわれは飢饉の地区の真っただ中に、荒廃した荒野の真っただ中に送り出され、そこを薔薇のように花咲く地とし、飢饉に見舞われた国を祝祭に転じさせて、必要なものをすべて得るのである。神に栄光あれ!

また、圧倒的な勝利者になることは、新たな領土を獲得することを意味する。聖潔運動の問題の一つはトコトコと堂々巡りしていることであることを、あなたはご存じだろうか?明らかに御霊に満たされたにもかかわらず、まるで御霊に満たされたことがないかのように今日無力な数千の人々がいることを、あなたはご存じだろうか?これはなぜか?すでに成就済みの狭い境界に制限されることを喜んで、外に飛び出して新しい領土を獲得することを恐れているためである。「圧倒的な勝利者」になることは、新しい領土を獲得することを意味する。エリコの壁を打ち倒すことを意味するだけでなく、立て続けに三十一人の王を征服することを意味する。

間違いなく救われてはいるが、狂信的になることや極端に走ることを恐れるあまり、救いの証しやきよめの証しを時々するだけになってしまった人々が大勢いる。彼らにはそれしかないのである。

しかし、今晩私が述べていることを知っている人々は、この第一と第二の経験以上のものを持っている。第三の祝福のことを言っているのではないし、この二つの時期に比肩する大事な時期のことを言っているのでもない。なぜなら、この二つの時期――カルバリと二階の部屋の溶鉱炉――は人の生涯で大事な時期だからである。私が言っているのは、もし進み続けるなら、われわれは体においても勝利を得るということである。われわれは自分の環境の中で勝利を得るだろう。あらゆる種類の事柄に対して勝利を得るだろう。そして、われわれは日々新たな場所、新たな経験、新たな喜びの中に入るだろう。神とその恵みを新たに見て、イエス・キリストにあるわれわれの嗣業の素晴らしさをいっそう感謝するようになるだろう。われわれのキャンプファイヤーの灰が二晩同じ場所で見つかることは決してないだろう。昨晩われわれが滞在した場所を見つけたければ、おとといの晩われわれが滞在した地点より高く上らなければならないだろう。真に進歩し続けるクリスチャンの軍隊を神が獲得されるとき、遠からず、「この世は卒倒し」、全世界に福音を広めるというイエス・キリストの偉大な委託は達成されるだろう。

御言葉は「これらすべての事において」と述べている。どのような事か?第一に述べられているのは艱難であり、これは「鋤」を意味する。農場に行ったことがあるなら、鋤がどういうものか知っているだろう。鋤は鋭い歯の付いた道具で、それで土塊や石をひっくり返して転がし、粉々に打ち砕くものである。あなたは鋤の下にいたことがあるだろうか?そこで勝利を得ただろうか?あなたは艱難の中で圧倒的な勝利者だっただろうか?鋤で耕されることは、殺されるよりもずっと大変なことである。瞬殺されるのは本当に贅沢なことである。しかし、苦しめられ、打たれ、転がされ、ひっくり返され、何度も何度も転げ回されること――これが艱難である。しかし、「彼らは大きな艱難から出て来た」。しかも彼らは、その中で「圧倒的な勝利者」になるまで出て来なかったのである。人々がわれわれを突く時、蹴る時、ひっくり返す時、それでもわれわれを優しく保つ経験をしないかぎり、神がわれわれのために備えてくださっているものをすべて得ているとは言えない。

「何がわれわれをキリストの愛から引き離すのか?艱難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か?」。

愛する人よ、神の御旨は、艱難の中だけでなく苦悩の中でも、われわれを圧倒的な勝利者にすることである。大きな苦悩、恐ろしい苦悩の中でも、われわれを圧倒的な勝利者にすることである。立ち止まって教会史の実例を挙げるとしたら、私はこのことに思い当たる。何度も何度も、最もたいへんな試練の時に、神の聖徒たちは圧倒的な勝利者だったのである。

迫害!あなたは迫害をどう受け止めるだろうか?人々があなたを迫害する時、あなたはどう感じるか?だれかがあなたのことを悪し様に話すのを聞いた時、あなたはどう感じるか?あなたを害することを望む人々、悪意に満ちたずるい人々、そして、あなたを害するためなら全力でなんでもするような人々がいることを知ったら、あなたはどう思うか?あなたは「圧倒的な勝利者」だろうか?

迫害に耐えられる人は、今日、ほとんどいない。人が退けられるとき大きな問題が生じるのを、聖潔の群れの中にすら見かけて、私は痛みを感じてきた。人々が私を退けたからといって、それが何だというのか。それより良いどんな待遇を期待する権利が私にあるのか知りたいものである。われわれの主よりも良い待遇を期待するとはどういうことか?艱難で大騒ぎするのをやめて、大騒ぎするに足る事が起きるまで待つよう、神がわれわれを助けてくださいますように。天の神が、すすり泣き、作り笑い、泣き言、苛立ちから、われわれを救ってくださいますように。そして、われわれに敵対して臨むあらゆる力に対して、われわれを勝利者とする恵みを与えてくださいますように。

この祝福を受けている人がいることを私は知っている。ここに、それを受けている人がいることを私は知っている。私は一人の人を知っている。その人は、自分について人々が述べている酷い話を、様々な新聞で読んだ。その話はその人の忍耐を試すものだったが、かえって彼を飛び上がらせるように思われた。私は知っている。人々がある人に向かってあらゆる種類の悪口を言ったとしても、神はその人を紐で釣り上げて宙返りさせることができる。私は知っている。神は迫害の中でわれわれを「圧倒的な勝利者」にすることができる。神に何が出来るのか、その実例を見るたびに、私は大いに勇気づけられる。ああ、神よ、イエスのために、このような人々を増やしたまえ。

「飢え」。「飢饉」の場所に入るたびに、口が固まって黙って座り込んでしまう聖潔派の人々が大勢いる。今日、そのような場所がたくさんある。飢饉は都会のほとんどすべての教会に見いだされる――福音の飢饉、魂の真の糧の飢饉である。しかし、だからといって、声を押し殺したり、黙って引き下がっていいのだろうか?そのような時は、飢饉の中でも「圧倒的な勝利者」になれることを証明するチャンスである。私は心に堅く信じているが、素晴らしい確固たる聖霊の福音を担う人が二、三人でもいれば、ほぼどんな種類の飢饉も祝宴に転じることができる。私は時々、ひどく干からびた教会に行く。この前、ニューヨーク市に行った時のことである。私は退役者名簿のことで、少しの間、大切な妻を待っていたのだが、その時、その大都会のある教会に潜入した。私の心は飢えていた。私は大きな重荷を負って飢えており、幾ばくかのパンを欲していた。私は講壇を見上げたが、そこにパンはなかった。会衆席を見たが、そこにもパンはなかった。そこで私は言った、「主よ、あなたは私の期待を裏切らない御方です。一緒に少し食べましょう」。すると、主は食卓を設け、亜麻布をかぶせ、食器とコップを並べてくださり、われわれは一緒に夕食を食べたのである。主はご自身と一緒に夕食を備えてくださった。あなたや私がこの経験をする時、われわれはいつでも夕食を食べられるようになる。説教者がわれわれを養ってくれなくても、キリストにわれわれのささやかな食卓を設けてもらって食べればいいのである。そして、その食卓のおこぼれにあずかれる人がだれか見つかるなら、われわれはその人たちをも養えるのである。神は飢饉の中でもわれわれを圧倒的な勝利者にしてくださる。今日、多くの飢饉がある。乾いた場所でわれわれを水の井戸にする経験を、神はわれわれに与えてくださる。われわれの周りの人々は、なんと飢え渇いていることか!「あり余るほど多くのもの」を持っていたなら、どれほど多くの人を潤せたかわからない。

「裸、危険、剣」。あなたはこれに驚いたかもしれない。しかし、私は信じているが、食べ物や着物や粗末な家といった問題のせいで後退する人々が、他の問題で後退する人々よりも最終的に多いのである。ほとんど着るものが無い時がパウロにあった。しかし、彼は裸でも「圧倒的な勝利者」だった。けちな諸教会が彼に金を払おうとしないことでもないかぎり、彼は決して天幕造りをしようとしなかった。その後、彼は天幕を造って、着物を買って再び宣べ伝えに出かけるのに十分な費用を稼いだ。しかし、天幕を造っている時も、宣べ伝えている時と同じように、彼は勝利者だったのである。私はそのような者になりたい。われわれがこの水準に達することを私は望む。これらのものがここにあるのがわかるが、私は信じる。神は、これまでわれわれが目にしてきたものよりも無限に偉大なものにわれわれを到達させようとしておられるのである。われわれはこれらのものを持っているだろうか?

「剣の危難」。今日、人々はどれほど脅かされていることか!諸教会の中で脅かされ、諸教会の外でも脅かされている。「聖潔の宣べ伝えや聖潔の証しをやめないなら、会堂から追放するぞ」と脅かされているのである。まあ、会堂から追放されることはあまり悪いことではないが、われわれが望んでいるのは、追放される時、心のうちに勝利を得ることである。友人がいない時、優しい言葉をかけてくれる人がだれもいない時、心のうちに勝利を得ることである。集会の後だれかと話そうとしても、その人たちは他のだれかと話すのに大忙しの様子で、われわれを冷たくあしらい、われわれと握手する時間もほとんどなさそうな時、そこで立ち止まって、心の中で十日間の野外集会を開けるほどに、われわれを上機嫌にさせてくれる救いをわれわれは欲する。

愛する人よ、われわれに臨みかねない恐ろしい事がいくつもある。自分に何が臨むのか、私にはわからない。しかし、私は知っている。われわれは恐ろしい時代に生きているのである。また、私は知っている。無限地獄の門が燃え上がっている此岸のどこにおいても、われわれを「圧倒的な勝利者」にする経験を、この御言葉はあなたや私に提示しているのである。神の恵みにより、この道を進み抜くことを私は決意している。この一事を私は知る。聖霊を受けないかぎり、この経験を得ることは決してない。聖霊だけがわれわれの戦いを戦うことができ、聖霊だけがわれわれの敵を打ち負かすことができ、聖霊だけが供給を与えられるからである。もし聖霊を受けておらず、聖霊をあがめておらず、聖霊に仕えていないなら、成功する見込みはない。回心してから、あなたは聖霊を受けただろうか?

一八九八年十二月三日、シンシナティでの説教

祈り

ああ、主なる神よ、われわれのこんなにも多くの者たちが今晩聖霊を受けて圧倒的な勝利者になったことを、うれしく思います。聖霊はここに今晩大いなる力をもって臨在しておられ、まだ聖霊を受けていなかった人たちの心に間違いなく語りかけておられます。また、聖霊を受けている者たちを大いに励まして祝福しておられます。あなたは、さらに大いなることのためにわれわれを整えておられます。今晩のこの集会は、われわれが神聖な事柄において前進するためのものです。主よ、私を前進させてください。あなたが来られる時、あなたが私の霊に欠け目や、なんの力の不足も見いださないようにしてください。

天の神よ、あなたがあらゆる罪から私を救ってくださったことを私は知っています。あなたが罪に対するあらゆる欲求から私を救ってくださったことを私は知っています。私は罪を憎みます。不潔を蔑みます。しかし、ああ、主よ、この問題の積極面には他の事柄もなければならないことを私は知っています。私はそれを必要としており、それを得なければなりません。ああ、主よ、私に対するあなたの御旨は、私がこのような真理を宣べ伝えて、しかし、それから自分自身の魂のためにはなにも得ない、ということではありません。

ああ、力ある神よ!われわれが突入するあらゆる戦いで、われわれを圧倒的な勝利者にしてください。戦いを引き起こしてください。われわれにはなにもできませんが、あなたは戦いを引き起こしてくださると、あなたに信頼します。この集会はあなたのものです。主なる神よ、すべてを顧みてください。ここに飢えている人々がいます。しかし、その人々をわれわれは救うことができません。われわれにできるのは、彼らをあなたに委ねることだけです。ここに哀れな、重荷を負った人々がいます。彼らは幸いでなく、救われないかぎり、幸いになれません。彼らをあなたにお任せします。今晩イエスが来てくださったとしても、われわれには用意ができています。ここでひざまずいている間にイエスが来てくださったとしても、われわれには用意ができています。神はわれわれを救って満たしてくださいました。われわれには用意ができています。神が今晩来てくださることを望みます。罪のこの恐ろしい悲劇に終止符が打たれるのを見ることを望みます。

力ある神よ!力ある神よ!あわれんでください。男たちは滅びつつあります。女たちは滅びつつあります。教会員たちは滅びつつあります。われわれの友人たちは地獄に行こうとしています。「救われなくてもかまわない」と、彼らは断言しています。神よ、彼らを助けてください!御力を振るってください。今晩をある人々にとって恐るべき夜としてください。聖徒たちには素晴らしい夜とし、罪人たちには恐ろしい夜としてください。主よ、われわれはあなたに信頼します。あなたを待ち望みます。ナザレのキリストを崇めます。人々が唾を吐いて十字架につけた神の御子を崇めます。人々は彼を嘲って茨の冠をかぶせましたが、今晩、われわれは彼を礼拝します。彼を崇めます。この宇宙中に知ってもらいたいのです。われわれは彼の足下にかがむことを。彼の御顔を仰ぎ見ると、自分に最も近しい大切なものがすべて見えることを。彼がいなければ天は天ではありません。彼がいなければ地は地獄です。彼の御名によって祈ります。アーメン、アーメン!